知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

神社の歴史的変遷と多様性

2018年01月10日 08時19分42秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第三章より。

 長らく私が知りたかった神社の真実がこの項目に書かれていました。
 神社の多様性は、こんなふうにして生まれて展開してきたのですねえ。
 変遷の歴史の中で、変化しなかったコアの部分とは「心のよりどころ」「一致団結ためのシステム」でしょうか。

<近畿地方での神社の変遷>
(平安時代)荘園領主によって荘園鎮守社として創建された。
(鎌倉時代)荘園の現地経営に当たっていた在地武士達にとっての氏神となる
(江戸時代)荘園は懈怠されそれを校正していた村落の住民にとって村の氏神に位置づけられるようになった。

荘園鎮守社
 平安京を中心とする畿内に拠点を構える荘園領主が任命し現地に派遣する専門的な祭祀職能者が中心となり、現地では荘官として荘園経営に当たる公文や地頭など呼ばれた在地武士が世俗的にそれを支える形が一般的であった。

宮座祭祀
 中世(鎌倉時代)の在地武士の氏神へ展開していく中で、その有力撫しそうの間で順番に当屋を決めて祭祀する宮座祭祀という方式がとられるようになった。

村落祭祀
 近世社会(江戸時代)の村落祭祀へと展開すると、有力な村落住民の間で順番に当屋を決めて一年神主として務める宮座祭祀の形がとられるようになり、現在に至る。

<近畿地方以外での神社の変遷>
(例として本書では中国地方の広島県北広島町を取り上げている)

(第一段階)山の神や田の神や水の神などへの素朴な土着的な神々への信仰
(第二段階)大歳神(おおとしのかみ)や黄幡神(おうばんしん)など古代中世の時代に浸透してきた外来的な神々への信仰
(第三段階)中世の戦乱の時代に在地支配の権力闘争の中で中小武士層が導入した熊野新宮社などの信仰
(第四段階)より強力な戦国武将が台頭して導入し村落農民層との呼応関係の中で定着化させていった八幡神社の信仰

熊野新宮社の勧請
 南北朝期からそれ以降の一定の時期に、熊野新宮の御師(おし)の活動かあるいはその他の要因かで、この地域に熊野新宮社の勧請という波動が起こっていた。神仏習合と修験道をも加えた霊験あらたかな熊野権現の信仰は、戦乱の相次ぐこの地域の在地領主層にも受け入れられたのであろう。

大歳神・大歳神社
 大歳神は古い文献では古代以来の農作稲作の神であり、その後は陰陽道の大歳神(だいさいしん)の信仰が集合するなどして、西日本の各地で祭られている神である。
 在地経済の持続的継続性の上で最も肝要なのは、「武運長久」とならぶ「五穀豊穣」「庄民快楽」「子孫繁盛」であり、それは農業生産の守護神としての大歳神社の信仰が、現地の経営上、領主にも領民にも広く浸透し共有されてきていたことが推定される。神社名は別でも境内社に大歳神を祭っているところが多い。

郷村の氏神の変遷と多様性
(古い由緒を持つ氏神の神社)中世以来の在地領主層が大檀那として祭り領民もそれに参加してきた神社
(村ごとの氏神)在地領主層の支持もありながら、あくまでも村民が主体となって祭ってきた神社
(小字ごとの小さな神社)その小字の人達がもっとも身近な自分たちの守り神として祭ってきた神社
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「律令祭祀制」と「平安祭祀... | トップ | 柳田国男の氏神論「日本の神... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

神社・神道」カテゴリの最新記事