知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

NHK 100分de名著 道元「正法眼蔵」

2016年12月05日 08時23分26秒 | 寺・仏教
 2016年11月に放映された番組を録画してまとめて視聴しました。
 誤解を恐れずに、私が理解したことを記してみます。



 道元以前の仏教では、「仏性」は「人間が誰しも生まれながらに持ち合わせているもの」で「それを体現することが修行である」とされてきました。
 しかし道元は、「この世の全てが仏性である」「それを認めれば悟りに至る」と説きました。

 な〜んだ、簡単、簡単・・・というわけにはいきません。

 座禅することだけが“修行”ではなく、生活全部が“修行”になるのです。
 食べることも掃除することも寝ることも。
 つまり、常に“修行”としての緊張感を持って生活することになります。

 道元の教えの要は「心身脱落」であり、その意味するところは「身も心も捨て去ることが悟りの境地である」ということ。
 ものごとを色眼鏡で見ないで、あるがままに見て認める・受け入れること。

 これは、古今東西の心理学者も同じようなことを言ってますね。
 ただ、現状を認めるだけでは、進歩が無くなってしまいます。

 人間は現状に満足せず、向上心を持って行動して発展してきました。
 ですから、道元の「心身脱落」を含めて、宗教は頑張っている人間のサプリメント、程度に考えた方がよいと思います。
 「こんな休憩の仕方があるよ」というアドバイス。

 解説者のひろちさやさんも「心身解脱は日常生活の中ではちょっとだけ考えればいいのです。それに浸ってしまうと死んでいるのと同じすから」と番組の最後につぶやいていたのを、私は見逃しませんでした(^^;)。


100分de名著「道元『正法眼蔵』」(しょうぼうげんぞう)
 日本に禅の思想を確立した一人といわれる、鎌倉時代初期の禅僧・道元(1200~1253)。彼は曹洞宗の宗祖であり、主著「正法眼蔵」は、坐禅のマニュアルや心得として今も多くの人に読み継がれています。ですが、この「正法眼蔵」は単なる「坐禅の書」ではありません。日本の思想家・和辻哲郎やアップルの創始者・スティーブ・ジョブズに影響を与えるなど、一宗派を超えて後世に大きな影響を与え続けています。いわば「人間や世界の本質を問い続ける哲学書」として読み解けるのが「正法眼蔵」なのです。そこで「100分de名著」では、「正法眼蔵」に新しい光を当てなおし、現代に通じるメッセージを読み解きたいと思います。
 道元は、京都の貴族の名門に生まれたが、幼くして両親を失いました。世の無常を感じ取った道元は、十四歳にして比叡山に入り出家。しかし一つの疑問に逢着します。仏教では「人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏である」と説かれているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか? 比叡山では解決を得られなかった道元は、山を下り禅の本場である宋に渡りました。そこでも迷い続けた道元でしたが、最後に出会った如浄禅師の下で参禅中に頓悟。「仏性をもっているのになぜ修行せねばならないのか」という自身の発問の仕方自体がおかしかったことに気づきます。その問いは実はあべこべであり、真実は「われわれは仏だからこそ修行ができる」だった……そう悟ったのです。
 自らが悟りを後世に伝えるためにライフワークとして書き残した「正法眼蔵」を読み解くキーワードは「身心脱落」。「悟り」は求めて得られるものではありません。「悟り」を求めている自己を消滅させることで「真理の世界」の中に溶け込むこと…それこそが「身心脱落」なのです。一言でいえば「あらゆる自我意識を捨ててしまうことで、病や老い、死などの現象をあるがまま、そのままに受け容れる境地だ」と仏教思想家のひろさちやさんはいいます。そこには、強い自我意識に縛られ競争心を煽られて、骨身を削られるようなストレスにさらされ続ける現代人が学び取るべき指針がちりばめられています。
 厳しい競争社会の中で、気がつけば身も心も何かに追われ生き方を見失いがちな現代。人間や世界の本質に対する深い洞察がこめられた「正法眼蔵」の言葉から、不安や迷いの多い現代を生き抜くための知恵を学んでいきます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水俣病/水銀汚染関連記事 | トップ | 岡倉天心の「Asia is one」と... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

寺・仏教」カテゴリの最新記事