知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「子育ての民俗を訪ねて」by 姫田忠義

2012年01月12日 09時05分32秒 | 民俗学
 副題「~いのちと文化をつなぐ~」
 柏樹社、1983年発行

 前項「忘れられた日本の文化」に触発されて、手元にある他の姫田さんの著書を読んでみました。
 内容は、彼が「民族文化映像研究所」の仕事として日本各地を訪れた際に見聞きした子育て文化に関する文章をまとめたものです。

 う~ん、やはりこの人の著書は肩に力が入っているというか頭でっかちの印象が拭えず、読んでいてちょっと疲れます。現象をもとに推論しているのですが、それが多すぎて概念が先走ってしまう感があります。
 宮本常一氏の「忘れられた日本人」のように、消えつつある生活習俗を列挙し、それを読んでいるうちにぼんやりと「日本」が浮かび上がっている感動は、残念ながらありません。

 ま、それはさておき・・・。

 日本古来の一般人の生活を垣間見ると「弱き者は寄り添い工夫して生き延びてきた」という厳しい現実に突き当たります。
 夫婦・親子の絆、地域の結びつきが現在よりも強かったのは、取りも直さずそうしなければ生きていけなかったから。そして「生きるための知恵」が随所に散りばめられているのを発見することになります。

 当然、子育て習俗にも反映されます。
 子どもを育て、一人前の働き手にするシステムが家・村に存在するのです。もちろん学校がない時代から。
 記憶に残った箇所を列挙します;

与論島では一人で子どもを産む
 この島では、家族にも誰にも知られないで一人で出産するのが賢い女のすることだとされていた。出産を家族や他人に知られるのは恥だった。産婦は昼間の畑で一人で産み落とし、自分の下着にくるんで帰ったり、夜であれば、主人に知られないように奥の間で一人で産み落とし、産み落とした後に主人を起こしたりした。ヘソの緒は、一人でヤンバルダイ(琉球竹)で切り、マフウ(麻)でしばった。そして1週間ほど、火の燃えるジュウの横で休ませてもらった後、体を慣らしながらふだんの生活に戻っていった。
 この村に産婆さんが登場したのは昭和15年頃だが、その後も自宅分娩がふつうだった。
 出産は自分の力でするものだという気風が、今も脈々と生きている
 しかし、昨今の日本では、そうでもない様子。出産であろうが何であろうが、すべて医者任せの風潮が嘆かわしい。
 ここで生まれた子には、和風の名をつける前にまず伝統的な島風の名(先祖から子孫へ次々に伝えられてきた名)をつける習わしがある。子どもは単に夫婦の子ではなく、先祖から与えられ、神から与えられたものだという意識が脈々と生きており、特に女性にそれが深々と伝えられている。

子どもは神からの授かりもの
 埼玉県秩父地方では「7歳までは神の子」「7~15歳は村の子」「15歳以上は村の人」という。
 これは7歳まで生き延びるのが大変だった時代の名残もあると思われる。事実、7歳になるまで祭事が多く存在し、子どもの発育・成長を喜びながら大切に見守ってきたことの表れであろう。
 伝統的な日本人の認識では、子どもは決して親という個人のなにものかではなく、社会的な集団の一員であり、ことに7歳まではその社会全体が注意深く見守るべき「授かりもの」であった。今日の私たちには、そういう意識が欠落してきていると云わざるを得ない。

大和撫子の意味
 昭和初期は戦争を繰り返した時代だった。
 天皇・国家に忠実な国民として、男には「醜の御楯」「山桜」、女には「大和撫子」という言葉が盛んに使われた。
 ナデシコは秋の七草の一つに数えられた野草で、撫子(撫でる子、愛撫したい子)と書いた。昔の人はこの野草に強い愛着を持ち、また子ども(あるいは女性)への愛情をこの野草の名に託して歌に詠み込んだりしてきた。
 そしてそれが、国民はすべて天皇の赤子だという言い方と同じように、女は大和(国家)の撫子である、天皇の撫子である、というふうに利用されるようになった。撫子として生きるのが女らしさである、言い換えれば愛撫され服従して生きるのが女らしさである、ということ。
 古来日本人が抱いてきた自然の草木への愛情や純なる人間的愛情の表現が、見事に天皇制国家主義のうたい文句に利用されたのである。

トシドン~失われた「郷中教育」
 鹿児島県下甑島では、毎年大晦日の夜行われる「トシドン」という正月迎えの行事がある。トシドン(歳どん)と呼ばれる異形の神が子どものいる家々を訪れて回る行事で、秋田の「ナマハゲ」や能登半島の「アマミハギ」などと共通の性質の行事である。
 トシドンは伝承によれば天上から首のない馬に乗って降りてくる神様。その異形の神様が闇の中から「おるか、おるかーっ。おるなら雨戸を開けーいっ」と大声で呼ばわる。
 トシドンを迎えるのは3~7歳の子ども。家の中で裸電球一つの暗がりで、子ども達は親と一緒に正座し息を殺して待っている。
 トシドンが入ってくると、親は子どもにきちんと挨拶をさせる。トシドンは容赦なしにふだんの行い・いたづらを問い詰め、改めるべきことは改めるかどうか子ども達の返答を迫る。そして最後は褒め、諭して去っていく。
 つまりトシドンは、子どもを怖がらせるためにくるのではなく、子どもを諭したり励ましたりするためにくるのである。
 そしてトシドンが与えてくれる餅(モチ)がトシダマと呼ぶ。トシダマは、新しいトシ(歳・年)のタマシイ(魂)という意味。今日私たちがお年玉といっているのは、本来そういう意味のもので、それが今ではお金になっている。
 トシドンに変装するのは今は大人だが、第二次世界大戦が終わるまでは7~15歳の子どもが担当した。ということは、3~7歳は迎える側、7歳を過ぎると今度は訪ねる側になるのである。子どもは「教え諭される側から教え諭す側になる」という両方の体験をすることになり、そして15歳を過ぎると様々な村の仕事や行事の担い手となっていく。この3つの段階を「郷中教育」という。
 今の学校教育では、子ども達は常に一方的に「教えられる側」にある。「郷中教育」では、最初は「教えられる側」であるが、すぐに「教える側」になり、しかも絶えず「教えられる側」でもあるという優れた面を持つ。
 なによりもトシドンには、子どもが子どもを教える、子ども同士が教えあうという非常に大事な、また最も有効な教育のあり方、さらには文化の伝承の仕方が内包されている。
 そもそも教育とは何だろうか、それは、人間の自覚を促すと云うことではないだろうか。


 子どもがまともに育ちにくい今の時代、含蓄に富む言葉です。

※ 「トシドン」の動画を見つけました;
種子島行事・鞍勇(くらざみ)の仮面神「トシドン」
種子島行事・野木野平の仮面神「トシドン」

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