海外では「こんな事で目くじらを立てるの?」と思うような記事が載ることがある。
最初の記事は、ニューヨーク(ウォール・ストリート・ジャーナル)の「『ポストPC時代』にAppleの勝機あり」だ。
『ポストPC時代』なんて、最近の日本の政治関係のニュースを見ているみたいなタイトルだが、何が書かれているかというと、これまでのMicrosoft-Intel連合のような、独占している部分と開放している部分を明確に分けた商売の形態(コンポーネントモデルと表現されている)は大成功したが、近年はiPodのようなAppleが全てを独占的に作る商売(エンド・ツー・エンド・モデルと呼ぶらしい)が大成功している事を取り上げて、将来的には「エンド・ツー・エンド・モデル」が主流になるかもしれないと延々と書いている。
延々と書きすぎて、論点がぼやけてるように思うが、翻訳されてるから、英文ほどにインパクトが無いだけかもしれない。
それに対して、即日で同じウォール・ストリート・ジャーナル紙に、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長と、インテルのポール・オッテリーニ最高経営責任者(CEO)が共同で反論をしている。
「PC時代は終わっていない――ゲイツ氏・オッテリーニ氏寄稿」だ。
こっちの方は簡潔で、「まだまだ、これからや!」ってな内容。
もちろん、関西弁ではないが・・・
どちらにしても、アメリカ人的な感覚なんだなと思う。
実際のところ、日本では、PCとiPodが同じ土俵にいるなんて感覚は無いと思う。
日本では、実際に出荷されている製品が議論の中心になるからだ。
いくら軽くなったとはいえ、電車やバスで音楽を聴くのにノートPCを持ち歩く人は皆無に等しい。
しかし、アメリカでは、そんな使い道が論点になっているのではない。
『ビジネス・モデル』が議論の対象になっているのだ。
アメリカ人はこういうのが本当に好きだと思う。
我々の業界でも、システムを作るにあたって、様々な開発手法がアメリカから渡来してきて、成功した一部の広告塔以外は散々な目にあっている。
『手法』というものを考えるのが好きで、それがビジネス・チャンスとなるのがアメリカなのかもしれない。
日本はやっぱり、「作って何ぼ」なのが性に合ってる。
勿論『ポストPC』は非常に気になるところだ。
PCを追いやるような『キラーコンテンツ』なんて出来るのだろうか。
現在のPCは様々なAV家電の代わりになるべく努力しようとしている。
「PC時代は終わっていない――ゲイツ氏・オッテリーニ氏寄稿」ではこう書かれている。
だがPCは当初の用途を大きく超えて、洗練された文書作成や表計算のツール以上のものになった。今日、わたしたちはPCを通信機器、ラジオ、テレビ、映画館、フォトアルバムとして使っている。
しかし、それぞれ単体で見れば専用機のほうが優れている。
そもそも、映画館で見る映画に対抗するのが間違っていると思う。
今のPCの存在意義は、それらを融合しているところにあると思う。
模造品が組み合わされて、オリジナルに無い機能を作り出しているのだ。
NECのPC98シリーズが日本で広がりだしたPC草創期から今の仕事をしているが、携帯電話が急速に広まって生活を一変したように、PCが時代を作ったような気はしない。
一般人には「よく分からない箱」なのは今も昔も同じだ。
ただ、使える人が増えただけだ。
人口が増えたのと同じように。
『ポストPC』とは、次の「よく分からない箱」は何なのか、という事だろうか?
それなら、多分、いつまで経っても、「よく分からない箱」はPC以外にはありえないと思う。
最初の記事は、ニューヨーク(ウォール・ストリート・ジャーナル)の「『ポストPC時代』にAppleの勝機あり」だ。
IT media News より。
『ポストPC時代』なんて、最近の日本の政治関係のニュースを見ているみたいなタイトルだが、何が書かれているかというと、これまでのMicrosoft-Intel連合のような、独占している部分と開放している部分を明確に分けた商売の形態(コンポーネントモデルと表現されている)は大成功したが、近年はiPodのようなAppleが全てを独占的に作る商売(エンド・ツー・エンド・モデルと呼ぶらしい)が大成功している事を取り上げて、将来的には「エンド・ツー・エンド・モデル」が主流になるかもしれないと延々と書いている。
延々と書きすぎて、論点がぼやけてるように思うが、翻訳されてるから、英文ほどにインパクトが無いだけかもしれない。
それに対して、即日で同じウォール・ストリート・ジャーナル紙に、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長と、インテルのポール・オッテリーニ最高経営責任者(CEO)が共同で反論をしている。
「PC時代は終わっていない――ゲイツ氏・オッテリーニ氏寄稿」だ。
IT media News より。
こっちの方は簡潔で、「まだまだ、これからや!」ってな内容。
もちろん、関西弁ではないが・・・
どちらにしても、アメリカ人的な感覚なんだなと思う。
実際のところ、日本では、PCとiPodが同じ土俵にいるなんて感覚は無いと思う。
日本では、実際に出荷されている製品が議論の中心になるからだ。
いくら軽くなったとはいえ、電車やバスで音楽を聴くのにノートPCを持ち歩く人は皆無に等しい。
しかし、アメリカでは、そんな使い道が論点になっているのではない。
『ビジネス・モデル』が議論の対象になっているのだ。
アメリカ人はこういうのが本当に好きだと思う。
我々の業界でも、システムを作るにあたって、様々な開発手法がアメリカから渡来してきて、成功した一部の広告塔以外は散々な目にあっている。
『手法』というものを考えるのが好きで、それがビジネス・チャンスとなるのがアメリカなのかもしれない。
日本はやっぱり、「作って何ぼ」なのが性に合ってる。
勿論『ポストPC』は非常に気になるところだ。
PCを追いやるような『キラーコンテンツ』なんて出来るのだろうか。
現在のPCは様々なAV家電の代わりになるべく努力しようとしている。
「PC時代は終わっていない――ゲイツ氏・オッテリーニ氏寄稿」ではこう書かれている。
だがPCは当初の用途を大きく超えて、洗練された文書作成や表計算のツール以上のものになった。今日、わたしたちはPCを通信機器、ラジオ、テレビ、映画館、フォトアルバムとして使っている。
しかし、それぞれ単体で見れば専用機のほうが優れている。
そもそも、映画館で見る映画に対抗するのが間違っていると思う。
今のPCの存在意義は、それらを融合しているところにあると思う。
模造品が組み合わされて、オリジナルに無い機能を作り出しているのだ。
NECのPC98シリーズが日本で広がりだしたPC草創期から今の仕事をしているが、携帯電話が急速に広まって生活を一変したように、PCが時代を作ったような気はしない。
一般人には「よく分からない箱」なのは今も昔も同じだ。
ただ、使える人が増えただけだ。
人口が増えたのと同じように。
『ポストPC』とは、次の「よく分からない箱」は何なのか、という事だろうか?
それなら、多分、いつまで経っても、「よく分からない箱」はPC以外にはありえないと思う。