今日は、山代温泉のおはなしです。
↑明治期の山代温泉総湯 ↑加賀國山代温泉所全図(明治34年)
山代温泉では、湯女(ゆな)のことを、「太鼓の胴(タイコンド)」とよびます。
そして、湯の曲輪のすぐ近くにある専光寺というお寺に湯女にまつわるとても悲しい
お話しが伝わっていますので、ご紹介します。
『太鼓の胴』
江戸時代の中頃、山代温泉の専光寺に幸蔵というイケメンの堂守がいました。
毎日暮れ四ツ(午後十時)と明け六ツ(午前四時)に時を告げるために、堂の太鼓を
打つ仕事をしていました。そして当時の湯女の自由時間は暮れ四ツ(夜十時)から
明け六ツ(翌朝の四時)までと決められていました。
この堂守の幸蔵は「お光」という純情で可憐な湯女と恋に落ち、二人は暮れ四ツの
太鼓のあと、人目を忍んで、専光寺の四畳半の狭い太鼓の堂をデートの場所として
落ち逢うようになりました。若い二人にとって、そのひとときはとても幸せな時間だった
と思います。
ところが、お光が毎日の厳しい仕事と風邪がもとで床に伏すことになり、幸蔵のもとへ
行けなくなってしまいました。でも誰かに頼んでそのことを幸蔵に知らせるわけにも
いきません。そうとも知らず幸蔵は毎晩暮れ四ツの太鼓を打ち、お光が来るのを
待ちつづけました。しかし、お光は来てくれません。そして幸蔵はお光と逢えない苦しさ
から、とうとう半狂乱となりました。
幸蔵はその日暮れ六ツ(午後六時)から、「お光!」「お光!」と名前を叫びながら、
止むことなく太鼓を打ち続けました。
そのころ、お光は幸蔵の狂わしいまでに打ち響く太鼓の音を聞きながら、はかなくも
散っていったのです。お光の死を知らされた幸蔵は、この世に生きる希望を失い、
専光寺境内の古池にわが身を投げてお光の後を追いました。
この悲しいお話しは、山代温泉の人びとに語り継がれ、いつしか山代では湯女のことを
「太鼓の堂」転じて「太鼓の胴(タイコンド)」と呼ぶようになったそうです。
(情報ビジネス科課題研究『実高ふれ愛隊日記』より)
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