Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/上海市黄浦区

2023-07-09 14:34:56 | 旅行

2003年の記録

夏を迎え、SARSが沈静化したため、約1年ぶりの上海。仕事から帰った後に旧市街のウィークリーマンション周辺を散策した時の記録。

 

 

自室からは、背後の高層ビルに囲まれながらも生活が息づく伝統的な人民住宅を鳥瞰できた。

 

 

黄浦区は、上海旧市街の中心の中心、人民広場、南京路、外灘、豫園・・・・と日本でも知名度の高い区域である。

 

 

まだ、電動スクータより自転車が多く、日本人がイメージした“人民中国”そのものだ。

 

 

スマホがない時代、ファッション情報は、専ら街角の小売部(キオスク)で販売されている雑誌だったと思う。

 

 

まだ、まだ庶民の生活する街だったと思う。露店にシートを拡げる行商人が、夕方に現れていた。(李克強前首相の提唱で“露店経済”として復活した。)

 

 

店先で調理するので、夕方になると香辛料のにおいと水蒸気で、街を歩くというより身体に絡みつく熱気の中を泳ぐような感覚だった。

 

露店のトランプや花札、将棋も、良くる光景。上半身裸の男性も自然に存在する。

 

コンドームを筆頭にナイト用品は、何の後ろめたさも、恥ずかしさもなく堂々と販売する中国。

 

 

2008年の五輪開催に向けての驚異的な経済成長の傍ら、内陸部から上海などの沿海都市に盲目的に流入する人々“盲流”の光と影。街には物乞い、浮浪児が散見された。

 

 

建設足場が、竹から鉄パイプへと変わっていく頃だったと思う。建設や製造の現場では、安全靴どころかサンダル、裸足で闊歩する民工が、まだまだ存在した。

 

 

【メモ】

2002年末から2003年夏前に中国でまん延した“SARS”は、昨今のコロナと比較すると、チョロかったのかもしれない。しかし、当時は、中国に渡航できず、中国内移動にも制約が設けられ、一大事件だった。

 

40フィートコンテナ10数台分の安全柵の製造を上海企業に委託していた。最低でも、初品、中間、出荷前の3回は、検査に行くことにしていたが、結局、渡航できるようになったのは、出荷前の7月に1回のみ。気温40度を超える炎天下で、来る日も来る日も1人で検査したことは、今となっては良い思い出。30分炎天下で、検査をしたら10分は、応接室の冷房機の前で身体を冷やさないと身がもたない。あれ以来、暑さには、滅法強くなった気がする。

 

そもそも、現地の中国人検査部長からは、全数検査して、修正を指示したので、「安心してください」と聞いていた。ところが、修正など、まったくなされていない。激怒する検査部長に対して、委託先の総経理は、「Zhenが見てもダメなら修正する。Zhenが、『このままでOK』と言うかもしれないからね。」と、しゃぁしゃあと弁解する始末だ。中国人検査部長が、ダメと言っているものを日本から来た僕がOKする訳ないのだ。実際、現地検査員の検査が過剰であることはあるが、それにケチを付けたら、検査部長の面子を潰すことになり、それだけでは済まなくなる。そんなこと、僕は絶対にしない。

 

結果的に1週間24時間2交替の突貫作業で、すべてを修正させた。求めれば、作業員が、どこからか次々現れるのが、かつての良き中国。ほんとうに懐かしい。

 

 

旅は続く