2003年の記録
夏を迎え、SARSが沈静化したため、約1年ぶりの上海。休日に郊外の朱家角鎮を散策した時の記録。
朱家角鎮は、すでに観光地になっていたが、路地に入れば、庶民の生活が、息づいていた。
今は地下鉄が走る朱家角鎮であるが、20年前は、人民広場からバスで1時間以上も離れた上海市の外れの田舎だった。
人民広場のバス停を見つけるのに炎天下を30分以上歩き回った。商店や通行人に聞くと、「あっち行って、××を右だよ。」と教えてくれるが、あたっているのは、“あっち”まで。××が違っていたり、右でなくて左だったりと。要するに“あっち”まで行って、“あっち”で、訊ねることを繰り返す。それでも、たどり着けたのは奇跡だと上海人の友人に言われた。「俺には、できない。カネが掛かってもタクシーに乗る」と。
往路は、冷房付きのバスだったと思うが、復路のバスは、冷房なしで、窓はもちろん扉も全開。グラサンの若い運ちゃんは、好みの音楽をガンガン流し、一般車を追い抜く爆走だった。思い返すと、冷や汗ものなのだが、爆走も愉快に思えたのは、僕も若かったからか。
バスの終着・朱家角鎮は、一応、観光地の体をなしていたが、南国の田舎町の風情だった。
水路には、夫婦の手漕ぎの小舟が浮かぶ。水郷古鎮らしい光景。
通りに面して商店や食堂の表口があり、裏が水路になっているのは、水郷共通。
商店街から庶民の居住エリアに移ると、昭和30年代にタイムスリップしたような気持になり、猥雑だけど、どこか懐かしい。(現実的には、僕は覚えていないどころか、生まれてもいない)
基本的には、庶民の居宅も裏には水路があり、水路で洗濯や食器も洗う。衛生観念が低いと言えば、それまでなのだけど。
水路に浮かぶ屋根のある大きめの船は、水上生活者の居宅になっているのかもしれない。日本でも、かつては、水上生活者がいたと聞く。
ドヤ街にも庶民の住宅地にも露店も含めて理髪店をよく見つける。理髪店は、最も少額の投資で商売を始められるので、貧しい家庭の子女が商売を始めるきっかけになるのかもしれない。ただし、それは、あくまでも通過点。繁盛して、小ガネが貯まれば、さらに大きなビジネスに鞍替えする。もちろん、誰もが成功する訳ではないので、生涯しがない髪結いで終わる人もいれば、僕の友人のように紆余曲折あって、最後に髪結いに戻る人もいる。
日本では、あまり見なくなったが、牛乳の配達箱だろうか?
中国の旧市街や古鎮に行くと、日がな一日自宅の前に座り、声を掛けても、静かにほほ笑むだけのおじいちゃんおばあちゃんがいる。
運河沿いには、崩れ落ちそうな古い建物が並ぶ。それでも、よく見るとエアコンが設置されている家もある。まぁ、自転車を見ると、中国らしさを感じるけどね。
石橋を渡り、再び繁華街に戻る。観光地らしく、アベックが歩き、レストランの提灯が飾られ、土産物屋の旗がはためく。
果物を天秤で担ぎ売り歩く行商人、店頭には、果物が豊富にならぶ。桃は季節だが、紅富士(ふじ品種のリンゴ)は、季節ハズレだけど、1.5kgで約70円(当時のレート)。 「斤」は、500gを意味する重量単位で、中国では、食料品の量り売り単位として一般的に使われる。
【メモ】
連日の炎天下の作業も終わりが見えてきた日曜日に上海郊外にある水郷古鎮の朱家角鎮に行った。今ならエアコンの効いた自室で終日ボーとしているんじゃないだろうか? でも、20年前の僕は若かった。まだ、8時前だと言うのにすでに気温は40℃を超え、太陽は挑戦的な熱線を浴びせてきた。まるで“北風と太陽”の“北風”の如く。“暑い”のではなく、“熱い”と表現すべきだったと思う。
“気温40℃”は、中国では、特別な意味がある。 “気温40℃”になると、現場は休業にするか、特別手当を支払わなくてはならなくなる。よって、政府発表は、39.8℃となること多々。
以降、極めて個人的なメモである。実は、この時、すでに僕は人事部門に異動していた。前職の残務処理で上海に来た訳なのだ。しばらくは、中国に来ることはないと思う反面、「必ず帰って来るぞ!」と秘かに誓っていた。(結果的には、2年後に来ている。)
人事と書いて、“ひとごと” と読むような“人斬り”(正社員リストラ)と“人買い”(派遣社員の採用)の仕事だった。サラリーパーソンのプライドで、嫌な仕事でも手抜きなしで、ふりきっていたのだから鬼か、悪魔と思われていたのだと思う。(笑) 今思い返すと、私生活は、荒んでいた。まぁ、その話は、また、別の物語だ。
旅は続く