Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

Go to West ! 第7回 / シャフリサーブス

2021-02-14 22:23:10 | 旅行

2019年の記録

ウズベキスタンらしからぬ厚い雲と鳥

 

シャフリサーブスは、日本では知名度の低いウズベキスタンの地方都市で、首都・タシケントと比べるまでもなく、ブハラよりも更に田舎だ。中央アジアを席巻した最初で最大の帝国・ティムール朝の創始者アミール・ティムール(アミールは司令官の意味の称号)の故郷であり、夏の宮殿が建設された歴史的な街であるものの、ソ連時代には、一地方都市になっていた。ソ連からの独立後に民族の英雄としてのアミール・ティムールにスポットライトをあてることができるようになって、観光都市として活気が戻った。

 

ドルッティロヴァット建築群は、モスクと2つの廟。

 

赤ん坊を抱いた女性の物乞いに遭遇した。弱々しく手を差し出す彼女は、ドキッとするほどの美人だったが、目が死んでいる。彫が深く、浅黒い肌からロマ(ジプシー)だとすぐわかった。赤ん坊は、同情を買うための道具だろう。僕は、一瞬、カネを渡して写真に収めたい気持ちになったが、それは、してはならないことのように思えたし、何よりも、僕には、それだけの度胸もなく、彼女の手を振り払って終わった。彼女は、ウズベキスタンで会った最初で最後の物乞いだった。

 

雨が降り出したかと思うと、雲が流れ青空が顔を出す。ドルッサオダット建築群のハズラティ・イマーム・モスクは、木製の柱が露出している。風雨に晒されるだけに劣化が激しい。

 

入口アーチの残骸だけが残るアク・サライ宮殿跡

 

ウズベキスタンの英雄、アミール・ティムール

 

イスラームの影響なのだろう、男の子は男の子と、女の子は女の子といる。ブロンドの女の子は、満面の笑みで撮影に応じてくれたが、一緒に居た女の子は、シャイなのか逃げてしまった。(笑)

 

 

旅は続く


Go to West ! 第6回 / シャフリサーブスへ

2021-02-13 21:54:59 | 旅行

2019年の記録

レストランに飾られていた人形

 

ブハラからシャフリサーブスへ、何もない草原を南東に移動

 

ブハラで泊まったホテルの郵便ポスト、キリル文字にロシアの残り香を感じる。

 

ブハラを早朝出発、バスでシャフリサーブス向かう。市街地をでると高速道路ではないが、信号もなく、草原の中の一本道を走り続ける。草原には、牛が放牧され、その先には、天然ガスや油井の火が彼方に見える。(天然ガス田や油田は、西部の方が多いが、無尽蔵という訳でもない。)

 

日本とは比較にならないほど広く感じる空

 

3時間以上単調な風景の中を走ったあとにガソリンスダンドでトイレ休憩。ガソリンスタンドの周囲には、何もない。しかし、ガソリンスタンドに給油の三輪バイクが入ってくるのは良いとして、自転車に乗ったオヤジまで来る。ガソリンスタンドの売店に来たのだろうか? 確かなことは、オヤジしかやって来ないということだ。(笑)

ウズベキスタンの男性は、髭を生やしている人が多く、厳つく見えるが、みんなフレンドリーな渋イケメンだ。

 

土埃を被り、見ごろを過ぎているものの血のように赤いバラ

 

正午を過ぎたところで、シャフリサーブスに到着。街は綺麗に整備されている。ひとまずウズベキスタン風のロシア料理店に入り昼食を摂る。チョー腹ペコだったので、どの料理も美味しい。

 

小綺麗なロシア料理店と野菜中心の素朴な料理、そして店の前に停まるラダ

 

旅は続く

 

 


Go to West ! 第5回 / ブハラ

2021-02-11 22:20:02 | 旅行

2019年の記録

タキ・ザルガロンには、色とりどりの雑貨が並ぶ。

 

ブハラは、観光スポットが集中しているので、効率的に周遊することができるが、僕はブハラの街は、“効率的”に見るものではないと思う。観光スポットを外れ、住宅街に入り込み市井のおじさん、おばさん・・・・・・子供たちとおしゃべりをはじめると、アッと言う間に時が流れる。

 

3人組の女の子を撮っていると、「わたしも~」って、2人の女の子が飛び込んできた。

 

タキとは、交差点を丸屋根で覆ったバザールのことで、ブハラには3つのタキが残り、タキ・テルパクフルシャンもその1つ。今は、帽子、スカーフ、鞄、雑貨・・・・・・といった観光客相手の土産物屋が中心になっている。タキの裏手に廻り、朽ちかけた外壁を前に瞳を閉じると、シルクロードを行き交った商人の喧騒が蘇る。

 

タキの中は、明かり取りと白壁で明るい。暗く写っているのは、露出のポイントをどこに置いたかの問題、薄暗く治安が悪いところではない。

 

意図的にソ連時代のラダ(ソ連、ロシアを代表する自動車メーカ)を撮っているが、すでにソ連時代のラダは、消えゆく存在になっている。もちろん、今でもロシアからラダの輸入はあるが、あまり人気がない。米国・ゼネラルモーターズの技術供与、部品供給を受けてウズオート・モーターズ生産されるシボレーブランドが、街中で目立っている。

※ウズベキスタンは、ロシア製を除き完成車に高関税を果たしているので、ウズベキスタン国内生産が中心となるが、部品製造の多くを海外に頼っている。

日本ブランドの乗用車を街中で見ることはないが、商用車、特に市内路線バスの大半は、日本のいすゞブランドである。(サマルカンド・オートモビール・ファクトリーで生産) 僕は国粋主義者ではないが、外国で日本ブランド製品を見ると誇らしく思ってしまう。

タキの裏手に停まっていたラダ、青いラダは、ネットにアップした旅行者の写真にも写り込んでいたので、タキで働いている人のクルマだろうか。

 

マゴリ・アッタリ・モスクは、1936年に掘り起こされたもので、厳密には遺跡だ。内部は絨毯博物館になっている。

 

タキ・テルパクフルシャンからタキ・ザルガロンへ向かう道には、レストラン、ホテルが点在する。

 

アブドゥールアジス・ハン・メドレセ(上)とウルグベク・メドレセ(中、下)は、向かいあっている。文化遺産は、モスクに比べてとメドレセ(神学校)が多い。(現在は土産物屋) ソ連時代、モスクは使い勝手が悪く解体され、メドレセは倉庫としての価値があったといった事情でもあったのか。

 

ウズベキスタンの15歳以上識字率は99%(政府発表)で、前回記載した貧困率約45%を考慮すると、極めて高い数字だと思う。また、大学生の留学は国費で賄われるとも聞く、(通訳のアジさんも1年間信州大学に交換留学していた。) ウルグベク・メドレセの扉に記される「知識欲こそ、ムイリムにはなくてはならないもの」といったウルグ・ベク(ティムール朝め第4代君主)の格言を受け継いでいるためだろうか?(とは言うものの、独立後の国家財政の逼迫で、教育投資は削られ、教育の質低下が心配されている。)

 

タキの裏手の工房では、職人が銅細工をしていた。孫だろうか、男の子も銅細工をして見せてくれた。

 

住宅街へ入り込むと、女の子がいて、恰幅のいいオヤジがいて、孫を抱くお婆ちゃんがいて・・・・・・ 。「アッサラーム アライクム!(こんにちは)」、「ヤクシミスィズ?(お元気ですか)」、「ラフマット!(ありがとう)」、「ハイル(さようなら)」        

 

 

旅は続く


Go to West ! 第4回 / ブハラ

2021-02-10 22:02:55 | 旅行

2019年の記録

ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ前で寛ぐおじさん3人組

 

ナディール・ディヴァンベギ・メドレセは、:ラビハウズの前にある。周辺にレストランや商店が拡がる。

 

旧市街の中心にあるラビハウズは、長方形の池(=ハウズ)で、周囲には木が植えられ木陰があり、オープンカフェになっている。ここで、寛ぐ人たちを見ていると、GDP(国民総生産)やGNI(国民総所得)下位の貧困国とは思えないのである。ラビハウズの木陰は、誰でも来られる、つまり無料。ここのカフェで寛いでいるのが、特別の金持ちだとしたら物乞いの1人や2人がいても良さそうだが、そのような光景を目にすることもなかった。僕は高校の教師に「共産主義は、みんなで平等に貧しくなる思想だ」と教えられた。しかし、その数年後に僕が見た世界の共産主義国は、貧しい国であったが、平等ではなかった。国民の約45%が貧困層(1日2ドル未満で生活している) であるウズベキスタンは、みんなが平等に貧しい“正しい共産主義国”なのだろうか。

※2017年の国民1人あたりGDPは、1,520ドルで、世界平均の20%未満。GNIは、世界187カ国中123位。

 

ラビハウズのカフェのドリンクは、高価なので、住民は、その周囲の木陰で寛いでいる。

 

孫の面倒が、おじいちゃん、おばぁちゃん担当なのは、共産主義国共通のようだ。

 

女の子は概してスリム、年とともにふくよかなおばちゃんに成長する?

 

ナディール・ディヴァンベギ・メドレセは、元々キャラバンサライ(隊商宿)として建設を開始したが、勘違いしたハン(国王)が、「素晴らしいメドレセ」と称賛したので、忖度した大臣が、メドレセにしてしまつたばかりか、偶像崇拝禁止のイスラムの教義に反する(ハンの)顔を描かせた。(古今東西、宮仕えは忖度する。) 中庭はレストラン、それを囲む学生用の部屋は土産物屋になっている。

 

 

ラビハウズの周囲は、観光客相手のレストランやホテルが並ぶものの、路地を抜けると昔ながらの味のある住宅街が続く。

 

 

旅は続く

 


Go to West ! 第3回 / ブハラ

2021-02-07 15:13:46 | 旅行

2019年の記録

ミナレット(光塔)に日輪が重なった。

 

タシケントからブハラまでは、飛行機だと1時間ちょっと。オン・タイムで、あっさりと移動できた。抜けるような紺碧の空が広がり、日中は気温も上昇するが、湿度が低く、暑苦しさを感じない。

 

サマルカンドの世界遺産は、比較的有名だが、サマルカンド以外にもヒヴァ、ブハラ、シャフリサブスに世界遺産がある。はっきり言って、ウズベキスタンは、天然資源(金と石油、天然ガス)と綿花ぐらいしか輸出できるものがない。(あとは“人”で、ロシアほかへのいわゆる出稼ぎ) そこで、世界遺産を資源として、インバウンドに力を入れるといった発想は、悪くないと思う。(個人的には、宗教施設が観光地化されることを手放しで喜ぶ気持ちにはなれないが・・・・・) 2018年2月から日本国籍所持者は、ノービザで入国できるようになったのも、インバウンドに期待するためだ。

 

ウズベキスタンは、日本より2割弱の広い。日本のように海で隔てられた島嶼部はないので、コンパクトにまとまっているものの、首都のタシケントは、国の東端に位置している。ブハラへの移動で、さらに西に進んだことになる。

 

大抵の街が旧市街と新市街に別れていて、歴史的建造物やその土地らしい生活を垣間見ることができるのは旧市街で、ブハラも例外ではなく、旧市街は、概ね2キロ圏内に密集しているので、のんびり散歩するのには、ちょうど良い。

 

日中は、結構な炎天下と乾燥の中を歩くことになるので、チャイハナで休憩&水分補給をするとともに適度にお金を落とすことも必要だと思う。

お茶と甘い砂糖菓子、カラーン・モスクを見おろせるチャイハナにて。

 

イスチロハット公園の中にあるイスマイール・サーマーニ廟は、観光客も少なく、静かに観光できる。真っ四角の変哲もない霊廟だが、内外壁、天井の幾何学模様には、魅かれるものがある。

 

お婆ちゃんと孫なのか?撮影に快く応じてくれた。

 

アルク城(歴代ブハラ・ハーン=王の居城)は、ブハラの有名観光地で、観光用の輪タクが客待ちしていて、「如何にも観光名所です」といった風情だ。入場が有料なのは、あたりまえとして、スマホ以外のカメラ持ち込みは別料金。その類の支払を渋る人がいるけど、それは違うと思う。歴史的建造物を維持するには、カネも必要な訳で、そのカネを負担できる人が、負担するのは、義務で、それをその国の税金(国民)で、何とかしろ!というのは、筋違いだと思う。観光に携わる以外の国民にとって、どれほどの益を生んでいるのか?という話だ。偉そうに書いているが、かつての僕は、渋っていた張本人、加齢とともに、ちょっとは成長したって訳だ。

 

スペイン人の観光客夫婦とカメラ談義に花が咲いてしまい、結構な時間を費やしてしまった。今考えると、何語でどう会話していたのか、まったく思い出せないのだが、ちゃんと話は通じた。もちろん、彼らもニコンユーザーだったので、「僕が使っているD610(出発数日前にニコンに貰った・・・笑)を指して、俺も使っていたけど、重くて、重くて・・・・。今使っているZ7(ミラーレス)は、軽くて、いいぞ!」といった他愛もない内容なのだが。

アルク城に限らずウズベキスタンの建造物では、木材が意外に使われている。砂漠や草原で、木材というのは、ちょっと驚き。それだけの財を投じたということだろうか。

 

ウズベキスタンに限らず途上国に行くと、目的不明ながら日がな一日ベンチに座りニコニコしているおじさん達がいる。

 

昼飯に入ったレストラン、ウズベク語もラテン表記になると、南欧の小洒落たレストラン風に見えてしまうのは、僕だけか?

 

カラーン・モスクとカラーン・ミナレット(大きな・光塔)、ミル・アラブ・メンドレセ(神学校)は、向かいあっている。

旧ソ連時代のカラーン・モスクは、倉庫として使われていた。もし、この国が、もう少し豊かだったらモスクは解体され、使いやすい倉庫が建設されていたのではないかと想像すると、不幸中の幸いと考えるべきなのかもしれない。

カラーン・モスクに繋がっているカラーン・ミナレットは、町中が崩壊した大地震、壊滅のチンギス・ハーン来襲をも越えて存続するブハラの象徴。

 

ミル・アラブ・メンドレセは、ソ連時代も奇跡的に神学校を継続していた。しかし、倉庫になった目の前のモスクを神学生たちは、どんな想いで見たのだろうか?(一番下の写真は、ミル・アラブ・メンドレセから見たカラーン・モスク)

 

ウズベキスタン人は人懐こい、首から一眼レフを下げた外国人を見つけると、「撮って、撮って」と声を掛けてきた。ミル・アラブ・メンドレセ前で。

 

 

旅は続く