Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/瀋陽 第1回

2022-03-31 22:23:52 | 旅行

2005年の記録

 

 

北京オリンピック(2008年)以前の中国の記録を順不同でご紹介する「人民中国の残像」シリーズ。いずれもフィルムカメラで、1枚1枚丁寧にシャッターをきっていた。

2000年上海から始まった中国生活であるが、2005年を境に旧満州の遼寧省に軸足が移った。

 

 

「瀋陽にあった中国国有企業に駐在することになった」と言っても、瀋陽に居を構えることにはならず、県級都市(郡部)の蓋州市と瀋陽を往復するホテル暮らしが続いた。

 

 

集団公司(企業グループ)従業員数1万人超の巨大国有企業に僕は駐在することになった。鉱山機械を製造する企業で、僕の会社とは、すでに20年以上の交流があった。

 

 

中国を移動していると、タイムマシーンに乗っているのではないかと思うほど、都市と農村、沿海部と内陸部の格差は大きい。瀋陽は、中国東北地方(旧満州地域)No.1の工業都市だが、高度成長の先頭を走る上海とは、成長スピードも成長段階も明らかな差があった。道路では、スクータも走っているが、主流は自転車である。それでも、次回以降、掲載する県級都市の蓋州と比較すると、躍進する大都会だった。

 

僕が首からカメラを提げて、瀋陽を散策していたとき、老人から「それ、ロシア製?」と声を掛けられた。1960年代の中ソ対立前は、東欧を含むソ連圏から多くの精密機械、工作機械が輸入されていた。実際、僕の駐在していた工場の古い工作機械は、ソ連・東欧製だった。そんな訳で、僕のカメラをロシア製と思ったのかもしれない。(首から提げていたのはニコンだった)

 

瀋陽の公園で開催されていたフリーマケットで、モスクワ郊外の工場で製造されたZENIT ET+HERIOS 58mmF2付を購入した。

日本でもロシア製カメラは、コレクターズアイテムとして販売されている。その中には、ウクライナ製のKIEVというコンタックスコピー(※)も含まれていた。“ロシアからの贈り物”というキャッチフレーズを付けて販売されていたことに、「ウクライナ製なのに?」といった疑問を誰ひとりとして持たないほど、ロシアとウクライナは一体、少なくとも極東の日本人にとっては。

※第二次世界大戦の敗戦国ドイツのカール・ツァイスにコンタックスの生産設備を接収するとともにドイツ・ドレスデンのツァイス・イエナの技術者を連行して1947年から生産を開始した。生産初期の工作精度は、正にコンタックスそのものであったと言われている。

 

 

【回想録】

「君しかいない」のひとことで、開始早々から沈没しかけていた中国国有企業との合作プロジェクトに引きずり込まれ、現地プロマネ(プロジェクト・マネージャー)として、中国国有企業に駐在することになった。

当時、僕の所属する事業会社は、ある新規事業の失敗で、経営が揺らいでいた。持ち株会社との会議とその準備に掛かりきりのほんとうのプロマネは、「任せた、好きにやれ!」といった有り難い?言葉を掛けてくれた。やる気だけが武器の無知で無謀な僕は、中日双方のメンバーに助けられ、笑い話そのものの中国国有企業で奮闘する日々が始まった。

 

 

【Just Now】

ロシアのウクライナ侵攻は、何かと不可思議なことがある。今や時の人、ウクライナの英雄、ゼレンスキー大統領はユダヤ系ウクライナ人で、祖父はソ連軍でナチス・ドイツと戦い、親戚の多くがホロコーストで命を落としたにも関わらず、ロシアはネオ・ナチ呼ばわりする。

ゼレンスキー大統領は、ウクライナ東部出身のためロシア語を母語にしている。元々ウクライナ語は苦手で俳優業やメディアでは、ロシア語を使用してきた。(大統領当選以降にウクライナ語の特訓を受け、会見等ではほぼウクライナ語を使っている) それなのに、あるいは、それだから停戦協議での、ロシア語公用語化を拒否している。いろいろと、極東の日本人には理解できない深~い事情があるのだろう。

停戦合意のための妥協として、親ロ派が実効支配する東部のドネツク、ルガンスク両州独立承認への流れが気になる。独立したドネツク、ルガンスク両人民共和国が、“ウクライナの北朝鮮”になるのが心配だ。そもそも、朝鮮半島とは、事情が異なる、僕の杞憂であることを祈るばかりだ。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/真壁

2022-03-21 12:21:03 | 旅行

2022年の記録

 

 

伊勢屋旅館に飾られていたひな人形。

 

 

ワクチン接種券が自宅に届き、2ヶ月ぶりにコッソリ帰宅、天気が良かったので、真壁、益子とドライブしたときの記録。

 

 

ほんとうだったら、桜川市真壁町の店舗と住宅160軒ほどに雛人形が飾られるのだが、残念ながら昨年に続き、今年もひな祭り開催中止となってしまった。弊ブログで紹介した2020年以来開催されていないことになる。元々、人影も疎らな街がさらにコロナ禍で寂れてしまったようで悲しくなった。

 

江戸末期から昭和前期にかけて伝統的な造りの建築物が多い真壁には、谷口家住宅、橋本旅館、伊勢屋旅館、鈴木醸造、村井醸造、西岡家住宅、潮田家住宅、旧真壁郵便局、川島書店、小田部鋳造、西岡本店など102棟もの登録有形文化財があり、密集度では日本一の「文化財タウン」となっていて、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。しかも、観光化されていないためほとんどの建物が実際の生活や商売に使われているのも素晴らしい。

 

 

2020年に訪問した旅人カフェは、開店休業状態。帰宅する途中、益子のカフェでランチにした。

 

 

【メモ】

西側諸国のロシアに対する経済制裁が、効きつつある。しかし、効いた相手は、ロシア政府ではなく、ロシア国民である。戦争の被害者は、いつも弱い立場の国民だ。

マクドナルドやスターバックスのロシア店の閉店の一番の被害者は、ロシア民間のフランチャイズのオーナーだと思う。本国のマクドナルドやスターバックスは、ロイヤリティ喪失と営業継続によるイメージダウンを天秤に掛けた結果なのかもしれない。冷徹な判断かもしれないが、ビジネスとは、そんなものだ。

一方、継続、休店と迷走したユニクロ(ファーストリテイリング)の対応は、ちょっと残念だ。僕の友人に柳井さんのブレーンがいるのだが、彼曰く、「ユニクロは、宗教みたいなものですよ。従業員も取引先も、理念の『服を変え、常識を変え、世界を変えていく』を共有できるか、否かがスタートだよ。」 確かにユニクロの生産委託先になるためには、安価な見積を提示するだけでは、取引を始められず、理念に対する理解を評価される。だからこそ、マクドナルドやスターバックスとは、一線を画した「独立自尊の商人」の精神を貫いて欲しかった。

閑話休題、経済制裁が国民生活に効いてくれば、国民内から反戦運動発生、政府もそれを無視できなくなる、というのは、自由な西側の論理かもしれない。厳しい情報統制と強い公権力の国では、西側の経済制裁だけが国民に届き、「なぜ、そうなったのか?」の「なぜ」は消失して、西側への憎悪だけが生まれることが杞憂であることを祈るばかりだ。

ウクライナ国民の苦難に比べたら、我々日本の物価高騰の苦難など、とるに足らないものかもしれない。日々進行する円安に、ため息をつく僕に上司が、ぽつりと言った。

「日本に生まれたことは、十分すぎるほどの幸運だよ。俺は生まれた時にすべての運を使い果たしたのかもしれないな。(笑)」

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/愛知県散策 後編

2022-03-18 22:34:41 | 旅行

2022年の記録

 

 

後編のハイライトとなった旧岡崎銀行本店。

 

 

早朝に名古屋市内を散策したあと、半田、岡崎と東進して、静岡県まで行き宿泊。翌朝、清水教会を訪問して帰宅したときの記録。

 

 

半田市訪問は初めて。 ミツカンブランドで知られる株式会社mizkanの企業城下町のイメージだった。街全体が酢酸臭に覆われてるとは思わなかったが、歴史的建築物は、ミツカンのルーツ中埜酢店(なかのすみせ)関連である。

 

 

名鉄知多半田駅に着いたところで、どうも一駅手前の住吉町駅から散策を始める方が、効率的に散策できることに気がつき、一駅戻って、で下車。

住吉町駅からちょっと歩いたところにあるハーフティンバーの赤レンガ建築物が、1898年(明治31年)竣工の旧丸三麦酒のビール工場である。現在は、観光施設・半田赤レンガ建物(倉庫)として使用されている。

丸三麦酒株式会社は、中埜酢店の四代目又左衛門が設立し、カブトビールブランドを製造していた。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に中島飛行機製作所(株式会社SUBARUの前身)の衣糧倉庫となり、戦後は日本食品化工のコーンスターチ製造工場の一部(主として製品保管倉庫)として1994年(平成6年)まで使用された。

 

 

日本福音ルーテル知多教会半田礼拝所は、1953年(昭和28年)竣工、平屋(一部2階)建築。詳細不明。

 

 

名鉄知多半田駅近くにある旧中埜家住宅(中埜半六の別邸)は、1911年(明治44年)竣工、木造2階建、スレート葺、ハーフティンバー様式の美しい洋館である。1976年(昭和51年)に国の重要文化財に指定された。

 

ミツカンミュージアムを目指して歩く。隣接する旧中埜銀行本店(ミツカングループ本社中央研究所)見学が目的である。ウロウロと歩き回るが見つからない、何のことはない、2012年末に解体されていたのである。残念!(解体されたことも残念だが、自身のリサーチ能力の低さは、もっと残念だ。)

 

ミツカンミュージアムは、コロナ感染防止のため臨時閉館、やむなし。気をとり直して、昼めし処を探しつつ、JR半田駅へ向かう。昼食は、JR半田駅前にあるいわし料理の円芯で、いわしの天ぷら定食を頂く。刺身定食か、天ぷら定食か、迷ったが、ちょっと珍しい天ぷらにした。大当たり、ではないが、十分に美味しかった。

 

 

次の目的地の旧・岡崎銀行本店は、名鉄東岡崎駅近くにある。しかし、名鉄知多半田駅から岡崎方面へ行くには、一旦、名古屋市(神宮前)まで、戻らなくてはならない。さすがに、それは、遠回りなので、JR半田駅からJR武豊線、JR東海道本線、愛知環状鉄道(第三セクター)岡崎公園駅まで行き、岡崎公園を抜けるルートを20分ほど歩くことにした。

 

 

1917年(大正6年)に岡崎銀行本店として竣工、その後、岡崎商工会議所会館を経て、現在は岡崎信用金庫資料館として使用されている。

ルネサンス様式を主体として、外観には御影石と赤レンガが組み合わされ、地上2階建て一部3階建てである。2008年(平成20年)に国の登録有形文化財に指定されている。なお、2019年(平成31年)から約2年をかけて免震化工事が行われた。

 

名鉄東岡崎駅まで歩き、名鉄で豊橋まで行き、JR東海道線を乗り継ぎ、JR静岡駅近くに泊った。途中の豊橋には、美しい豊橋ハリストス教会があるが、現在、建立以来初の全面的補修工事中のためパス。2024年(令和6年)完成を楽しみにすることにした。

 

 

翌朝、新静岡駅から静岡鉄道清水線で、入江岡駅まで行き、カトリック清水教会を訪問した。

カトリック清水教会は、1935年(昭和10年)竣工。築90年近くが経過し、耐震基準を満たしていない木造のカトリック清水教会(静岡市清水区)は、所有者のカトリック横浜司教区が2020年夏に取り壊しを決めた。しかし、戦争遺産としての側面もあり、地域住民らが保存運動を展開、取り壊しは宙に浮いたままになっている。

 

 

カトリック清水教会までの朝の散策を終え、一度ホテルに戻り、JR静岡駅前から高速バスで帰京する。通勤で使っているJR東京駅日本橋口に到着した。

 

 

【メモ】

僕の会社は、数年前からロシアビジネスに力を入れきたので、ロシア人、ロシア語話者を毎年採用している。僕は知的好奇心から「ロシアから見るウクライナ侵攻」について聞いてみたかった。さすがに話したこともないロシア人社員にセンシティブな質問をすることはできず、ロシア語話者の部下(ベラルーシに留学)に聞いてみた。

日本の報道と同様、年配のロシア人は、プーチン大統領支持派が多く、一方、SNSを多用する若い世代では、反戦デモ参加しないまでも、侵攻に懐疑的なつぶやき(Twitter)が多い。しかし、西側諸国の経済制裁が進み、市民生活の圧迫が進んできた最近、西側諸国に対する不満のつぶやきが散見されるようになったという。経済制裁の元凶が、プーチン大統領であることを理解していても、その不満をストレートにつぶやけないためのものか、そんな回りくどい思考はなく、単純な「西側諸国、バカヤロー!」なのかは、わからないと話してくれた。

彼女の話を聞いて、「ロシア、中国と比較すると情報統制が粗いな」と思った。

 

3月16日23時36分ごろ、福島県沖を震源とする地震が発生した。東日本大震災から11年5日後である。ワラビスタンでも激しい揺れを感じたが、被害はなかった。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/愛知県散策 前編

2022-03-14 23:05:25 | 旅行

2022年の記録

 

 

まん延防止等重点措置実施期間中ではあったが、宿泊施設のポイント失効が迫っていたので、こっそり愛知県を散策した時の記録。

 

 

最初は、金曜日の夜に名古屋に入り、朝一番で名古屋、半田、岡崎と東進して、静岡県清水まで行き帰宅する計画だった。しかし、金曜日に警報級の悪天候(降雪)となったので、翌朝・土曜日の始発で名古屋に入り、予定のルートをたどって静岡に宿泊し、翌日曜日の朝、清水教会を訪問して帰宅した。

 

 

名古屋は初めてではないが、まったく土地勘がない。グーグル先生を頼りに地下鉄と徒歩で散策した。

 

 

地下鉄名城線市役所駅で下車して、旧名古屋控訴院に向かう途中に目に飛び込んできたのが、名古屋市役所本庁舎。その隣には、負けじと愛知県庁舎が鎮座している。

名古屋市役所本庁舎は、1933年(昭和8年) 竣工、地上5階地下1階の鉄骨鉄筋コンクリート造である。政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に歴史の長い庁舎である。

一方の愛知県庁舎は、1938年(昭和13年)竣工、地上6階、地下1階、塔屋1階で、上部にはお城のような屋根がついた帝冠様式の鉄骨鉄筋コンクリート造である。2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定された。

愛知県知事の大村氏と名古屋市長の河村氏、2人の発言を聴けば、犬猿の仲なことは一目瞭然だが、犬猿なのは、大村氏、河村氏個人の問題なのか、そもそも愛知県知事と名古屋市長は、そういった関係なのかは知らないが、両庁舎を見ていると、張りあっているように見えてしまうのは、感情移入の度がすぎているのか?

 

 

旧名古屋控訴院は、1922年(大正11年)竣工の赤い煉瓦と白い花崗岩の外壁の煉瓦・鉄筋コンクリート造のネオ・バロック様式を基調とする3階建て洋風官庁建築である。戦前に建築された8か所の控訴院(現在の高等裁判所)のうち、現存する最古の庁舎で、1984年(昭和59年)に国の重要文化財に指定された。現在は、名古屋市市政資料館として保存、使用されている。

 

 

旧名古屋控訴院の道路の反対側には、昭和レトロのトタン壁の司法事務所が連なっている。大半は、移転、閉店しているが、何軒か営業を続けている事務所もあるようだ。

 

 

旧名古屋控訴院から500mほど歩き、高速道路をくぐるとカトリック主税町教会がある。

木造平屋建て、桟瓦葺きの聖堂は、正面玄関ポーチが白漆喰で仕上げられた三連のアーチで構成された特徴的な外見を持ち、1904年(明治37年)に竣工された。1980年(昭和60年)に老朽化に対する大修復が行なわれ、2003年(平成15年)にはそれまで畳敷きであった内部がフローリング化された。

聖堂内を案内して頂いた神父様の住む司祭館は、1930年(昭和5年)に司教館として建てられたもので、木造2階建て、桟瓦葺き、下見板張りの外観を持つ洋風建築である。

司祭館に隣接する信者会館は、明治時代に建てられた木造2階建て、瓦葺き、下見板張りの洋館である。

 

カトリック主税町教会から布池カトリック教会へ移動する途中に発見した昭和レトロな三軒長屋。かつては、どこにでもあった長屋だが、近いうちに見られなくなるだろう。日本の高度成長を支えた勤勉な労働者の慎ましい生活が思い出される。

 

 

目の覚めるような白亜の美しい聖堂は、布池カトリック教会である。

1962年(昭和37年)竣工の大聖堂は、四方をステンドグラス(ドイツ製、イタリア製)に囲まれるゴシック様式鉄骨鉄筋コンクリート構造、聖堂内部3階建て、50メートルの高さを持つ2本の尖塔(内部5階)を持つ。収容人員700名の大聖堂である。2015年(平成27年)に国の登録有形文化財に登録された。

カトリック布池教会から地下鉄東山線新栄駅まで歩き、地下鉄で名古屋駅に戻り、名鉄で半田方面へ移動する。

 

 

【メモ】

プーチン大統領の目論見の通りになれば、北京のプーさんも「中華民族の偉大な復興」へ踏みだすだろう。つまり、対岸にある島のアメリカ帝国主義からの解放に着手するということ。(隠語ばかりで、意味不明?) 米軍が動けば、米軍基地のある日本も標的になる。ロシアのウクライナ侵攻は、日本にとって、遠いい国の惨事ではない。

一方、プーチン大統領の立場になって考えれば、今さら後戻りはできない。「ごめんなさい、お騒がせしました。」と謝っても、世界は彼を許さないだろう。彼にとっては、唯一の防御は、攻撃しかない。

ウクライナ侵攻は、プーチン帝国の終わりの始まりなのかもしれない。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第16回

2022-03-09 20:29:31 | 旅行

2022年の記録

 

 

会社帰りに気軽に夜景の撮影ができるのが、北とぴあに行った時の記録。

 

 

北区王子駅近くにある北とぴあは、オフィスのある東京とワラビスタンの丁度中間にある。

 

 

北とぴあ(ほくとぴあ)は、「北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚」を目的として、王子駅東側貨物駅ヤード跡地に1990年(平成2年) 建設された東京都北区の複合文化施設。完成当時は北区で一番高い超高層建築物であった。最上階(17階)の展望ロビーから夜景を眺めた。

 

 

【メモ】

まったく個人的な記録であるが、昨日(3月8日)に3回目の新型コロナのワクチンを接種した。ファイザー、ファイザー、そして今回モデルナである。幸い、今のところ、重篤な副反応はなく、ちょっとだるく、体温が37度6分。

 

 

旅は続く