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99%超が「反対」、県民の声届いた…大野知事、「虐待禁止条例」改正案撤回を歓迎 提案時まで相談などなし
Yahoo news 2023/10/11(水) 埼玉新聞
大野元裕知事は自民党埼玉県議団の会見後に報道陣の取材に応じ、「県民の声が自民党県議団に届いたものと理解している。県の執行部としては議会の議論に制度上介入できない。今回の議案撤回については歓迎したい」と話した。
県が設置している「知事への提案」には10日午後2時時点で1007件の意見が寄せられ、反対1005件、賛成2件(どちらかといえばを含む)だった。
言葉足らずで不安与えた…埼玉の「虐待禁止条例」改正案、自民県議団が撤回 再度の議案提出は「ゼロベース」
2023/10/11/(水) 埼玉新聞
埼玉県議会最大会派の自民党県議団(田村琢実団長)は10日、子どもだけでの登下校などを放置による虐待と定める、県虐待禁止条例の一部改正案を取り下げると発表した。
開会中の9月定例会に提出され、6日の福祉保健医療委員会では自民、公明の賛成多数で原案通り可決し、13日の本会議で採決する予定だった。
評。
「民主主義は多数決」というのは、思い込み、誘導された誤解、間違った教育の成果だ。今回の埼玉県条例は委員会で可決された状態だった。県民や全国明からの反対意見多数により埼玉県自民党が撤回に追い込まれたが、予定されていた本会議で可決されれば条例として可決され、「埼玉県民の意思による条例」となるところだった。
しかし、主権者は県民であり、国民である。議員は有権者のうち投票した数十%、県民全体ではさらにその半分程度という一部の代表者に過ぎない。しかも、議員が現実の社会を理解しているとは限らない。
その構図は衆議院でも同じだ。安倍政権から特に甚だしくなった「民主主義は多数決」。国会で議決すれば、法律、すなわち国民の意思になってしまう。今回のことからの教訓は「「民主主義は多数決」は誤りだということだ。
「虐待禁止条例」は、県民にとり分かりやすく、自分に降りかかる、自分が当事者で、その条例の内容の良否が特別な勉強の必要もなく理解できることだったから、反対多数の意見が集中した。
主権者としての国民も法案が理解できる能力、時間的余裕、それを保障する賃金があれば、法案の中身を吟味できる。
「民主主義は多数決」ではないとすれば、民主主義とは、何だろう。本来の当事者である県民・国民個々人による条例や法案・政策に対する、多方面の検討・効果・得失に対する熟議であり、それを踏まえた上での代表者によるテレビ・新聞・ユーチューブでのオープンな討論会ということになるのだろう。
法案・政策を束ねているのが政党であり、政党を選択するのが選挙である。本来の当事者・主権者に余裕・教育・思考能力が涵養されることが必要であろう。でなければ、多数を取った政党が正義という惨事に陥るだろう。多数政党の政策が正しいかどうかは、当事者能力を持つ自立した有権者が判断することだ。
民主主義とは「多数決」ではなく、市民・国民が主権者ということだ。国家・国王・独裁者・専制者が主権者ではない。社会や国で生活し運営管理するのは市民・国民自身であるということだ。立法・行政・司法の執行機関には権利を代行させているだけだ。
民主主義が機能するためには、立法・行政・司法の執行機関に対して検証・批判・修正させるだけの能力を市民・国民が持つ必要がある。市民・国民にはそのための時間・生活的余裕・教養的水準、政治・経済的問題への理解と学習が要求される。
支配層は市民・国民を愚民化するために「パンとサーカス」を提供する。怠惰になるように仕向ける。長文読解力を低下させるために読書よりもゲームを推奨する。
主権者が主権者としての力を発揮するためには不断の努力が必要になるが、諦めてはいけない。