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黒田日銀が犯した致命的なミス「物価は上がったが、日本人の生活は貧しくなった」

2024年09月19日 07時08分22秒 | 社会

「物価は上がったが、日本人の生活は貧しくなった」 実は根拠薄弱だった、物価目標2%の理論的な根拠。黒田日銀が犯した致命的なミスとは

Yahoo news  2024/9/19(木) 現代ビジネス 山本 謙三

(🍓自民党総裁選・立憲民主党代表選で誰一人この視点を語らないことが、政治の貧困を示す。アベノミクス批判はマスコミにとってもタブーとなっている。)

「バリバリの金融実務家であった私が、わからないことがあれば一番頼りにし、最初に意見を求めたのが山本謙三・元日銀理事です。安倍元総理が、もし彼がブレインに選んでいたら、今の日本経済はバラ色だったに違いない」元モルガン銀行・日本代表兼東京支店長で伝説のトレーダーと呼ばれる藤巻健史氏が心酔するのが元日銀理事の山本謙三氏。

同氏は、11年にわたって行われた「異次元緩和」は激烈な副作用がある金融政策で、その「出口」には途方もない困難と痛みが待ち受けていると警鐘を鳴らす。史上空前の経済実験と呼ばれる「異次元緩和」は、物価目標2%達成への異例のこだわりから始まった。なぜ物価は上がり続けなければいけないのか? 黒田日銀はなぜ深みにハマっていったのか? そして異例の経済政策のツケを、私たちはどのような形で払うことになるのか?

※本記事は山本謙三『異次元緩和の罪と罰』から抜粋・編集したものです。

 

マクナマラの誤謬

数字にばかりこだわり物事の全体像を見失うことを「マクナマラの誤謬(ごびゅう)」という。

マクナマラとは、ケネディ政権下で国防長官を務めたロバート・S・マクナマラに由来する。若き頃から神童と呼ばれたマクナマラは、カリフォルニア大学、ハーヴァード大学に学び、ビッグ3の一翼を担う巨大自動車メーカー、フォードに入社。ほどなく重役になり、44歳にして社長に上り詰めた。

そして、マクナマラは、ケネディ政権成立とともに国防長官に抜擢された。経営者時代に培った近代経営学的手法を駆使して、陸海空三軍に予算配分方式を導入、国防計画に〈費用―効果分析〉の手法を導入した。ベトナム戦争が「マクナマラの戦争」と呼ばれたように、ケネディ政権下の軍事介入開始からジョンソン政権における介入の本格化までの政策を主導した。

マクナマラは、得意のデータ分析を駆使して、「北爆」と呼ばれる大規模爆撃を敢行。多数の兵力を投入し、ベトナム戦争に勝利しようとしたが、ベトナム人の激しい抵抗を受けて、戦争は長期化し、推定で、アメリカ陣営が戦死者20万~25万人北ベトナム・解放戦線側が戦死者約110万人民間人の死傷者が約200万人という泥沼の戦争を招いた。

 

2023年にNHKが放送したテレビ番組「映像の世紀 バタフライエフェクト:ベトナム戦争 マクナマラの誤謬」によると、マクナマラは、米国が支援する南ベトナム軍とこれに対抗する南ベトナム解放戦線(ベトコン)の戦闘について、ベトコン側の兵士の死者数を数えれば、相手勢力の能力低下の度合いを測定できると考えた。そこで戦争遂行の目標に敵兵士の死者数を掲げて、ついには、米国の各軍隊に敵兵士の死者数を数えるための将校を配置したという。

米国ハーヴァード大学のビジネススクールで一時教鞭をとったエリートらしい合理的な理論と実践だったが、ベトナムでは愛国心をもつ多くの人民がベトコン側につき、ゲリラ活動でアメリカ・南ベトナム連合軍に抵抗した。米国内では厭戦気分が広がり、各地で反戦運動が高まったマクナマラにとって、ベトナム人民やアメリカ国民の心の動きは計算外だった。

結局、アメリカ軍は1973年、ベトナムから撤退を開始。1975年に南ベトナム解放戦線の手によってサイゴン(現ホーチミン市)は陥落し、ベトナム戦争が終結した。

 

「物価2%」への特異なこだわり

経済政策は、戦争とは違う。しかし、「マクナマラの誤謬」にある「数字にばかりこだわり物事の全体像を見失う」との文脈は、日銀の異次元緩和を想起させる。物価目標という数値を追い求めるあまり、財政ファイナンスに酷似した国債買い入れが11年にわたって行われた。その結果、市場機能が著しく低下した。

物価目標政策の歴史を辿っても、これほど目標数値を絶対視した政策運営は他にほとんど例がない。あえて言えば、2020年8月以降に米国FRB(米国連邦準備制度理事会)が採用した「平均物価目標2%」ぐらいだが、FRBは採用直後から物価高騰に見舞われてしまった。

黒田日銀が目標数値に固執したのには、理由がある。

それ以前の白川総裁時代の日銀は、具体的な数値を物価目標として掲げることに慎重だった。いったん「目標」として掲げると、目標数値が独り歩きし、目標達成のために無謀な試みも行わざるをえなくなるとの懸念をもったからだ。

リフレ派は、日銀のこの慎重姿勢を徹底的に攻撃した。異次元緩和は従来の日銀の姿勢に対するアンチテーゼ(対立軸)の色合いが濃かっただけに、ここでも数値目標にこだわる姿勢がことさら強調された。また、「国民の期待(インフレ心理)を変える」ことが異次元緩和の効果を生む重要な経路とされたため、数値目標を明確にし、目標の達成をはっきりと約束することが重視された。こうして目標値「2%」を絶対視する政策体系が出来上がった。

「国民の期待(インフレ心理)を変えること」を政策の主軸とする限り、自らの政策スタンスをぶれさせるわけにはいかなかった。異次元緩和は、その性格上、自省のメカニズムが働きにくい政策だった。そうして11年の歳月が流れた。

以下、物価目標をめぐる日銀の姿勢の変遷を振り返ったあと、「2%」という数値自体にさほど強い根拠がないこと、柔軟な目標運用から厳格な「平均2%」の追求に切り替えた途端に失敗した米国の例などを踏まえ、物価目標にかかる教訓を述べてみたい。

 

物価目標をめぐる日銀の姿勢の変遷

物価上昇率の目標数値をどこに定めるかは、厄介な問題である。とりわけ、日本のように低インフレの国にとっては、そうだ。

高インフレの国ならば、目標数値がどこであれ、大きな方向感の共有は比較的たやすい。二桁インフレに悩む国にとっては、物価目標が2%であれ4%であれ、目標に近づくだけで大きな成果となる。

実際、物価目標政策(インフレターゲティング)は、執拗なインフレーションに苦しむ国の中央銀行が始めた政策だった。1990年にニュージーランドが導入したのをきっかけに、カナダ、英国などが採用に踏み切った(図表3-1)。

1990年代は、東西冷戦の終結をきっかけに経済のグローバリゼーション(国際化)が進み、新興国から安価で良質な製品が世界中に供給されるようになった。そうした環境の好転にも恵まれ、物価目標の導入国でインフレ率が低下し、目標政策を採用する国がさらに増えていった。

だが、物価上昇率が低下したあと、どの数値が最も望ましい物価上昇率かは本来難しいテーマだった。とくに、日本のように物価上昇率がすでにゼロ近傍で推移していた国では、高めの数値を厳格に追求しようとすれば、多大な副作用を伴う政策手段に頼らざるをえなくなるリスクがあった。

一方、世界では、政策当局に対して具体的な目標の開示を求める傾向が強まっていた。政策を国民に分かりやすく伝えるのも、中央銀行の責任である。その狭間にあって、過去の日銀は、数値目標の設定をめぐり幾度か方針を変えてきた(図表3-2)。

2000年代の日銀は、厳密な物価目標の設定には懐疑的だった。それでも「分かりやすさ」を重視し、2006年3月、「中長期的な物価安定の理解」との表現を用いて、これを「消費者物価指数の前年比0~2%程度で、中心値は概ね1%前後」とした。

2012年2月には、「中長期的な物価安定の目途」との表現を用いて、「物価上昇率2%以下のプラスの領域」としつつ、「当面は1%を目途とする」と表明した。

さらに2013年1月、政府との共同声明を発表するタイミングで、日銀は物価上昇率2%を「物価安定の目標」と決定した。ただし、その際も、白川日銀は「デフレからの早期脱却と物価安定のもとでの持続的な経済成長の実現には、幅広い主体による成長力強化の取り組みも重要」とし、物価目標の達成には金融政策以外の努力も不可欠としていた(2013年1月22日「金融政策運営の枠組みのもとでの『物価安定の目標』について」)。

同年4月に黒田総裁下で始めた異次元緩和は、こうした日銀の慎重姿勢を根こそぎ変え、「2%」目標を厳格に追求する姿勢を鮮明にした。

 

強固でない「2%」の根拠 ①物価指数の上方バイアス

しかし、目標数値「2%」にそこまで強い根拠があるわけではない。当初根拠としてあげられたのは、①物価指数には統計上の「上方バイアス」があるため、目標はこれを織り込んで高めの数値とする必要があること、②将来の金利引き下げの余地を作るため、いわゆる「糊(のり)しろ」として2%を確保する必要があること、③2%は世界共通のグローバルスタンダードであることの3点だった。このうち、最近まで強く主張されてきたのは、②の「糊しろ」論と③の「グローバルスタンダード」論である。

 

①の「上方バイアス」論について、簡単に触れておこう。世の中に出回る商品は、通常、時間をかけて品質の改良が加えられていく。しかし、品質の改良分が必ず価格に転嫁されるとは限らない。

例えば、デジタルカメラの新機種の画素数が増えても、値段が変わらないケースも多い。本来ならば品質(画素数)の向上分だけ、価格が上がってもおかしくないが、価格は据え置かれている。観念的には値下げに等しい。しかし、物価指数には反映されない。実質的な値下げが行われているにもかかわらず、物価指数はそのまま変わらないという状態だ。すなわち統計上の物価指数は、実態よりも高くなっているわけだ。これを統計上の「上方バイアス」と呼ぶ。この統計上のバイアスを踏まえ、物価目標をあえて高めに設定しておく必要があるというのが、上方バイアス論だった。

 

しかし、統計の作成主体である総務省は、こうした実態を踏まえ、調査対象銘柄の入れ替えが行われる際に、「品質調整」という作業を行って「上方バイアス」が極力小さくなるように調整している。デジタルカメラの例で言えば、画素数の品質向上分だけ、対象銘柄の価格指数を調整して、対象品目の旧銘柄と新銘柄の間のつながりをよくしている。日本の統計作成の精度は海外に比べても高いといわれており、最近は物価目標「2%」の根拠として「上方バイアス」を取り上げる議論は減っている。

もちろん、品質調整ですべての品質変化をカバーできるわけではない。また、価格には「下方バイアス」もある。お菓子の大袋の中に収められた小袋の数が減らされたケースを考えてみよう。これまで10個の小袋だったものを9個にして同じ値段で売っていれば、実質的には値上げである。表面上の価格が変わらなければ、物価指数は実態よりも低くなっている。すなわち、「下方バイアス」が働いている。

品質調整を通じて、これらのバイアスをできる限り中立化する努力は重要だ。だが、どんなに中立化の努力を行っても、統計技術的にある程度実態と乖離することは避けがたい。物価目標を掲げる場合も、統計のクセ(傾向)を理解し、常に幅をもってみる必要がある。物価目標の扱いは、本来そのような柔軟な見方が必要だった。

 

強固でない「2%」の根拠 ②「糊しろ」論

②の「糊しろ」論は、将来の金融緩和の余地を確保しておくために、プラスの物価上昇率を確保すべきという議論である。

将来の金融緩和のために、金利の引き下げ余地があれば、政策運営がやりやすくなるのは事実だろう。この引き下げ余地を「糊しろ」と呼ぶ。

市場金利は、将来の物価上昇に関する市場の予想を織り込んで変動するので、金利に「糊しろ」をつくりたいのであれば、その分高めの物価上昇が必要となる。物価目標の設定も、あらかじめ「糊しろ」分を織り込んで、プラスの設定としておくことが必要だ──これが「糊しろ」論である。

しかし、「〈糊しろ〉に対応する物価上昇率」と「その実現を金融政策がどこまで負担できるか」は切り分けて考える必要がある。

 

前述したように、2013年1月に初めて「2%」を物価目標として掲げた際には、白川日銀は「幅広い主体による成長力強化の取り組みも重要」とし、金融政策単独では「2%」の達成は難しいと考えていた節がある。これに対して黒田日銀は、物価目標の達成は日銀が負う唯一無二の責任とし、金融政策単独で実現できるとの姿勢を明確にした。

黒田日銀が推進した異次元緩和は、将来的な「糊しろ」を確保するために、あえて、一時的に、自ら「糊しろ」部分をすべて削ることで安定的な物価上昇を促そうとしたものだった。わずかな「糊しろ」を一時的に放棄することで、将来的により大きな「糊しろ」を確保しようとしたと言える。だが、経済は日銀の期待通りには進まず、11年も異次元緩和を続けることになった。

2024年3月、異次元緩和にようやく終止符が打たれたが、その結果実現する短期金利の「糊しろ」の幅は、同年7月の利上げ後もわずか0.25%にとどまる。今後拡大するとしても、第6章で述べるように、せいぜい1%以下、場合によってはそれよりも小さな幅となる可能性がある。

「糊しろ」を11年間100%削って得た結果が、せいぜい1%以下の「糊しろ」というのでは、何をやってきたのかが分からない。物価目標「2%」の根拠としては、脆弱に過ぎる。そもそも「糊しろ」は、インフレではなく、実質GDP成長率の引き上げで確保する道があり、むしろその方が王道というべきだろう。

 

強固でない「2%」の根拠 ③グローバルスタンダード

「2%はグローバルスタンダード」と呼ぶのは、間違いではない。世界のほとんどの中央銀行が物価目標を「2%」に設定している。ただし、日本のように物価目標を絶対視して、厳格に運用した例は他にほとんどない。各国とも柔軟な運用を行ってきた。

米国FRBは、2012年1月にPCE(個人消費支出)デフレーターの前年比2%を「物価上昇率の長期的なgoal(a longer-run goal of inflation)」として採用し、毎回の政策決定に当たっては、短期的に振れの大きい食料品とエネルギーを除く「コアPCEデフレーター」を重視するとした。

もっとも、米国のコアPCEデフレーター(前年比、以下同じ)の実績は、高インフレが収束した1990年代半ば以降、ほとんどの期間で1%台だった(図表3-3)。2%を超えたのは、1996年以降の27年間で、①2005~07年と②2021~23年の2回、あわせて6年だけだった。

このうち2005~07年は、リーマンショック前の景気過熱期に当たる。この3年間のコアPCEデフレーターの上昇率は平均2.3%と、2%をわずかに上回るだけだった。にもかかわらず、住宅バブルを発生させた。住宅バブルの崩壊はその後リーマンショックを引き起こし、世界的な金融システム不安と景気の後退へとつながった。

以後、2%を超えたのは今回の物価高騰期だけである。客観的にみれば、コアPCEデフレーターの2%超えは米国にとって危険信号であり、むしろ深刻なリスクと表裏一体の関係にある。良好な経済パフォーマンスと整合的な米国の物価上昇率は、2%というよりも、1%台半ばだった。

 

それでも、FRBの掲げる2%はあくまで「長期的なgoal」との位置付けだった。コアPCEデフレーターの1%台が長く続いてもFRBにとっては許容範囲内であり、これを受け入れる柔軟な運営が続けられていた。日本のように物価指数を絶対視する姿勢は、決してグローバルなスタンダードではなかった。

 

*本記事の抜粋元・山本謙三『異次元緩和の罪と罰』(講談社現代新書)では、異次元緩和の成果を分析するとともに、歴史に残る野心的な経済実験の功罪を検証しています。2%の物価目標にこだわるあまり、本来、2年の期間限定だった副作用の強い金融政策を11年も続け、事実上の財政ファイナンスが行われた結果、日本の財政規律は失われ、日本銀行の財務はきわめて脆弱なものになりました。これから植田日銀は途方もない困難と痛みを伴う「出口」に歩みを進めることになります。異次元緩和という長きにわたる「宴」が終わったいま、私たちはどのようなツケを払うことになるのでしょうか。

 



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