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山形県 高畠町郷土資料館②河童のわび証文 民俗学と信仰の世界 キリハライ

2024年10月01日 09時42分11秒 | 山形県

高畠町郷土資料館。山形県高畠町阿久津。

2024年9月7日(土)。

企画展「修験の寺 糠野目 不動院展 ~発見された河童のわび証文~」

8月1日〜11月30日。

かつて寺だった高畠町糠野目地区の民家・安山家に保存されていた資料、室町時代に作られたとされる仏像、いたずらしたカッパが残したという「わび証文」など多彩な品々約50点が展示されている。

この民家は明治時代初めまでは不動院という修験の寺だった。神仏分離政策が進められた明治時代初めに廃寺となり、以後は神主の家となって続いてきたが、後継ぎがなく、現在は空き家となっており、町が家屋に眠っていた資料を引き取った。町は、神主宅にあった不動院の文化財や史料を調査し、箱に収められた掛け軸を見つけた。

掛け軸を広げると、赤茶色に塗られたわび証文が貼られていた。大きさは縦約50センチ、横約30センチ。赤茶色の色素はところどころがはげ落ち、文字は確認されていない。

カッパのわび証文は、いわれ書きとともに軸装されている。カッパは1586(天正14)年に馬小屋に出現し、馬にいたずらをして姿を消した。その後再び現れたが、不動院の僧に諭され、村の子どもを水難に遭わせないことを約束。指を切り、滴る血を全身に塗って押し当てた紙を、わび証文として置いていったという。

カッパが悪事をわびて、再犯をしないと僧に誓ったといわれる証文は、子どもたちを水難から守る御利益があるとされてきたが、その存在は長らく忘れられていた。

わび証文の下には、いわれを記した紙が貼られていた。書かれたのは江戸時代後期の文化14(1817)年で、当時の不動院の住職の署名があった。

安土桃山時代の天正14(1586)年、不動院の住職が馬洗い場で馬の足を洗っていたところ、馬が突然飛び上がった。翌朝、馬屋で全身に毛を生やし、両目まで垂れる長い髪の怪しい動物を発見した。正体は河獣(カッパ)。両手を合わせて頭を下げる姿が命乞いをしているように思った住職は、命だけは助けてやり、カッパは三度礼を言って姿を消した。

江戸時代前期の寛永19(1642)年7月中旬ごろ。このカッパが再び現れ、こうべを垂れて鎌の刃先を首に当てて自殺を図ろうとした。住職は「この郷に生まれた男子が水難に遭って命をなくすことが起きないように約束すること」と言って経文を唱えると、涙を流しながら謹んで聴いていたカッパは鎌で自分の左手の指3本を切り、滴る血を全身に付けて馬屋の窓からもぎ取った紙に押し当てた-。

民俗学者の柳田国男が『遠野物語拾遺』でも記録している通り、カッパのわび証文の伝説は県内各地にもあるが、それが紙として残存している例を青木館長はほかに聞いたことがない。

不動院があった町西部の糠野目地区では、わび証文を信仰の対象にした人もいたようだ。子どものころ、近所の最上川で川遊びができる夏になると、証文にお参りし、水難事故に遭わないように祈ったという。

1960年代、町の小学校にプールが設置され、遊泳場所は川からプールに変わった。さらに、子どもだけで川遊びをしないように学校が指導し、水難事故の防止が呼びかけられた。

 

見学後、10時30分ごろ上山市の楢下宿と丹野こんにゃく店へ向かった。

山形県 高畠町郷土資料館①日向洞窟 押出遺跡 羽山古墳出土品 伊達氏 織田高畠藩