楢下宿(ならげしゅく)。脇本陣・滝沢屋(旧丹野家)。山形県上山市楢下乗馬場。
2024年9月7日(土)。
高畠町郷土資料館を見学後、10時30分ごろ上山市の楢下宿と丹野こんにゃく店へ向かった。道路は北への山越えとなり金山峠あたりを過ぎ、山形盆地南東端の平地に降りていくと、唐突に脇本陣・滝沢屋が現れた。楢下宿は山間部の川沿いの集落のため水害が多く、脇本陣・滝沢屋は、南東に離れた場所に移築復元された。唯一内部への入場料が必要な施設で、管理人が15分ほど内部を説明してくれる。花魁のかんざしが多く展示されていたが、飯盛り女のものだろうか。内部は撮影禁止である。
楢下宿のことはざっと予習はしていたので、北側の本来の楢下宿へ向かい、数件の旅籠屋を外見から見た。重要なことは、コの字型に配置されていたことだろう。6月初めに福島県の大内宿を見学していたので、B級グルメの食べ歩きができるのか期待したが、飲食的なものは一切なかった。その代わりに、北の入口的地点に丹野こんにゃく店が用意されている。
丹野家は、江戸時代に庄屋を務めた由緒ある家柄で、屋号を「滝沢屋」と称し、大名や上級武士の宿泊・休息に利用され、多くの大名・巡見使の宿札も保存されている。元禄以前からの酒造家で、滝沢川の水で作った銘酒を醸造していた。
住宅は、平入の直家(すごや)形式の主屋に、上座敷を張り出して曲屋となっている。上手の2座敷に続いて、表側に中間(なかのま)、裏側に納戸(なんど)を配し、下手に広い勝手が設けられている。いわゆる広間型3間取の上手に、正座敷・次座敷から成る客座敷がついた形で、大勢の客人が利用できるようになっている。家の玄関にある開門(ひらきもん)は殿様から許可され造った門とされている。1757年(宝暦7年)の大洪水の際流失したものの重要性から直後に再建されたとされている。
楢下宿は、江戸時代に羽州街道の宿場町として栄え、東北の13藩が参勤交代の折に利用した。往時の町並みがそのまま保存されており、1995年(平成7年)に歴史国道、1996年(平成8年)に歴史の道百選に選定されている。また、1997年(平成9年)には、羽州街道 楢下宿・金山越の名称で国の史跡にも指定された。
楢下は上山市の南南東約7.5㎞、須川上流の河岸段丘上に位置し標高は255~280m。地内の北側では楢下の真ん中を通る金山川と須川が合流する。上山市街から須川沿いに南下し、関根、皆沢、楢下、金山峠を越えて宮城県七ヶ宿町の干蒲、湯の原に通ずる道が江戸時代の津軽藩や秋田藩など奥羽十三藩が参勤交代時に通る羽州街道(奥州街道桑折宿から分かれる脇往還)だった。そのため、当時楢下は宿場町として本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋を備えており、湯殿山参りの行者や商人たちで賑わっていた。金山峠から赤山集落を過ぎて北に約1.5キロメートル進むと楢下の町頭に差し掛かり、以前はここには柵門と番所があった。中心部の街路がコの字状で新町、下町、横町、上町、に区分されている。
楢下という地名の由来は、天平時代(729年~805年)、都から楢下村にたどり着いた一人の旅人が、宿に困って楢の大樹の下で一夜を明かし、「夏山の楢の下葉を吹く風に 幾夜旅寝の夢やさむると」と一首詠み旅立った、ことにちなむという。
楢下集落が形成されたのは1400年(応永7年)前後で、板碑や楢下城が築かれていたものの当時はまだ小さな村だった。戦国期には、須川と金山川の合流点に向けて南東から伸びる段丘の先端の位置に楢下城(平林館)があったとされている。平林館は最上四八館の最南端に位置し、城の要所に幅三間、深さ二間ほどの外堀が備えられていて、山形の最上家家臣の楢下駿河守貞光、長沼信濃守の名前が残っている。
楢下は最上氏と伊達氏の攻防の地となった。1514年(永正11年)、伊達政宗の曾祖父高畑(高畠)城主伊達稙宗の家臣小梁川貞範と長沼信濃守による届橋(現在の十月橋)の戦いでは、信濃守が貞範を敗った。届橋の戦いの後も伊達軍は再度攻め入り、貞範は信濃守を懐柔し味方につけて、上山城(高楯城)を陥落させ、城主の上山義房を山形方面に敗走させた。
江戸時代初期~中期には、須川右岸の元屋敷、流町にも集落があったものの、街道の振替や再三起こる洪水が原因で金山川左岸に移転。1757年(宝暦7年)に起こった大洪水を機に現在の集落形態となった。1622年(元和8年)の最上家改易後、斎藤三右衛門が新たに関所・本陣・問屋を任された。番所は1757年(宝暦7年)に起きた洪水以前は下町にあったものの、その後は新町に移った。楢下郵便局舎が番所跡とされる。
楢下宿が形成され始めた時について2つの説があり、現在も定かとなっていない。1つ目の説は、1661年(寛文元年)の洪水により須川右岸の元屋敷・流町から上町・坂の上(横町)に集団移住したとするもの。2つ目の説は、1625年(寛永2年)に本庄街道が改修されたため、参勤交代などの通行の利便性を考慮し移住したとするもの。1661年(または1625年)に上町方面に移住したことで楢下宿が形成されていった。移転前は下町に番所や本陣、問屋など重要な機関があったため、下町を本町と呼んでいたとの文献が残っている。また、1757年(宝暦7年)の大洪水により下町21軒が流失し、被災者約20名が新町に集団移住し現在の集落形態となった。
旧武田家。
眼鏡橋(新町)。
眼鏡橋は楢下の新町に位置し、石造りになる前は川久保橋と呼ばれていた。江戸時代、木造だったため大きな洪水がある度に流されていて架け替えの必要があった。そのため、1880年(明治13年)山形県令三島通庸に石橋への架け替え願い出た。石材は大門石、欄干石は滝沢石を使用している。総工費1001円75銭3厘。うち300円は南村山郡が助成し、残りの約700円は地区内の有力者15名が出資した。立替金なので返済する為、当初は橋銭を徴収していたものの諸事情により1883年(明治16年)9月までで廃止した。
庄内屋(仮本陣・脇本陣)。
庄内鶴岡藩主酒井家の定宿。殿様が使用したとされる唐金の煙草盆2組や宿札が保存されており、旧家屋は市の文化財に選出されている。1750年(寛延3年)ごろに建てられた楢下地内で一番古い建屋である。
旧粟野家大黒屋。
楢下宿の解説板、駐車場、トイレがあり、楢下宿見学の基点となっている。シーズンにより郷土料理が販売されるようだ。
眼鏡橋(覗橋)。
1882年(明治15年)には下町にも眼鏡橋(覗橋)が完成。石材は凝灰岩。費用は全額地区負担。
丹野こんにゃく店・こんにゃく番所。上山市楢下。
土曜日の昼とあって客は多かった。
玉こんにゃく120円。餅こんにゃく150円・160円。
店内のイートインで食べた。
このあと、沢庵和尚の春雨庵、上山城跡へ向かった。