揺れ動く貴族社会 平安時代(全集 日本の歴史 4)」小学館、2008年、 川尻 秋生。
古代国家の変容と都市民の誕生
平安時代は災害や戦禍など、激動と破壊の時代だった。変質する政治体制のなかで、人々が翻弄されながら生きる姿や、職能集団としての武士の出現など新しい動きが起こる過程を、文学史料を駆使して鮮やかにたどる。
律令制の建前では、縁故などによって私的に官人を登用することは禁じられていたが、この時期になると、天皇や上皇は、近臣を殿上人として組織したり、蔵人などの登用をするようになる。いわば、公的秩序に私的近臣関係が入り込み、社会の構成原理が大きく変化した。こうした変化は、次第に貴族層から在地の有力者にまで浸透し、長きにわたって日本社会の基層を形づくった。
画期としての宇多朝。光孝王朝の成立。
元慶8(884)年、17歳の陽成天皇が退位した。前年、陽成天皇が乳兄弟の源益を打ち殺した(日本三代実録)ため、藤原基経が退位させた。光孝天皇が即位した。仁和3年光孝天皇の死に伴い、皇子の宇多天皇が即位した。
宇多天皇は藤原基経と対立するが、敗北して近臣の橘広相を左遷せざるを得なくなる。
宇多天皇は藤原氏と血縁関係がないため、藤原氏を排除して親政をめざした。唐風文化の摂取。菅原道真を重任した。しかし、醍醐天皇に譲位後、藤原時平により菅原道真は左遷される。
宇多上皇は法皇となり、仏教界の最高権威者となる。仁和寺を完成させる。
政務の場、奈良時代は朝堂院、平安時代は内裏の紫宸殿、宇多朝は清涼殿へ。国府も、国庁から国司館へ。
上流貴族。ウジからイエへ。10世紀中頃、藤原師輔・実頼兄弟のころ。
下級氏族の家職の成立。土御門家、小槻氏。
天皇。兄弟相続から父子相続へ。
唐風化への道。
嵯峨天皇の時代。跪礼から立礼へ。
律令から格式へ。
日本では律の存在意義が令より劣った。死刑がなかった。怨霊を恐れる御霊信仰。
富豪層の出現と支配の転換。
昌泰4(901)年の太政官符、「播磨国の住人の半分は京の衛府の舎人(下級役人)となっている。彼らは実際には在国するにもかかわらず、課役を負担しない。収穫した稲を私宅に収納して、勤務先や上流貴族の稲だと偽って税を支払わない。収納使が催促に赴くと、暴力をふるい、徒党を組んで悪事を働いている。」
対処のための抑制策として有名なものが延喜2(902)年の荘園整理令。院宮王臣家と在地の有力者の結合を阻止することを目的。
古今和歌集に高向利春の歌。武蔵国秩父牧の牧司のちに武蔵守。宇多法皇の近臣。
前任国司の子弟など中下級の貴族たちは、都に帰ることをやめ、土着することが多かった。郡司たちと姻戚関係を結び、農商業を営んで富豪化していった。院宮王臣家と主従関係を結ぶことも少なくなかった。
律令制国家は財政難と治安の悪化に悩まされることになった。律令制下の税は人頭税であった。戸籍が偽造され、課税対象外の高齢者や、税額の少ない女性の数を多く申告した。
院宮王臣家の荘園には浮浪人が多く集まり、本貫地(戸籍登録地)に税を払わなかった。
人頭税から土地を単位とした税(地税)に変わる。
荘園制と田堵の出現。「名(みょう)」。公田を耕作する人を国衙が登録し、税の収取単位とする。名の経営者が田堵。田堵は農具や灌漑設備を準備し、国司や荘園領主と耕作を請け負う契約を結んで一般農民を集め、数町にもおよぶ田地を耕作した。
国衙から収納使が派遣され、徴税が行えるようになった。10世紀になると郡司の機能が低下し、受領の権限が大きくなり、直接在地から税を取り立てるようになった。
古代日本では郡司が実際には地方を支配していた。国司は間接的に任国を支配していた。9世紀以降変質。郡司の任命が出身氏族から才能へ。郡司選出に関し、国司の権限増大。広い階層から郡司を選出するようになり、郡領氏族の伝統的支配力が弱まった。
受領の時代。
受領国司。上総・常陸・上野は親王任国のため、介が受領。最上位の国司である受領に責任を負わせる。税の徴収や検察権を委ねた。
摂関家が、家司に多くの受領を抱えた(家司受領)。
天慶の乱と武士の誕生。
昌泰2年の太政官符。「坂東諸国の輩が、略奪した馬によって東海道と東山道を往来し、人々に甚大な損害を与えた。」
荘園制が発達し、生産物を都へ運ぶ必要が出てくると、専門の運送業者が不可欠となった。運送業を営みながら、一方で盗賊行為を行ったのが、僦馬(しゅうば)の党。
東国の治安悪化に対して、押領使が設定された。
なぜ、武士は発生したのか。
以下、「武士はなぜ生まれたのだろうか? 読売新聞 090706 川尻秋生 早大准教授」。
日本の歴史を振り返ってみる時、「武士」の存在はきわめて大きい。しかし、いつ頃、なぜ武士が生まれたのかという点は、実はよく分かっていない。
従来、武士は草深い田舎から発生したと考えられてきた。平安時代の中頃、律令国家の衰退とともに、地方の治安が悪化し、群盗などが発生した。それに対抗するために、荘園領主や有力農民が自衛のため武装し、発展して武士となったという考え方である。
それに対して近年では、武士は都から発生したとする見解が有力になりつつある。もともと律令制下の武官に起源があり、近衛府を経由して、10世紀以降源氏や平氏に武芸が継承された。そして平安京の治安を護り、天皇を守護する人たちを、王権(天皇)が職業として認めたものが武士だという見解である。
筆者も武士という階層を作り出したのは王権であったと考えるが、その具体的な発生原因については次のように考えている。平安時代の貴族は、個人的に武芸に優れているだけでは武士と呼ばず、特定のイエ・血統に属していることが重要であると考えていた。例えば、勇猛果敢で知られた人物も、武士の家系の出身でなければ、「家ヲ継ギタル兵(つわもの)ニモアラズ」と評されている(『今昔物語集』巻25)。そしてこの血統とは「満仲・貞盛ガ孫」といわれたように(『同』巻19)、源満仲・平貞盛の子孫と認識されていた。
源満仲とは平将門の乱の平定に功績のあった源経基の子(清和源氏)、平貞盛とは将門の従兄弟で、将門を殺害した人物である(桓武平氏)。こうしてみると、武士の家系とは、平将門の乱を鎮圧したイエということになる。
そこで後世における将門の乱に対する見方を調べてみると、興味深いことがわかってきた。例えば、治承4年(1180)9月、伊豆国で源頼朝が挙兵した第一報を耳にした藤原(九条)兼実という貴族は、「あたかも将門の如し」と、自身の日記に書き付けている(『玉葉』)。将門の乱は、単なる一過性の反乱ではなく、事件から250年を経ても、大事件が起きると想起される「記憶」であった。しかも、思い返される時期には偏りがあり、12世紀後半の源平の争乱期と、14世紀中頃の南北朝の動乱期に集中する。つまり、将門の乱は、大きな兵乱の「負」の記憶として、貴族社会の中で子々孫々へ語り継がれたのである。
こうしてみた時、何故、武家の棟梁が、源平両氏に限定されたのかがよく理解される。つまり、将門の乱の鎮圧者の子孫は、「辟邪の武(邪を寄せ付けない武力)」を持つ特殊な家系として、貴族たちから異能視されたらしいのである。中世には、戦いに先だって自らの家系の来歴を大声で名乗り合う「氏文読み」という作法があったが、将門の乱の鎮圧者を先祖に持つことを自慢する氏族が多いのも、そのことと関係するのだろう。
それでは、武士が成立したのはいつ頃なのだろうか。おそらく、源氏・平氏ともに、イエとしてのまとまりを持つ、10世紀末頃とみることができよう。とくに、平氏では、貞盛の子・甥たちが一族として、強い結束をはかった時期と重なっている。筆者は、ここに武士の成立をみるのである。
ただし、武士は、「名誉の戦士」として、貴族社会に受け入れられたわけではなかったことにも注意しなければならない。戦前の教科書で、「武士のなかの武士」として賞賛された源(八幡太郎)義家について、「多く罪無き人を殺す」(『中右記』嘉承3年〈1108〉正月条)と評されているように、武士は殺人集団として認識されていた。現代社会で、武士といえば、「潔い」というイメージがあるが、歴史的にみればまったく逆で、治安を護るための必要悪という位置づけが正しいだろう。
ついでにもう一つ。清和源氏・桓武平氏ともに、最初から武士になりたくて武士になったわけではなかった。このように書くと、「中世には武士が天下を取ったではないか」という反論が聞こえてきそうだが、それは、我々が「歴史の結果」を知っているからである。むしろ、10世紀当時の一般的な氏族は、文官として王権に仕えることを望んだのだが、その道を閉ざされ、将門の乱にたまたま遭遇した氏族が武士化する道を選んだのである。武士という存在は、きわめて特殊な環境から生まれたといえようか。