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岩手県金ケ崎町 国史跡・鳥海柵跡 安倍宗任の本拠地

2024年01月01日 13時56分25秒 | 岩手県

国史跡・鳥海柵跡。岩手県金ケ崎町西根縦街道南、原添下、鳥海、二ノ宮後。

2023年6月14日(水)。

胆沢城跡を見学後、北へ進み、安倍宗任(あべのむねとう)の本拠とされる金ヶ崎町の国史跡・鳥海柵跡へ向かった。北側の入口付近に広大な駐車スペースがある。調査をしていた女性学芸員と会話した。北側は学校跡で売店だった民家が東側に残っているらしい。九州からの見学客が多いという。安倍宗任が九州に流されてその後裔がいることによるもののようだ。

鳥海柵(とのみのさく)跡は、北上川と胆沢川の合流点から西北西約2.5㎞の地点に位置する金ケ崎段丘南東端付近に築かれた平安時代の豪族安倍氏の柵跡と考えられる遺跡である。平安時代に書かれた『陸奥話記』には安倍氏が設けた12の柵が記されているが、その中心的な柵が「鳥海柵」である。『吾妻鏡』などによると、安倍頼良(頼時)の三男宗任が鳥海三郎と称していたとあることから、柵主は安倍宗任と考えられている。

鳥海柵跡は、安倍氏の勃興期から全盛期にかけての状況をよく伝えているのみならず、律令国家による支配から自立し、平泉で結実する奥州平泉文化の起源を知る上で重要である。また、史跡大鳥井山遺跡や史跡柳之御所遺跡などとともに、東北で成立、発展した居館のあり方や都市計画の展開を知る上でも重要である。

鳥海柵の南東、胆沢川を挟んで約2㎞の地点には、胆沢城が所在する。10世紀後半になると、胆沢城の律令体制は崩れ、胆沢城の在庁官人であった安倍氏が勢力を持つようになり、俘囚長とよばれた。11世紀前半から中頃、陸奥国の奥六郡(一関市から盛岡市にかけての地域)を支配していた安倍頼良は、南に勢力を拡大して国府多賀城の国司と対立した。

「前九年合戦」は、永承6年(1051)陸奥守藤原登任(なるとう)と安倍頼良との間の鬼切部(おにきりべ、現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ)とされる)の戦いで、安倍氏が国府軍に大勝して始まった。陸奥守のち鎮守府将軍兼任に任命された源頼義に安倍頼良は恭順したが、天喜4年(1056年)阿久利川事件が起きて戦いが再開した。天喜5年(1057年)7月安倍頼良(頼時)は、源頼義の勧誘に応じた一族で津軽の俘囚長・安倍富忠と戦って流れ矢に当たり、鳥海柵に帰り亡くなった。

源頼義軍は援軍を得られず、頼良のあとを継いだ安倍貞任を攻められなかったが、康平5年(1062)出羽の豪族清原氏の参戦を得た源頼義軍が貞任を攻めると、衣川関の陥落後、安倍氏は鳥海柵に拠る。康平5年9月、鳥海柵は源氏・清原連合軍に攻められ、安倍貞任と宗任は、戦わずしてさらに北の厨川柵へ走り最後の抗戦をしたが、9月厨川柵・嫗戸柵(ともに盛岡市付近)は陥落して安倍氏は滅亡した。安倍貞任は殺され、宗任は捕えられて京へ送られた。

その後、「後三年合戦」(永保3〜寛治元年、1083〜1087)を経て、奥州の支配権は藤原清衡に始まる奥州藤原氏へと移ることとなる。11世紀前半〜中頃の安倍氏の時代は平泉を中心とする奥州藤原氏の時代の前史と位置づけられる。

鳥海柵跡は、標高50〜60mの台地上に立地し、その南側には胆沢川左岸の氾濫原が広がっており、遺跡が立地する台地と低地との比高差は約10mである。鳥海柵跡は三つの自然の沢でできた谷によって四つの台地に分割されている。沢は南から第一沢、第二沢、第三沢台地は二ノ宮後区域、鳥海区域、原添下区域、縦街道南区域と呼称している。その規模は、南北約500m、東西約300mと推定される。

川や沢(谷)、段丘崖などの自然地形を巧みに利用し、11世紀中頃には人工の堀や柵列などの工作物で囲まれた敷地に大型の建物跡櫓状の建物跡などを複数配した防御性のある軍事的な拠点となっていた。

当地は、蝦夷の終末期古墳である縦街道古墳群が存在した奈良時代から利用され、7~8世紀(胆沢城造営以前)、9世紀後半~10世紀中頃(胆沢城統治期)、11世紀前半~中頃(安倍氏統治期)、12世紀前半~後半(奥州藤原氏統治期)の4期にわたっている。

最も遺構や遺物が検出される時期は、11 世紀前半~中頃の安倍氏時代である。

11 世紀前半は、縦街道南区域の大型の掘立柱建物を中心に、ほぼ全域が使用されていた。沢等の自然地形を利用し、人工の堀はなかったとみられる。大型の建物跡からは、官人が身に付ける銙帯の一部、胆沢城にもみられる水晶玉が出土し、安倍氏が胆沢城の権力を背景に台頭した鳥海柵の始動期と想定される。

大型の掘立柱建物は、東西16.50m、南北12.58mの四面廂付きの掘立柱建物で、柱列が整然と並び、床束の柱穴をともなっていること、また、寸莎(すさ)痕跡のある焼土塊が出土していることから、土壁で床張りの建物だったと考えられる。

北側の廂柱列から円形土製品や鉄製品、柱状高台の土器底部が、付近からは水晶玉が出土しており、建物に対する何らかの儀式が行なわれた可能性が考えられる。さらに、この建物の南側では桁行1間、梁行2間の掘立柱建物が近接して検出されており、建物の軸線がほぼ一致することから一体の建物であった可能性も考えられ、この建物は政治・儀式に関わる中心的な建物と推定される。

11 世紀中頃は、原添下区域南東部の大型の掘立柱建物跡を中心に、原添下・鳥海・二ノ宮後区域が使用されていた。大型の建物跡の周囲はL字状の堀がめぐり、竪穴建物が計画的に配置されていた。大規模な防御施設である堀を造成して区画した台地に櫓や柵を設け、軍事的性格を強めた館になったと考えられる。

原添下区域南東部では、台地東端と谷とをL字に結ぶ濠が検出され、この濠と沢とによって方形に区画された部分の中央で、東西方向の掘立柱建物が2棟検出された。南側の建物は、身舎が南北2間、東西2間以上の四面廂付きの掘立柱建物であり、東西19.63m、南北11.22mである。ほかに竪穴建物3棟が検出されている。濠からは、11世紀中頃の土師器が大量に出土していることから、これらの遺構は、この頃に廃絶したと考えられる。

鳥海区域には、北と南の沢を結ぶように大規模な直線状の濠が掘削され、南北約140m、東西約170mの大規模な方形区画が造られていた。

掘立柱建物の中には、櫓の可能性がある一間四方(東西3.4m、南北2.4m)の建物がある。

阿部宗任は、安倍頼良(頼時)の三男。別名は鳥海三郎。奥州藤原氏初代藤原清衡の叔父にあたる。前九年合戦では、兄・貞任や藤原経清と共に戦い活躍した。貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害され、安倍氏は厨川柵で滅んだが、宗任は降伏し捕虜として都に連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。

その後、源頼義の任国・伊予国に配流されたのち、治暦3年(1067年)伊予国から大宰府に再配流となった。配流地には諸説あるが、大宰府管内宗像郡の筑前大島説が有力で、筑前大島には、伝宗任建立の安昌院があり、記録では宗任は、嘉承 3 年(1108)に 77歳で死亡したとされる。

宗任の長女は、奥州藤原氏二代基衡の妻となって、三代秀衡の母となったとされ、平泉の観自在王院を建立したという。

長男・安倍宗良は、大島太郎・安倍権頭として大島の統領を継いだ。その子孫の安倍頼任(1624-1693)は、江戸時代前期の剣術家で剣豪として知られ、秋月氏に仕え、日本の武道史上最初に剣道を名乗った流派・安倍立剣道を開いた。

三男・安倍季任は、肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。子孫である松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍した。その為、治承・寿永の乱のあと、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘は平知盛の三男の平知忠に嫁いだが、源氏の迫害から逃れる為に知忠一族は妻の祖父であり、松浦氏を名乗っていた季任(実任)の本姓「安倍」を名乗ったとされ、政治家の安倍晋三は、安倍宗任の44代目の末裔であるとしている。

原添下区域。

原添下区域。堀跡。

掘添下区域南東部。

鳥海区域北西隅から東方向。

鳥海区域北西隅から東南東方向。

鳥海区域北西隅から南東方向。

鳥海区域北側から東方向。鳥海区域と原添下区域。

鳥海区域北側から北方向。原添下区域南東部。

鳥海区域北塔隅付近から東方向。鳥海区域北東部。

鳥海区域南外から鳥海区域南端崖。

鳥海区域南外から西の東北自動車道方向。

 

岩手県奥州市 国史跡・胆沢城跡・奥州市埋蔵文化財調査センター③アテルイ(阿弖流為)