序-2の続きです。参考文献は序-1にあります。
序-1では、たくさんの観測された事実(つまり過去の事実)から、常に成り立つと推定される法則を導き、その法則によりまだ観測されていない事実(例えば未来の事実)を推測する、ということを述べました。ここでの法則を導くのは、いわゆる枚挙的帰納法(enumerative induction)と呼ばれる方法です。またこれらの法則は直接観測された事実をそのまま法則化していることから経験則と呼ばれることがあります。非常によく検証されている経験則は単に事実とか、さらには観測事実とさえ見なされることが多いのですが、厳密には違います。少なくとも観測された事実(つまり過去の事実)とまでは言い過ぎでしょう。
序-2では、まだ直接には観測されていない原因や原理と呼ばれるものを想定することで、個別の経験則よりも広範囲の予測ができる一般則を導くことを述べました。広範囲に適用できるという利点はあるのですが、原因や原理を仮定しているという点を忘れると正しさを過信してしまうという危うさがあります。そこで近代以降の自然科学者たちは、このようなまだ直接には観測されていない原因や原理、およびそれらを使った理論すなわち一般則を、慎重に仮説と呼ぶことにしたのです。そして仮説が正しいか否かという検証は、その仮説を使った理論により予測された事実が実際に観測されるか否かにより行われます。これを仮説演繹法と呼びます。
一例を示してみましょう。
経験則 観測した恒星はすべて、北極星を中心として、同じ日周期、さらには同じ年周期で円運動をする。
一般則 まだ人の目に見えない多くの恒星も同じ円運動をする。
原因、原理-1 恒星はすべて、ひとつの球面に固定されている。この球面は地球の周りを一定周期で回転している。
原因、原理-2 恒星はすべて、空間に固定されている。地球はその中で一定周期で回転している。
ここで上記2つの分類(経験則と一般則)は必ずしもはっきりと分かれるものではないことは、よくよく注意しておきましょう。例えば現代の我々は、食器やテーブルや石の実在とほとんど同じくらいに分子や原子や電子の実在も事実とみなしています。けれど厳密によく考えてみれば、我々が分子や原子や電子の存在を直接観測したとは言いにくいことがわかります。例えば電子についていうと人間の目に直接見えるものは、蛍光版の光点だったり写真乾板の中の軌跡だったり計器の針の動きだったりであり、電子を直接見てはいないのです。一方では、丸い地球や、天体にも地上の物体と同じ法則が成り立つという理論など、18世紀以前には直接観測が困難だったことも、今ではほぼ直接観測ができると言える技術があります。
そして経験則に分類しようと一般則に分類しようと、法則や理論が正しいことは、その予測が観測事実として確認されることにより決められるということには変わりはありません。
しかし、観測事実による確認方法が原理的に適用できない場合があります。すなわち原理的に観測が不可能な場合です[*1]。他にもあるかも知れませんが、いくつか例示すれば、
1)過去の出来事
2)宇宙の地平線の向こう側
3)ブラックホールの内部
4)死後の世界
5)波動関数の収縮
残り4つはともかくとして、1の過去の出来事を知るということは実用的にも大事な問題です。社会や自然の歴史を知ることも意義のあることですが、事故原因調査や犯罪捜査は人や社会の運命をも左右します。そしてもちろん我々はみな、「唯一の過去の事実というものが存在したのだ」という前提のもとに判断し行動しています。これは何も科学分野に限ったことではありません。
明らかに過去の出来事というものの直接観測は未来永劫できません。我々は、現在残っている様々な証拠から過去の出来事を推定できるだけなのです。もっと突き詰めると、経験則を導くための帰納法というものは過去の複数の観測事実を使うのですが、これらの過去の複数の観測事実も実はもう2度とは観測できないものです。帰納法の根拠となったこれらの過去の複数の観測事実も実は、本当に存在していたとは絶対確実には言えないのではないでしょうか?
いやいやいやいや、いくらなんでもそこまで思いつめちゃったら何も判断できません。確かに数千年も過去の出来事ならもはや直接観測不可能と言っても構わないでしょうけれど、5分前の自分の記憶まで疑っていたら生きてはいけません。何事も中庸ということが大切です。
しかしながら適切な中庸を得るためには、両極端を想定してその中間がどんなものかを考えてみるという方法が有効です。挟み撃ちで敵を捕らえるのです。自然科学ではよく、求めたい値の上限と下限を求めて範囲を絞っていくという方法が使われますが、それとおなじことです。すなわち上記のような一見とんでもないような極論というものは、適切な範囲がどうなっているかを見極めるために使えるという点で有用なのです。極論で人を煙に巻くなんて悪用をしてはいけません。
ですので科学的判断としては、現在残っている様々な証拠から過去の出来事を、真実は唯一であるはずの出来事を推定することができる、と想定します。ここで現在というのは何も時間軸上の1点というわけではなくて、近い過去のいくばくかも含んでいる時間領域であることは明らかです。5分前に確認した観測事実も現在の観測事実なのです。
個人の記憶が使えないような過去でも、文字などの記録手段を得た知的生命体ならば他人の残した記録というものが使えます。いや記憶が使えるような過去でさえ、書き記した情報の方が生身の記憶よりも遥かに劣化しにくいという経験則を毎日のごとく検証させられていますから、多くの人々は文字情報の方を信頼すべく条件付けられてしまっています。それが行き過ぎて、文字情報だというだけで怪しげな情報まで信じ込んでしまったりします。
こうして生身の記憶を補強する記録手段を得た人類は遠い過去を覗き見る、いわば望遠鏡を手にしたのですが、記録には記録者の意図的な嘘や意図しない勘違いなども混じっています。そこから真実を見分ける手段の一つは、様々な整合性を調べることです。そしてそれは、まとめて抽象的に言えば、記録されている事実に信頼できると判定された経験則や一般則を当てはめてみて矛盾がないかどうかを調べるということです。
例えば極めて精度の高い例として、ニュートン力学という一般則を天体の観測記録に適用すれば、未来の月や太陽の運動が高精度に予測できて、例えば月食の場所も日時も予測できます。そして未来だけではなく過去についても、月食が生じていたはずの場所も日時も未来予測と同じ精度で推定できます。未来ならばその時が来れば予測が正しいかどうか確認できますが、過去については決して確認することはできず、正しいに違いないという事しかできません。
観測事実が確認されている限りの現在[*2]において正しいと検証されている法則(経験則や一般則)は未来でも過去でも正しいと想定することで、もはや決して観測できない過去の出来事も(検証された)事実として認めるわけです。歴史の検証という言葉はよく使いますが、この場合の検証という行為は、直接観測による法則の検証の場合とはかなり異なるというべきでしょう。過去は推定することしかできませんから、我々はそれを受け入れて信頼性の高い推定は事実とみなして行動することしかできません。そして通常の判断の場面では、確度の高い推定を過去の事実と呼ぶのです。
上記のように検証済みの範囲(例えば現在)から未観測の範囲(例えば未来や過去)を推定することを外挿すると呼びますが、外挿が可能なのは2つの範囲に連続性があるからです[*3]。要するに検証済みの範囲も未観測の範囲も似たようなものだという想定をしているからです。ですから上記の2)~5)も、連続性がどうなっているか、推定に使える法則はどんなものか、という点によって、推定を事実とみなせるか否かが決まってくると考えてよいでしょう。それは具体的には個別に考えてみるべき問題です。
しかし人の残した記録の信頼性に関しては、個別ではなく一般的に考えてみるべきポイントが今ひとつあります。次回はそれを検討してみます。
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*1) 原理的には適用可能だが実際的な困難が大きい場合もある。昔は先端機器を使える専門家でないと観測が不可能だったが、技術の進歩や普及により普通の人々でも観測可能になったものもある。
*2) 既述の通り、1時点ではなくかなりの時間範囲を含む。現在の長さ(2017/04/25)も参照。
*3) 外挿の世界(2011/12/07)参照。
序-1では、たくさんの観測された事実(つまり過去の事実)から、常に成り立つと推定される法則を導き、その法則によりまだ観測されていない事実(例えば未来の事実)を推測する、ということを述べました。ここでの法則を導くのは、いわゆる枚挙的帰納法(enumerative induction)と呼ばれる方法です。またこれらの法則は直接観測された事実をそのまま法則化していることから経験則と呼ばれることがあります。非常によく検証されている経験則は単に事実とか、さらには観測事実とさえ見なされることが多いのですが、厳密には違います。少なくとも観測された事実(つまり過去の事実)とまでは言い過ぎでしょう。
序-2では、まだ直接には観測されていない原因や原理と呼ばれるものを想定することで、個別の経験則よりも広範囲の予測ができる一般則を導くことを述べました。広範囲に適用できるという利点はあるのですが、原因や原理を仮定しているという点を忘れると正しさを過信してしまうという危うさがあります。そこで近代以降の自然科学者たちは、このようなまだ直接には観測されていない原因や原理、およびそれらを使った理論すなわち一般則を、慎重に仮説と呼ぶことにしたのです。そして仮説が正しいか否かという検証は、その仮説を使った理論により予測された事実が実際に観測されるか否かにより行われます。これを仮説演繹法と呼びます。
一例を示してみましょう。
経験則 観測した恒星はすべて、北極星を中心として、同じ日周期、さらには同じ年周期で円運動をする。
一般則 まだ人の目に見えない多くの恒星も同じ円運動をする。
原因、原理-1 恒星はすべて、ひとつの球面に固定されている。この球面は地球の周りを一定周期で回転している。
原因、原理-2 恒星はすべて、空間に固定されている。地球はその中で一定周期で回転している。
ここで上記2つの分類(経験則と一般則)は必ずしもはっきりと分かれるものではないことは、よくよく注意しておきましょう。例えば現代の我々は、食器やテーブルや石の実在とほとんど同じくらいに分子や原子や電子の実在も事実とみなしています。けれど厳密によく考えてみれば、我々が分子や原子や電子の存在を直接観測したとは言いにくいことがわかります。例えば電子についていうと人間の目に直接見えるものは、蛍光版の光点だったり写真乾板の中の軌跡だったり計器の針の動きだったりであり、電子を直接見てはいないのです。一方では、丸い地球や、天体にも地上の物体と同じ法則が成り立つという理論など、18世紀以前には直接観測が困難だったことも、今ではほぼ直接観測ができると言える技術があります。
そして経験則に分類しようと一般則に分類しようと、法則や理論が正しいことは、その予測が観測事実として確認されることにより決められるということには変わりはありません。
しかし、観測事実による確認方法が原理的に適用できない場合があります。すなわち原理的に観測が不可能な場合です[*1]。他にもあるかも知れませんが、いくつか例示すれば、
1)過去の出来事
2)宇宙の地平線の向こう側
3)ブラックホールの内部
4)死後の世界
5)波動関数の収縮
残り4つはともかくとして、1の過去の出来事を知るということは実用的にも大事な問題です。社会や自然の歴史を知ることも意義のあることですが、事故原因調査や犯罪捜査は人や社会の運命をも左右します。そしてもちろん我々はみな、「唯一の過去の事実というものが存在したのだ」という前提のもとに判断し行動しています。これは何も科学分野に限ったことではありません。
明らかに過去の出来事というものの直接観測は未来永劫できません。我々は、現在残っている様々な証拠から過去の出来事を推定できるだけなのです。もっと突き詰めると、経験則を導くための帰納法というものは過去の複数の観測事実を使うのですが、これらの過去の複数の観測事実も実はもう2度とは観測できないものです。帰納法の根拠となったこれらの過去の複数の観測事実も実は、本当に存在していたとは絶対確実には言えないのではないでしょうか?
いやいやいやいや、いくらなんでもそこまで思いつめちゃったら何も判断できません。確かに数千年も過去の出来事ならもはや直接観測不可能と言っても構わないでしょうけれど、5分前の自分の記憶まで疑っていたら生きてはいけません。何事も中庸ということが大切です。
しかしながら適切な中庸を得るためには、両極端を想定してその中間がどんなものかを考えてみるという方法が有効です。挟み撃ちで敵を捕らえるのです。自然科学ではよく、求めたい値の上限と下限を求めて範囲を絞っていくという方法が使われますが、それとおなじことです。すなわち上記のような一見とんでもないような極論というものは、適切な範囲がどうなっているかを見極めるために使えるという点で有用なのです。極論で人を煙に巻くなんて悪用をしてはいけません。
ですので科学的判断としては、現在残っている様々な証拠から過去の出来事を、真実は唯一であるはずの出来事を推定することができる、と想定します。ここで現在というのは何も時間軸上の1点というわけではなくて、近い過去のいくばくかも含んでいる時間領域であることは明らかです。5分前に確認した観測事実も現在の観測事実なのです。
個人の記憶が使えないような過去でも、文字などの記録手段を得た知的生命体ならば他人の残した記録というものが使えます。いや記憶が使えるような過去でさえ、書き記した情報の方が生身の記憶よりも遥かに劣化しにくいという経験則を毎日のごとく検証させられていますから、多くの人々は文字情報の方を信頼すべく条件付けられてしまっています。それが行き過ぎて、文字情報だというだけで怪しげな情報まで信じ込んでしまったりします。
こうして生身の記憶を補強する記録手段を得た人類は遠い過去を覗き見る、いわば望遠鏡を手にしたのですが、記録には記録者の意図的な嘘や意図しない勘違いなども混じっています。そこから真実を見分ける手段の一つは、様々な整合性を調べることです。そしてそれは、まとめて抽象的に言えば、記録されている事実に信頼できると判定された経験則や一般則を当てはめてみて矛盾がないかどうかを調べるということです。
例えば極めて精度の高い例として、ニュートン力学という一般則を天体の観測記録に適用すれば、未来の月や太陽の運動が高精度に予測できて、例えば月食の場所も日時も予測できます。そして未来だけではなく過去についても、月食が生じていたはずの場所も日時も未来予測と同じ精度で推定できます。未来ならばその時が来れば予測が正しいかどうか確認できますが、過去については決して確認することはできず、正しいに違いないという事しかできません。
観測事実が確認されている限りの現在[*2]において正しいと検証されている法則(経験則や一般則)は未来でも過去でも正しいと想定することで、もはや決して観測できない過去の出来事も(検証された)事実として認めるわけです。歴史の検証という言葉はよく使いますが、この場合の検証という行為は、直接観測による法則の検証の場合とはかなり異なるというべきでしょう。過去は推定することしかできませんから、我々はそれを受け入れて信頼性の高い推定は事実とみなして行動することしかできません。そして通常の判断の場面では、確度の高い推定を過去の事実と呼ぶのです。
上記のように検証済みの範囲(例えば現在)から未観測の範囲(例えば未来や過去)を推定することを外挿すると呼びますが、外挿が可能なのは2つの範囲に連続性があるからです[*3]。要するに検証済みの範囲も未観測の範囲も似たようなものだという想定をしているからです。ですから上記の2)~5)も、連続性がどうなっているか、推定に使える法則はどんなものか、という点によって、推定を事実とみなせるか否かが決まってくると考えてよいでしょう。それは具体的には個別に考えてみるべき問題です。
しかし人の残した記録の信頼性に関しては、個別ではなく一般的に考えてみるべきポイントが今ひとつあります。次回はそれを検討してみます。
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*1) 原理的には適用可能だが実際的な困難が大きい場合もある。昔は先端機器を使える専門家でないと観測が不可能だったが、技術の進歩や普及により普通の人々でも観測可能になったものもある。
*2) 既述の通り、1時点ではなくかなりの時間範囲を含む。現在の長さ(2017/04/25)も参照。
*3) 外挿の世界(2011/12/07)参照。
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