わたしは次女である。
夫は次男である。
そんで長女、次女の二人の娘がいる。
ということで、わたしのうちの長子(長男または長女)はただ一人、上の娘である。
親二人(次男次女)はこの事実を彼女が小学生くらいになったあたりから濃厚に意識することになる。
彼女の考える事や行動に「ナンデソウナルノ?」と「今イチわからない感」が起きるのだ。
勿論それが全て生まれた順番のせいではないのだが、大きな責任感(子供なのに)、場をまかされていると信じている(子供なのに)、失敗を嫌がる(はじめてなのに)、などなどが、わたしには到底分からない。そこで「いーじゃん別に!とにかくやればいいじゃん」とか言うのだが、アチラは「よくねえよ!」と思っているのだがら、そんな親の意見はハナクソみたいなものである。
うちのもう一人の娘(=次女)は、それに比較すると非常に軽い。「とりあえずやる。失敗しても別に気にしないでまたやる。そうこうしているうちに出来るようになる。」というトライ&エラー方式を自然にとれる。そんで責任感ゼロである。「なんか上手いことやる」のは卓越しているが、人のことなど眼中にない。え?人のことを考えるの?隣にいる人のこと?考えるって、何を?
まるでわたしのようである。
わたしの生徒さんは長女人口が結構多くて、だからスタジオで子(上)の愚痴を言っていると「いやいやいやいや」と言われることがある。「それ分かってあげてーせんせー」とか。
本当に近く(=親)には理解者がいないが、周辺には理解者がいて、子にはよかったなあと思う。
ーーーーーー
ともかくそんな子(上)が今年高校受験。
前にも書いたが、今の高校受験というのはわたしの時代とはずいぶん違う。
ひとつめ。
わたし(1971年生まれの北海道)の高校受験というのは「倍率1.03~1.1」とかだったように記憶している。中学生の時の記憶はほとんどないが、それでも難しい高校を受験した同級生が落ちてたのは強烈に覚えている。そのくらい公立高校に落ちるのは珍しかった。
今の都立高校は「倍率1.3~1.6」とかである。「見渡せばけっこう落ちてる」という数だ。実際に子の部活の先輩も何人も都立に落ちている。
ふたつめ。
田舎はどこでもそうだと思うが北海道は公立高校が優位である。一部を除いて私立は「消極的な選択肢」だ。
だが東京はそうでもない。「積極的に私立を選ぶ」ことがかなりある。ただ「消極的な私立」がないわけではないし、同じ学校内に「積極的に選んだ子と消極的に選んだ子が混在する」ということがあるようでもある。
みっつめ。
「中卒」の珍しさ、選択肢のなさは、どうだろう?
どっちもどっちか。わたしのころにももうすでに「高校くらいは行っておいたら。。」というような風潮があったような気がする。大学には「積極的に行かなかった」わたしだが、それでも「高校にいかない」ということは考えなかった。
よっつめ。
とはいえ「「大卒」になれば仕事がある」とは現在は言いがたい。それは超高学歴でも同じことで、ここはずいぶん違うと感じる。わたしの時は、その辺はもっと皆素朴に「いい学歴=いい仕事」とか思っていたような気がする。同時に「学歴などなくてもなんとかなる」というような「未来は明るい」空気が間違いなくあった。今はそれはない。
いつつめ。
わたしの頃は「女の子なんだから」とよく言われた。
わたしの場合は兄姉と比べて勉強のできない子だったので、その「女の子なんだから」は「だからいいじゃないのそれで」に繋がる言葉であった。「成績がそんな良くなくったって、どうせお嫁にいくんだから、いいじゃない」みたいな感じ。
今はそういう「女の子なんだから」という風潮はない。これは言葉に出さないだけではなく、本当にそういう気持ちが減ったと感じる。うちには息子がいないから差に気がつかないだけかもしれないが。
ーーーーーーーーー
こんな風に今と30年前の価値観が違い、東京と地方都市(ちなみに夫も地方都市出身)の違いも大きくある。
それから「中学生(子)」「高卒(わたし)」「大卒(夫)」の見方はやはり違うし、更にうちの場合は「親がどちらも個人事業主」という「少々(?)社会常識と違うところで生きている」という状況がある。
その中での高校受験である。
子の立場を想像してほしい。
ぼんやりと「都立希望だけど滑り止めで私立。そんで大学とかも行きたいな~」とかぽやーんと思っているところに、「私立ってなにそれ。なんで私立に行くの」とか言われるのである。「そんな勉強したくないならなんのために大学いくの」とか。そんであげくのはてに「なぜ、ひとは、まなぶのか」みたいなところに母親がのめり込んで行ってしまう。
ーーーーーーーーー
わたしは最近、ほんとうに長子はえらいと思うようになってきた。
長子というのは、こういう「親の世代の価値観と現在の価値観のズレ」や「親とこどものズレ」や「親同士のズレ」、はたまた「親がいままで考えてこなかった諸々」を親と一緒になって考え解決していく人だったのである。ルール作りに常に参加しているのだ。
その下になると、もう「お姉ちゃん(お兄ちゃん)はこうだったから」で済む。ルールはもう既に決まっているのだから、そのルールの中で「なんか上手いことやる」だけなのである。
小さいころから小さいことで綿々とこういうことを続けてきていて、だからこそ「長子の特徴」を持つ長子たちは、こうやってがっちんがっちんやってきたんだなあ。
世の中の不器用な長子の人たちに「不器用だにゃー」って思っててごめんなさいって今思っている。
ほんとアタマを丸めてお詫びしたいくらいである。
えらいよみんな。
ーーーーーーーーー
これから先、まるで読めない世の中。
どうやって実力をつけるのか。
なんの実力をどうやってつけるのか。
そもそも実力ってなんなのか。
「えらいなあ」という気持ちを忘れずに子と考えていこうと思う。
とりあえず「落ちたら都立定時の二次募集」って案を出したらなんか青くなってたけど。
かーちゃんもがんばるよ。
きみもがんばれ。
夫は次男である。
そんで長女、次女の二人の娘がいる。
ということで、わたしのうちの長子(長男または長女)はただ一人、上の娘である。
親二人(次男次女)はこの事実を彼女が小学生くらいになったあたりから濃厚に意識することになる。
彼女の考える事や行動に「ナンデソウナルノ?」と「今イチわからない感」が起きるのだ。
勿論それが全て生まれた順番のせいではないのだが、大きな責任感(子供なのに)、場をまかされていると信じている(子供なのに)、失敗を嫌がる(はじめてなのに)、などなどが、わたしには到底分からない。そこで「いーじゃん別に!とにかくやればいいじゃん」とか言うのだが、アチラは「よくねえよ!」と思っているのだがら、そんな親の意見はハナクソみたいなものである。
うちのもう一人の娘(=次女)は、それに比較すると非常に軽い。「とりあえずやる。失敗しても別に気にしないでまたやる。そうこうしているうちに出来るようになる。」というトライ&エラー方式を自然にとれる。そんで責任感ゼロである。「なんか上手いことやる」のは卓越しているが、人のことなど眼中にない。え?人のことを考えるの?隣にいる人のこと?考えるって、何を?
まるでわたしのようである。
わたしの生徒さんは長女人口が結構多くて、だからスタジオで子(上)の愚痴を言っていると「いやいやいやいや」と言われることがある。「それ分かってあげてーせんせー」とか。
本当に近く(=親)には理解者がいないが、周辺には理解者がいて、子にはよかったなあと思う。
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ともかくそんな子(上)が今年高校受験。
前にも書いたが、今の高校受験というのはわたしの時代とはずいぶん違う。
ひとつめ。
わたし(1971年生まれの北海道)の高校受験というのは「倍率1.03~1.1」とかだったように記憶している。中学生の時の記憶はほとんどないが、それでも難しい高校を受験した同級生が落ちてたのは強烈に覚えている。そのくらい公立高校に落ちるのは珍しかった。
今の都立高校は「倍率1.3~1.6」とかである。「見渡せばけっこう落ちてる」という数だ。実際に子の部活の先輩も何人も都立に落ちている。
ふたつめ。
田舎はどこでもそうだと思うが北海道は公立高校が優位である。一部を除いて私立は「消極的な選択肢」だ。
だが東京はそうでもない。「積極的に私立を選ぶ」ことがかなりある。ただ「消極的な私立」がないわけではないし、同じ学校内に「積極的に選んだ子と消極的に選んだ子が混在する」ということがあるようでもある。
みっつめ。
「中卒」の珍しさ、選択肢のなさは、どうだろう?
どっちもどっちか。わたしのころにももうすでに「高校くらいは行っておいたら。。」というような風潮があったような気がする。大学には「積極的に行かなかった」わたしだが、それでも「高校にいかない」ということは考えなかった。
よっつめ。
とはいえ「「大卒」になれば仕事がある」とは現在は言いがたい。それは超高学歴でも同じことで、ここはずいぶん違うと感じる。わたしの時は、その辺はもっと皆素朴に「いい学歴=いい仕事」とか思っていたような気がする。同時に「学歴などなくてもなんとかなる」というような「未来は明るい」空気が間違いなくあった。今はそれはない。
いつつめ。
わたしの頃は「女の子なんだから」とよく言われた。
わたしの場合は兄姉と比べて勉強のできない子だったので、その「女の子なんだから」は「だからいいじゃないのそれで」に繋がる言葉であった。「成績がそんな良くなくったって、どうせお嫁にいくんだから、いいじゃない」みたいな感じ。
今はそういう「女の子なんだから」という風潮はない。これは言葉に出さないだけではなく、本当にそういう気持ちが減ったと感じる。うちには息子がいないから差に気がつかないだけかもしれないが。
ーーーーーーーーー
こんな風に今と30年前の価値観が違い、東京と地方都市(ちなみに夫も地方都市出身)の違いも大きくある。
それから「中学生(子)」「高卒(わたし)」「大卒(夫)」の見方はやはり違うし、更にうちの場合は「親がどちらも個人事業主」という「少々(?)社会常識と違うところで生きている」という状況がある。
その中での高校受験である。
子の立場を想像してほしい。
ぼんやりと「都立希望だけど滑り止めで私立。そんで大学とかも行きたいな~」とかぽやーんと思っているところに、「私立ってなにそれ。なんで私立に行くの」とか言われるのである。「そんな勉強したくないならなんのために大学いくの」とか。そんであげくのはてに「なぜ、ひとは、まなぶのか」みたいなところに母親がのめり込んで行ってしまう。
ーーーーーーーーー
わたしは最近、ほんとうに長子はえらいと思うようになってきた。
長子というのは、こういう「親の世代の価値観と現在の価値観のズレ」や「親とこどものズレ」や「親同士のズレ」、はたまた「親がいままで考えてこなかった諸々」を親と一緒になって考え解決していく人だったのである。ルール作りに常に参加しているのだ。
その下になると、もう「お姉ちゃん(お兄ちゃん)はこうだったから」で済む。ルールはもう既に決まっているのだから、そのルールの中で「なんか上手いことやる」だけなのである。
小さいころから小さいことで綿々とこういうことを続けてきていて、だからこそ「長子の特徴」を持つ長子たちは、こうやってがっちんがっちんやってきたんだなあ。
世の中の不器用な長子の人たちに「不器用だにゃー」って思っててごめんなさいって今思っている。
ほんとアタマを丸めてお詫びしたいくらいである。
えらいよみんな。
ーーーーーーーーー
これから先、まるで読めない世の中。
どうやって実力をつけるのか。
なんの実力をどうやってつけるのか。
そもそも実力ってなんなのか。
「えらいなあ」という気持ちを忘れずに子と考えていこうと思う。
とりあえず「落ちたら都立定時の二次募集」って案を出したらなんか青くなってたけど。
かーちゃんもがんばるよ。
きみもがんばれ。
が、結構成長すると、いきなり逆転することもありますね。姉と妹の立場が。
あんなに真面目だった姉が、大人になったら、プータロー、社会の運営から大幅に外れるという事もありますね。
しかし、長子じゃない人の考えも、
聞けば聞くほどムカムカしますね。
もうちょっと周りに気をつかって、
海老天ソバなんか頼むなよ、私はもりそばだよ、
って、なんか小っちゃいですね。
そうでしょうね。向こうから見たらすごい腹たつんだろうなあと思います。私食べたかったらエビ天ソバ頼むほうです。ひーごめんなさい!!
血液型別の性格なんかよりも断然信憑性がありますねー。
うちの長子はいつも店で一番高いもの頼みやがりますけど、外ではきっとモリソバ頼むんだろうな。。。