えんどうえこばなし

フラメンコ。レッスン動画とえこばなし。

おもしろい場をつくる2

2013-09-03 17:26:04 | えこばなし
突然だが、いい人生とはなんだろうか?

オカネモチになること?
すてきなヒトと巡り会うこと?
自分を高めていくこと?

一言では言えないよ!そんな単純なもんじゃないよ!

わたしは、人生が終わる直前に「自分」が「うん、いい人生だった」と思えればいい人生なんじゃないかと思っている。「失敗もあったけど、まあ、なかなかよかったじゃない」
では「他人」がどう思うかはどうだろう?
「他人の評価」は「わたしの人生がいい人生かどうか」の指標になるのだろうか?

「そんなの関係ないね。自分がどう感じるかが大切なのさ」と言うことも出来るが、意外とそうでもない。
関係のない人から何を言われようとも構わないが、関係のある人~家族、友人~とりわけ好きな人からは「うん、えこちゃん、なかなかいい人生だったじゃない?」という評価を得たいと思う。または「神」から「まあ、悪くなかったんじゃない」という評価を得たい。まあ神よりも死んだおばあちゃまに「よかったねえ」って言ってもらいたい。
ともかく「他人=私ではない大切な誰か」から評価を得たい。

だから「自分の評価」と「他人(=私ではない大切な誰か)からの評価」を考えて「なにをするか」を判断することになる。
自分の視点が強い場合(バチがあたっとしてもこうする!)もあるし、他人の視点が強い(おばあちゃんが見たら悲しむからやめよう)場合もあるし、他人の「誰を」視点にするかもその時々で違う。

そしてその評価は「人生の最後」になるわけで、だからそれまでは「こうじゃないか」「いやいやこうじゃないか」「あー失敗した」などと必死にあがくことになる。
さらに「夫」などのその辺にいる人が視点なら途中経過も聞けるけれど(こう生きていきたいと思ってるんすけど今んところ間違ってないっすかね?)「神」とか「死んだばあちゃん」を視点にしてしまうとそれも出来なくなる。「ばあちゃんだったら多分こう言うはずだ」という一点のみで頑張るしか無い。

つまりたいていは手探りだ。
そうは言っても何かをするときにいちいち「誰を視点に、、」とかは考えない。なんとなく、あ、これだよね、位の感覚で決めていくのが普通だろう。

ただ間違いなく各人の人生には「自分と誰か」がいる。
わたしは自分のことが大好きなウヌボレヤだから「自分の評価」を一番頼りにする。反対に「世間(顔の見えない誰か)」にはあんまり興味がない(少しはあるよ!ほんとだよ!)から、人生「自分と大切な人からの評価」だけを考える。
逆に「世間」が一番の評価基準という人も割といる。「自分は一体どこへ?」というくらい「世間」を気にする人もいて、そんなのは面白くないだろうなあ、とおせっかいに思ったりするが、向こうだって私のことを「あんなの非常識で大変だろうなあ」と思っているだろう。

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フラメンコをしているときも、同じだと思う。

「自分」がまずあって、そして「評価されたい人」がいる。

たとえばコンクールなら「審査員」の評価に視点をおく。これはもうそれ以外にないだろう。
仲間うちで遊んでいるならば「自分と仲間」。
レッスンの最中だったら「先生」かもしれない。
「自分の評価」は「間違えなかった」だったり「気持ちよく踊れた」だったり。
そこに「よかったよ」の言葉とかハレオなどの「他人からの評価」が返ってくる。もちろん白けた空気とかまばらな拍手などの残念な評価のこともある。

そしてそれの「どれを」気にするのかは各人で違う。場がしらーっとしてしまっても自分が気持ちよく踊れれば意にしない人もいれば、他人の評価ばかりが気になってしまう人もいる。

で、ここまでは人生と同じなのだが、それとは別にもうひとつ「自分たち」という項目を入れたい。

「自分」「自分たち」「他人」

だ。
会社のプロジェクトなんかでも同じなんじゃないかと想像するが、チーム作業における「よい場=おもしろい場」にはこの「自分たち」という視点が必要不可欠である。
野球選手が「自分の記録よりチームの勝ちが大切です」とか言ったりするあれである。
そしてフラメンコはチームでやるものなのである。

なーんだあたりまえじゃーん!
と言われそうだが、意外とこのことを知らない人は多いと思う。
いや、ほんとよ?「私たちは、このショーをどう評価するか?」っていう視点をもつことって、当たり前のようでいて、知られてないことだと思う。特に踊り手は知っていても忘れがちなことだと思う。生徒さんかどうかとは関係なくてね。前線にたつと後方にいる人たちの存在を忘れがちなんだろうね。

それは「自分」とは別の生き物。「自分としてはイマイチだったけど、自分たちとしては上出来だった」「自分はうまくいったと思ったけど、自分たちとしてはまあまあだった」ということは普通にある。帰りの電車でどうやったら自分も自分たちも上出来になれたんだろうか?と考える。あの場でなにが出来たんだろうか?と。まあそれが普通の状態。

そしてたまに良い場が出来ると「自分」が「自分たち」に吸い込まれていて、「単体の自分」というものがいなくなる。それぞれの判断がそれぞれの判断を呼び、あの人があっちに傾きわたしがこっちに反応し、、としていると、それが「一体誰の判断なのか分からなくなってくる」ということがある。誰がどう仕掛けたのか、誰の音でそうなったのか、もう分からない。分からないが別にいいじゃない?というもの。
それは「自分も自分たちもうまくいきました」とは何か別の質のものなのだ。

それで更に奇跡的なくらいの良い場が出来ると「自分たち」と「他人(=お客さん)」までもが混然一体になって「未知の生物X」がタブラオ内でうごめいているみたいな事態になったりする。

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わたしは、この状態が「よい場=おもしろい場」だと思う。
「わたしもあなたも誰もかもが一体となる」ということが、「良い場」と思う。

それぞれの判断をする「自分」
その「自分」の目線の先にある「他人」
そして「自分たち」。

ということで、踊り手が忘れがちな「自分たち」について次回書きます。

その1

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