先週は、金融公庫のひとと面接をして、業者さんと打合せをして、病院で検査を受けて、保護者会に出て、バレンタインデーにココア入りメレンゲを子(大)と作成して、風邪ひいた子(小)と一日ビデオを見たりした。
今週は風邪治った子(大小)と映画を見に行ったと思ったら再び発熱してしまって出鼻をくじかれるものの、小学校の説明会だとか、母が遊びに来るので部屋(スタジオの荷物でいっぱい)を片づけるだとか、ノベンバーでライブだとか、やっぱり色々ある。発表会のプログラムも決めなきゃね。
書類は完璧に出来ているのに確定申告に行く時間もない。
今週あるはずだった土地の引き渡しが月末に伸びて久々に「人を脅す」という行為に出たが、伸びたことで今週はひとつ楽になった気もする。今週は、っていう近眼的な話だけだけど。
3月になると検査結果が出るだの、卒園式(今年はダブル卒園式)だの、保育園の説明会だの、クルシージョだの、いい加減にスタジオ計画も本格始動したいだの、小学校の準備だのと、なんだかせわしない。
さすがに最近は「自分の範囲を超えてる」感があるので、スケジュール帳に頼ったスケジュールを組んでいる。そのため、ダブルブッキングなどのやばい話はなくなった。でも全然視野が狭い感じ。「明日のこと」くらいまでしか理解できてない。どこかに大穴があいていそうだが、今の感覚だと落ちても気がつかなさそう。
この、次から次へと繰り出される「仕事なのか遊びなのかわかんないような事柄」を片づけている中でも、色々と思うことはあって、一番思うことは「良い人が周りにいる」ということだ。
この前、多分本当は自分が怒らなきゃいけないところで隣の知人が替わりに怒ってくれたのだが、その時に5年前の手術の時のことを思い出した。手術の前の日には担当医と家族と本人とでミーティングをするのだが、そのときに聞きにくいことをものすごい切り込み方でズバズバと聞いてくれたのは夫で、その瞬間は「そんなことまで言わなくても」と思ったものだったが、やはり今回と同じようにわたしの替わりに切り込んでくれたのは有難いことだった。
また、同じく手術の話だが、取ってしまう指の腱の替わりに移植する腱は通常は足から取ると聞いて、足から腱など取っては踊れないだろう、と考えたので「それじゃあ手はうごかなくてもいいです」と即答した私に、担当医は「えっ」と驚いた後でしばらくじーっとわたしを眺めて「違う方法もあります。調べておきます。」と言った。そして次のときに行ったら「いい方法がある」と嬉しそうに教えてくれたのだった。その方法がどのくらい特殊なものなのかは知らないが、明らかにわくわくたり研修医に見せびらかしてたのでそれなりに特殊な方法だったのだと思う。そのお陰でわたしは今ほとんど不自由なく右手も使えるし、足は無傷でぴんぴん踊っていられる。それが当たり前といえばそうかもしれないが、普段のやり方にNGが出た時に、ぱっとやり方を変えて、それを嬉々としてやってのける医者に出会えて本当によかった。
そんなことを急に思い出したのは今回お会いした人達の中に、すぱっと何かを切り替える力を沢山見る機会があったからだ。「これでダメならこれでいきましょう」というやり方がどんどん出てくる。勿論相手は商売で、客であるわたしの為に行っていることだ。ただ、その提案の仕方に嬉々とした何かを感じる時に、わたしは清々しく今はもう会わない担当医のことを思い出す。そして、5年前の手術が成功したように、今回のスタジオも上手く行く、と確信をもつ。
しかし省みて自分が他人の替わりに怒ったり、他人の注文で自分のやりかたにNGが出た時に同じような対応が出来るかと問えば、あまり自信がなく、まったくもって恥ずかしい限り。いつも人にばかり手間をかけさせて、自分はただただ恵んでもらってばかりいる。
今週は風邪治った子(大小)と映画を見に行ったと思ったら再び発熱してしまって出鼻をくじかれるものの、小学校の説明会だとか、母が遊びに来るので部屋(スタジオの荷物でいっぱい)を片づけるだとか、ノベンバーでライブだとか、やっぱり色々ある。発表会のプログラムも決めなきゃね。
書類は完璧に出来ているのに確定申告に行く時間もない。
今週あるはずだった土地の引き渡しが月末に伸びて久々に「人を脅す」という行為に出たが、伸びたことで今週はひとつ楽になった気もする。今週は、っていう近眼的な話だけだけど。
3月になると検査結果が出るだの、卒園式(今年はダブル卒園式)だの、保育園の説明会だの、クルシージョだの、いい加減にスタジオ計画も本格始動したいだの、小学校の準備だのと、なんだかせわしない。
さすがに最近は「自分の範囲を超えてる」感があるので、スケジュール帳に頼ったスケジュールを組んでいる。そのため、ダブルブッキングなどのやばい話はなくなった。でも全然視野が狭い感じ。「明日のこと」くらいまでしか理解できてない。どこかに大穴があいていそうだが、今の感覚だと落ちても気がつかなさそう。
この、次から次へと繰り出される「仕事なのか遊びなのかわかんないような事柄」を片づけている中でも、色々と思うことはあって、一番思うことは「良い人が周りにいる」ということだ。
この前、多分本当は自分が怒らなきゃいけないところで隣の知人が替わりに怒ってくれたのだが、その時に5年前の手術の時のことを思い出した。手術の前の日には担当医と家族と本人とでミーティングをするのだが、そのときに聞きにくいことをものすごい切り込み方でズバズバと聞いてくれたのは夫で、その瞬間は「そんなことまで言わなくても」と思ったものだったが、やはり今回と同じようにわたしの替わりに切り込んでくれたのは有難いことだった。
また、同じく手術の話だが、取ってしまう指の腱の替わりに移植する腱は通常は足から取ると聞いて、足から腱など取っては踊れないだろう、と考えたので「それじゃあ手はうごかなくてもいいです」と即答した私に、担当医は「えっ」と驚いた後でしばらくじーっとわたしを眺めて「違う方法もあります。調べておきます。」と言った。そして次のときに行ったら「いい方法がある」と嬉しそうに教えてくれたのだった。その方法がどのくらい特殊なものなのかは知らないが、明らかにわくわくたり研修医に見せびらかしてたのでそれなりに特殊な方法だったのだと思う。そのお陰でわたしは今ほとんど不自由なく右手も使えるし、足は無傷でぴんぴん踊っていられる。それが当たり前といえばそうかもしれないが、普段のやり方にNGが出た時に、ぱっとやり方を変えて、それを嬉々としてやってのける医者に出会えて本当によかった。
そんなことを急に思い出したのは今回お会いした人達の中に、すぱっと何かを切り替える力を沢山見る機会があったからだ。「これでダメならこれでいきましょう」というやり方がどんどん出てくる。勿論相手は商売で、客であるわたしの為に行っていることだ。ただ、その提案の仕方に嬉々とした何かを感じる時に、わたしは清々しく今はもう会わない担当医のことを思い出す。そして、5年前の手術が成功したように、今回のスタジオも上手く行く、と確信をもつ。
しかし省みて自分が他人の替わりに怒ったり、他人の注文で自分のやりかたにNGが出た時に同じような対応が出来るかと問えば、あまり自信がなく、まったくもって恥ずかしい限り。いつも人にばかり手間をかけさせて、自分はただただ恵んでもらってばかりいる。
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