こないだのライブでメイクをしてたとき、自分の目の下のたるみにビックリして、何人かのイケてる人に聞いたところ、リンダねえさんが「リンパマッサージ」というものを教えてくれたので、たまにやっている。
「マッサージクリームを塗るんですよ!」とTさんが言ってたのでスタジオのハンドクリームを使う。
何か間違っているような気がしないでもない。
でも、いいにおいなんだよ。
アンチエイジングみたいなことには甚だ否定的だったが、ライブでおばあちゃんが踊ってるみたいのはダメだと思う。嫌ではなくて、ダメだと思う。舞台に立つもの、舞台上では若々しくあるべし的な。
「では、それはアンチエイジングではないのか?」
ーーーーーーーーーーーー
また来年も役員を引き受けてしまった。
もう何年もなにがしかの役員を毎年やっている。PTA、町内会、来年は部活の保護者会。
3月4月はあれこれ集まりが多い。
イヤイヤやっている人もいると思うが、たいてい何か、なんだろう、志がある人が多くて、いつも感心する。
多少の「ママ友もできるし楽しいよ」みたいのもあるけれど、それだけではない、何か。
まだちょっと表現方法が思いつかないが「大人」なのだと思う。
消費者側ではなく、生産者側、というか。
「踊らない私」は、そんな中、気が利かなくて、イケてない。
「いつか踊る私」ならその「イケてなさ」ですら武器になるかもしれないが、この世界では「永遠に踊らない私」のままである。
そのことが私を不安にさせる。
ということに、先日いきなり気がついた。
ーーーーーーーーーーーーーー
考えてみれば、私は子供のころからずっと「いつか踊る」という前提でしか人付き合いをしてこなかった。
子供のころは学校で平気でいつも踊っているか一人芝居をしている子だったし、就職して真面目にフラメンコをはじめてからは、交友関係はフラメンコ中心。職場でもエレベーターでガツガツ足の練習して、降りたエレベーターホールですれ違った人に「あーえんどうさんが乗ってるんだなあって分かった」とか言われたりしていた。当然スペイン時代、帰国してからのタブラオで会う人は「踊ってナンボ」なわけで、だから、私はただただひたすらに「踊っているとき、舞台にいるときに一番よい状態でいるためには」ということに集中していた。
だから、わたしにとっての勝負どころは「舞台上」なわけで、舞台上で輝ければ、極論、楽屋裏や普段の生活がどんなに変人でもイケてなくても構やしない、と、信じて、そのとおりにずうっと生きていたのだ。
そう考えるとビックリだ。
ビックリだし、「だから、まあ、普段気が利かないのも仕方ないかなあ」とも思う。
思うが、その「踊らない自分のイケて無さ具合」に直面すると、なんだかオロオロして、不安になってしまう。
ーーーーーーーーーーーーーー
今年は、普段の「イケてない」から逃げないようにしてみようかな、とちらりと思う。
リンパマッサージしてね、人の名前と顔もちゃんと覚えるようにして、あと、知らない人から声をかけられてもその場でごまかして分かったフリしない。
とか、そういうこと。
そしたら「今年もまた、引き受けてしまった」ではなく「今年も、引き受けた」と言えるようになるかもしれない。
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そのほうが気分がいいな。
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わたしがスタジオカフェ化計画に夢中になっていた頃、オットは「太陽光発電&ネット環境セット収納計画」に夢中になっていた。
新しいADSL(乗り換えた)のセット、パソコン、iPod、太陽光発電からの充電コーナー、バッテリー、太陽光でうごくラジオ、などなどが壁の中に収納されている。
美しいね。
ナニが美しいって、コードの巻き方が美しい。
スタジオでも真似してみたいが、果たしてわたしにできるかどうかは疑問だ。
ーーーーーーーーーーーーーー
人には得意不得意があるが、
不得意だからって切り捨てないでみるのも、ちょっと、いいかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーー
トライしてみようか。
「マッサージクリームを塗るんですよ!」とTさんが言ってたのでスタジオのハンドクリームを使う。
何か間違っているような気がしないでもない。
でも、いいにおいなんだよ。
アンチエイジングみたいなことには甚だ否定的だったが、ライブでおばあちゃんが踊ってるみたいのはダメだと思う。嫌ではなくて、ダメだと思う。舞台に立つもの、舞台上では若々しくあるべし的な。
「では、それはアンチエイジングではないのか?」
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また来年も役員を引き受けてしまった。
もう何年もなにがしかの役員を毎年やっている。PTA、町内会、来年は部活の保護者会。
3月4月はあれこれ集まりが多い。
イヤイヤやっている人もいると思うが、たいてい何か、なんだろう、志がある人が多くて、いつも感心する。
多少の「ママ友もできるし楽しいよ」みたいのもあるけれど、それだけではない、何か。
まだちょっと表現方法が思いつかないが「大人」なのだと思う。
消費者側ではなく、生産者側、というか。
「踊らない私」は、そんな中、気が利かなくて、イケてない。
「いつか踊る私」ならその「イケてなさ」ですら武器になるかもしれないが、この世界では「永遠に踊らない私」のままである。
そのことが私を不安にさせる。
ということに、先日いきなり気がついた。
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考えてみれば、私は子供のころからずっと「いつか踊る」という前提でしか人付き合いをしてこなかった。
子供のころは学校で平気でいつも踊っているか一人芝居をしている子だったし、就職して真面目にフラメンコをはじめてからは、交友関係はフラメンコ中心。職場でもエレベーターでガツガツ足の練習して、降りたエレベーターホールですれ違った人に「あーえんどうさんが乗ってるんだなあって分かった」とか言われたりしていた。当然スペイン時代、帰国してからのタブラオで会う人は「踊ってナンボ」なわけで、だから、私はただただひたすらに「踊っているとき、舞台にいるときに一番よい状態でいるためには」ということに集中していた。
だから、わたしにとっての勝負どころは「舞台上」なわけで、舞台上で輝ければ、極論、楽屋裏や普段の生活がどんなに変人でもイケてなくても構やしない、と、信じて、そのとおりにずうっと生きていたのだ。
そう考えるとビックリだ。
ビックリだし、「だから、まあ、普段気が利かないのも仕方ないかなあ」とも思う。
思うが、その「踊らない自分のイケて無さ具合」に直面すると、なんだかオロオロして、不安になってしまう。
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今年は、普段の「イケてない」から逃げないようにしてみようかな、とちらりと思う。
リンパマッサージしてね、人の名前と顔もちゃんと覚えるようにして、あと、知らない人から声をかけられてもその場でごまかして分かったフリしない。
とか、そういうこと。
そしたら「今年もまた、引き受けてしまった」ではなく「今年も、引き受けた」と言えるようになるかもしれない。
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そのほうが気分がいいな。
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わたしがスタジオカフェ化計画に夢中になっていた頃、オットは「太陽光発電&ネット環境セット収納計画」に夢中になっていた。
新しいADSL(乗り換えた)のセット、パソコン、iPod、太陽光発電からの充電コーナー、バッテリー、太陽光でうごくラジオ、などなどが壁の中に収納されている。
美しいね。
ナニが美しいって、コードの巻き方が美しい。
スタジオでも真似してみたいが、果たしてわたしにできるかどうかは疑問だ。
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人には得意不得意があるが、
不得意だからって切り捨てないでみるのも、ちょっと、いいかもしれない。
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トライしてみようか。
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