前回より続きます。
満月の法則を提唱されている佐藤学長と私たちの決定的な違いとは何か。
それは
佐藤学長は『目の前の人は満月だ』という大前提から1ミリもぶれないという事です。
満月という前提に立つとどうなるか。
満月という前提にたった瞬間から、物事の見え方が変わってくるのです、ガラガラと変化していくのです。
三日月の形がガラガラと変わってくるのです。
不完全で不幸としか思えなかった三日月の形が、丸みをおびた月の形に変わってくるのです。
不完全で不幸だとしか思えなかった出来事が、愛と感謝に溢れ、幸せ一杯喜び一杯の出来事に変化していくのです。
しかし、私たちには、神の完全完璧は見えない。実相は見えない。満月は見えない。
全て、私たちの心の中で移る映像が変わっただけで、物事の実体は何も変わっていないのです。
もともと、私たちが五感で捉える世界は『無い』のです。
『無い』からこそ、自由自在に書き換えられるのです。
満月という前提に立つだけで、物事が無限に素晴らしき良き方向に変化して見えてくるのです。
これを佐藤学長は、『極地の認識』と仰った。
学長も実相は見えていない。
ただ、認識の世界の中では、極地におられるのだと私は思います。
以前学長は、こう仰っていました。
『無限なる世界、実相はただ在るだけ。1ミリも変化しない。しかし、有限なる世界、認識の世界は、無限に触れた瞬間、有限の世界は無限に変化する。』と。
満月という前提に立つことで、物事の見え方が無限に変化していくのです。
それも無限に、より良き方向に、愛と感謝と喜びと幸せ、健康発展の方向に、無限に変化していくのです。
この間の『サンタ営業言葉編』のセミナーで
ある受講生が、徹底的な質疑応答の後半で、こうつぶやいていた。
『そうか、満月を見ようとするんじゃないんだ。見えてくるんだ┅┅┅。』
これを聞いて笑っている人もいましたが、
私は、これこそが、満月の法則の急所だと思います。
満月という前提に立つと、三日月の見え方が結果として丸みを帯びてくるのです。
もしくは三日月が、その形のまま美しく見えてくるのです。
三日月が見えながらも、満月という前提から1ミリもぶれない学長。
三日月の欠けている部分を直視して、欠けている部分を必死で埋めようとして、何とか満月を見ようと必死な私たち。
三日月が見えたままでも、満月という前提に立つのか。
三日月という前提で、足して満月を見ようと必死になるのか。
ここが佐藤学長と私たちの決定的な違いだと思うのです。
ゆえに、学長と私たちは、同じ物事の見え方が違うのです。
学長が見えている世界と、私たちが見ている世界とは違うのです。
『夜空に浮かぶ三日月。しかし、私たちには三日月に見えるだけで、三日月という月は無い。満月なんです。』
佐藤学長と私たちの違いは、『満月という前提』から1ミリもぶれていないという事です。
だから、佐藤学長から見える世界は、私たちから見えている世界とは別世界。次元が違う。という事だと私は思うのです。
以上 私の個人的意見でした。
ありがとうございました。