お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

小丸城

2014-04-21 06:00:02 | 福井県
 小丸城

2014/4/12

福井県越前市のお城めぐり

 越前支配を任された柴田勝家を補佐した府中三人衆の一人、佐々成政の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 小丸城
よみ: コマル
別称:
所在地: 福井県越前市五分市町
現状: 小丸城跡
築城年代: 天正三年(1575)
築城者: 佐々成政
形式: 平城
遺構: 本丸・石垣跡・堀跡
規模: 本丸50m四方
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2014/4/12


≪ 訪城記 ≫

福井城から小丸城へ向かう。

北ノ庄城址公園駐車場を出て北へ向かい、信号を右折、県道5号を東進、西方交差点信号を右折、国道8号を南下、葛岡三叉路信号を左折、武生IC入口を通り、北陸道の高架下をくぐり、県道262号を東進、葛岡信号から約3.2㎞の交差点信号を右折、南下して道が左へ曲がったところの上真柄町へ入っってすぐの交差点を左折、約100m南下した三叉路を左折、約300m東進した道の北側に小丸城跡の丘があり、西側の常安楽院入り口の空き地に車を駐車させてもらう。

道の北側沿いに小丸城趾碑と説明板があり、丘の上に本丸があり慰霊碑が建てられている。城跡の南東側に門跡のような橋跡のような石垣跡があり、北と東側の城周りには堀跡が残る。


≪ 歴 史 ≫

天正三年 (1575) 越前の一向一揆を平定した柴田勝家の越前支配を補佐する府中三人衆の一人、佐々成政が小丸城を築き、居城とする。
天正七年 (1579) 佐々成政が越中砥山城(富山城)に転封となり、わずか四年間で廃城となる。


≪ 写 真 ≫


小丸城


小丸城趾碑


南面の石垣跡


本丸


石垣跡


東側の堀跡


南東側からの本丸


北西側からの本丸


北東側からの本丸


堀跡

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線武生駅からバスで小丸城下車すぐ。
<車>
北陸道武生ICを降りて庄町信号を右折、北陸道の高架下をくぐり、県道262号を東進、葛岡信号から約3.2㎞の交差点信号を右折、南下して道が左へ曲がったところの上真柄町へ入っってすぐの交差点を左折、約100m南下した三叉路を左折、約300m東進した道の北側に小丸城跡の丘があり、西側の常安楽院入り口の空き地に駐車すると良い。


≪ 位置図 ≫

小丸城


紹介したお城の数 205城



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福井城

2014-04-20 07:33:52 | 福井県
 福井城

2014/4/12

福井県福井市のお城めぐり

 徳川家康次男結城秀康の越前松平氏代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 福井城
よみ: フクイ
別称: 北庄城
所在地: 福井県福井市大手3丁目17-1
現状: 福井県庁
築城年代: 慶長六年(1601)
築城者: 結城秀康
形式: 平城
遺構: 本丸・天守台・御本城橋・御廊下橋・内堀・石垣・井戸
規模: 約1,750m×約1,950m
文化財:
訪城日: 2010/8/20・2014/4/12


≪ 訪城記 ≫

北ノ庄城から徒歩で福井城へ向かう。

柴田神社横の道を北へ抜け、柴田神社入口の鳥居をくぐり右折、約60m東へ向かい交差点を左折、約150m北上、福井鉄道福武線福井駅前横をを渡り直進して県庁入口信号を渡り、約140mで福井県庁入口の御本城橋に着く。

ちょうどふくい春まつりの日でした。
まずは広い内堀と石垣を眺めながら一周する。石垣に垂れ下がる桜の花が優雅で美しい。
西側の石垣はところどころ膨らんでいる所もある。
大手門の石垣、南西の押櫓跡石垣、北西の天守台石垣、北東の艮櫓跡石垣、南東の巽櫓跡石垣と堪能しました。
内堀西側中央付近の御廊下橋を渡り、山里口御門跡の桝形虎口を通って、右側の急な石段を登り福井城天守台と控天守台、福の井が見られ、特に控天守台は福井地震によって大きく崩れています。


≪ 歴 史 ≫

慶長五年十二月 (1600) 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、越前国の領主として次男結城秀康を封じる。
慶長六年九月 (1601) 福井城の築城を始め、六年をかけ、慶長十一年(1607)に完成する。
慶長九年 (1604) 結城秀康が徳川姓松平に復し、結城家は五男直基が継ぐ。
慶長十二年 (1608) 秀康が逝去、長子忠直が継ぐ。
寛永元年 (1624) 乱行の多かった忠直が豊後へ配流となり、忠直の弟忠昌が越後高田から三代藩主として入部する。
正保二年 (1645) 忠昌の嫡男光通が継ぐ。このとき庶兄昌勝は松岡、庶弟昌親は吉江に分封、支藩を起こす。光通の跡は、吉江から昌親が入り、五代藩主となるが、しばらくして家督を昌勝の子綱昌に譲る。
寛文九年四月十五日 (1669) 大火にみまわれ、城下の大半を焼き、天守を始め櫓等ほとんどが焼失、翌年、再建に着手、三年を要して復旧したが天守は再現されなかった。
貞享三年 (1686) 綱昌が大法に触れ、再び昌親が吉品と改称して七代藩主となり、吉品の跡は義子吉邦(昌勝の子)が継ぐ。
享保六年 (1721) 吉邦が逝去し、跡を松岡藩主宗昌が継ぐ。宗昌の跡は、直基の四世孫宗矩が継ぐ。
寛延二年 (1749) 宗矩の代で秀康の正系は絶え、徳川吉宗の子一橋宗尹の長子重昌が継ぎ十一代藩主となる。重昌の跡は、弟重富が継ぐ、治好、斉承と続く。
天保六年 (1835) 徳川家斉の子斉善が継ぐ。
天保十一年 (1840) 田安斉匡の子慶永が十六代藩主となる。
安政五年 (1858) 慶永は隠居を命じられ、春嶽と号する。越後糸魚川から松平直廉が名を茂昭と改め、最後の藩主となる。
明治五年 (1872) 天守代用であった巽櫓(三重櫓)が破却される。


≪ 写 真 ≫


福井城天守台石垣


天守台


控天守台


天守台と控天守台


福の井


山里口御門跡の桝形虎口


天守台西側の石垣


御廊下橋


大手門の石垣と御本城橋


西側内堀


南西の押櫓跡石垣


西側内堀と石垣


南側内堀


北東の艮櫓跡石垣


南東の巽櫓跡石垣


大手門の石垣


南側内堀と石垣


現地天守台跡案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から徒歩約5分。
<車>
北陸道福井ICを降りて国道158号美濃街道を北上、道が大きく左に曲がり西方交差点信号を右折、国道8号福井バイパスを北上、米松交差点信号を左折、県道114号を西進、北陸本線を渡り、約600m西進すると福井県庁の北側に着く。付近に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

福井城


紹介したお城の数 204城




図説・日本名城集―決定版 (歴史群像シリーズ)
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学研





図説・戦国地図帳―決定版 (歴史群像シリーズ)
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北ノ庄城

2014-04-19 06:27:13 | 福井県
 北ノ庄城

2014/4/12

福井県福井市のお城めぐり

 賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、お市の方と共に自害した柴田勝家の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 北ノ庄城
よみ: キタノショウ
別称: 北庄城・北の庄城
所在地: 福井県福井市中央1丁目
現状: 柴田神社・北の庄城址資料館・北の庄城址公園
築城年代: 天正三年(1575)
築城者: 柴田勝家
形式: 平城
遺構: 日向門跡・土居跡・堀跡・石垣跡
規模:
文化財:
訪城日: 2010/8/20・2014/4/12


≪ 訪城記 ≫

丸岡城から北ノ庄城へ向かう。

丸岡城の駐車場を出て、城の北側の道を西進、突き当りの一本田中第2三叉路信号を左折、国道8号福井バイパスを南下、九頭竜川に架かる福井大橋を渡り、新保交差点信号を右折、国道416号を西進、北陸本線を越え幾久交番前交差点信号を斜めに左折、県道30号を南下、足羽川手前の幸橋北詰信号を左折、県道5号を東進、道沿いの北ノ庄城址を通り越し、北陸本線高架下をくぐった次の信号を右折、約80m南下した道の西側に未舗装の北の庄城址公園駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場から徒歩で北へ歩き、県道5号沿いに西進、約200mで道の北側に柴田神社、北の庄城址資料館、北の庄城址公園があり、柴田勝家公像が迎えてくれる。
銅像の東側に北庄城復元模型か作成されている。その東側には柴田勝家の末裔である平山郁夫氏が制作した北ノ庄城址碑が設置されている。
柴田神社社殿北側には発掘によって見つかった石垣の遺構がある。他に堀跡、土居跡、日向門跡もある。
北の庄城址資料館奥には柴田勝家とお市の方の辞世の句の碑が建てられている。


≪ 歴 史 ≫

天正三年 (1575) 越前一向一揆を平定した功によって織田信長から越前一国を与えられ、北庄の地に北ノ庄城を築き居城とする。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家がお市の方と共に自害して北ノ庄城も落城する。その後、丹羽氏、堀氏、青木氏が短期間在城したようです。
慶長五年 (1600) 徳川家康の次男結城秀康が越前に入部し、福井城を築城して北ノ庄城は廃城となった。


≪ 写 真 ≫


柴田勝家公像


北庄城復元模型


平山郁夫氏作北ノ庄城址碑


土居跡


日向門跡


堀跡


堀跡の石垣


石垣跡


柴田神社三姉妹神社


北の庄城慰霊碑


お市の方像


三姉妹像


柴田神社


北の庄城址資料館


柴田勝家とお市の方の辞世の句の碑


現地案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から徒歩約5分。
<車>
北陸道福井ICを降りて国道158号美濃街道を北上、道が大きく左に曲がり西方交差点信号を直進して県道5号を西進、北陸本線高架手前の信号を左折、約80m南下した道の西側に未舗装の北の庄城址公園駐車場がある。
この駐車場から徒歩で北へ歩き、県道5号沿いに西進、約200mで道の北側に柴田神社、北の庄城址資料館、北の庄城址公園のある場所が北ノ庄城跡です。


≪ 位置図 ≫

北ノ庄城


北の庄城址公園駐車場


紹介したお城の数 203城




織田信長家臣人名辞典
谷口 克広
吉川弘文館





ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

丸岡城

2014-04-18 11:52:01 | 福井県
 丸岡城

2014/4/12

福井県坂井市のお城めぐり

 柴田勝家の甥勝豊が築いた現存最古の天守を持つお城  現存12天守  日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 丸岡城
よみ: マルオカ
別称: 霞ヶ城
所在地: 福井県坂井市丸岡町霞町1丁目59
現状: 霞ヶ城公園
築城年代: 天正四年(1576)
築城者: 柴田勝豊
形式: 平山城
遺構: 現存天守閣・天守台・本丸・石垣・井戸
規模: 約890m×1,090m、標高約17m
文化財: 国指定重要文化財
訪城日: 2010/8/20・2011/11/29・2014/4/12


≪ 訪城記 ≫

自宅から丸岡城へ向かう。

北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前に駐車場がある。この駐車場は土日にはバス専用駐車場となり、乗用車は図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場に駐車可能。

一筆啓上茶屋西側の小高い丘が本丸跡で南側に現存天守がある。本丸へ登る道を上がると北に広がる本丸跡でちょうど桜まつりを行っていて人が多かったが、桜は満開で古い天守とよく合って華やかです。
天守閣入口で入場券を購入して入る。天守閣は二重三階の小さいが古風な姿は立派なものです。おもわずため息が出ます。
天守台石垣西面に一筆啓上の日本一短い手紙の碑、天守閣登口階段前に石でできた鯱があり、内部を見学、急な階段、破風を利用した狭い部屋、笏谷石の瓦を使った屋根に驚きました。入場料300円。
天守閣南側には雲の井竜神、井戸、東側には人柱になったお静慰霊碑がある。
南側の階段登り口に霞ヶ城趾碑、茶屋の南に歴史民俗資料館がある。


丸岡城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正三年 (1575) 織田信長は越前の一向一揆を平定した功で、柴田勝家に越前を与え、甥で養子の柴田伊賀守勝豊に豊原を北庄城の支城として治めさせた。
天正四年 (1576) 城を丸岡の地に移し築城する。
天正十年 (1582) 清洲会議で勝豊が長浜城主となり、丸岡城には家臣安井家清が在番する。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家が滅び、丸岡城は丹羽長秀の臣青山伊賀守宗勝、修理大夫忠元父子の居城となる。
慶長六年 (1601) 越前に結城秀康が入り、丸岡城は秀康の臣今村掃部盛次の居城となる。
慶長十八年 (1613) 本多飛騨守成重が丸岡城主となる。以後、重能、重昭、重益と続く。
元禄八年 (1695) 御家騒動から領地没収となり、越後糸魚川から有馬清純が入る。以後、一準、孝純、允純、誉純、徳純、温純、道純と続き、明治維新を迎え土地、建物は民間に払い下げされる。
明治三十四年 (1901) 天守の所有者から丸岡町に寄付される。
昭和九年 (1934) 天守が国宝の指定を受ける。
昭和十六年 (1941) 天守の解体修理が行われる。
昭和二十三年 (1948) 福井地震によって倒壊する。
昭和二十九年 (1954) 復興修理が行われ、国指定重要文化財に指定される。


≪ 写 真 ≫


丸岡城現存天守閣


天守閣


登り口からの天守閣


南東側からの天守閣


お静慰霊碑


井戸


南面の石垣


南側からの天守閣


雲の井竜神


一筆啓上の碑


石製の鯱


本丸跡


西側通路の石垣


霞ヶ城趾碑


南面登り口


南からの丸岡城


歴史民俗資料館


北からの丸岡城

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から京福バスで丸岡城下車すぐ。
<車>
北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前駐車場と図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

丸岡城(霞ヶ城公園)


紹介したお城の数 202城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
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別冊歴史REAL 空撮で甦る現存天守12城 (洋泉社MOOK)
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東殿山城

2014-04-13 07:36:30 | 岐阜県
 東殿山城

2014/4/5

岐阜県郡上市のお城めぐり

 東氏の支族遠藤氏に攻め滅ぼされた東氏最後の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 東殿山城
よみ: トウドノヤマ
別称: 赤谷山城・犬鳴城・気良城
所在地: 岐阜県郡上市八幡町島谷
現状: 山
築城年代: 赤谷山城=応永十六年(1409) 東殿山城=天文十年(1541)
築城者: 東益之(赤谷山城)、東常慶(東殿山城)
形式: 山城
遺構: 曲輪、石垣
規模: 30m×30m、標高570m、比高340m
文化財:
訪城日: 2014/4/5


≪ 訪城記 ≫

郡上八幡城から東殿山城へ向かう。

城山公園前の駐車場を出て、曲がった坂道を降り、城下町プラザ突き当りのT字三叉路を左折、県道319号を南下、町中を通って突き当りのT字三叉路を右折、西進して突き当りを大きく左へ曲がり、吉田川に架かる橋を渡り、町中を南下、突き当りのT字三叉路を左折、細い町中の道を東進、突き当りで斜めに大きく右折して愛宕神社前に出る。国道256号を少し西進した愛宕神社西側の駐車場に車を駐車する。

駐車場南側の戦没者慰霊塔の階段を登り、左側奥の三十三間堂右側に遊歩道があり、ここが登城口です。他に愛宕神社からの遊歩道もあります。登城口に説明板があり、ジグザグの遊歩道を約20分登っていくと、広く削平された場所に赤谷城跡の標柱と祠があります。ここは赤谷城跡ではなく、さらに歩道の案内板のある山の奥へ行く踏付け道へ入って行く。一度登って降りたところに東殿山国有林管理歩道図が小さな看板に張られている。ここまで祠から約15分。険しい山道を登っていくと小さな削平された場所があり、ここが最初の曲輪らしい。さらに降りてまた登ると、用心水のドラム缶のある小さな削平地に出る。ここが二つ目の曲輪です。ここまで約15分。さらにまた降りてロープを使って登るほど険しい山道を登った山頂に二段の小さな削平地があり、赤谷山城(東殿山城)の看板が建っている。ここまで約15分。祠から約45分かかりました。
山頂の曲輪(本丸)の西側斜面に石垣が残ってます。ここも斜面が垂直に近いため非常に危険です。
山頂付近の斜面は急で必ずロープを使って上り下りしてください。
帰りは愛宕神社側に降りました。愛宕神社付近には宝暦義民碑、五人塚があります。
どうも赤谷山城と東殿山城は同じ場所のようです。


≪ 歴 史 ≫

応永十六年 (1409) 篠脇城を築いた東氏村より三代目の益之が赤谷山城を築き一時的な居城としていたようです。
天文十年 (1541) 天文九年(1540)と十年の二回、越前の朝倉義景の攻撃を受け、篠脇城では防ぎきれないと判断して、東益之から四代後の東常慶が天然の要害である赤谷山城に東殿山城を築き移る。
永禄二年 (1559) 朝倉勢撃退に活躍した支族の遠藤胤縁が東殿山を訪れたときに、城主東常堯が家臣に命じて殺してしまった。これに激怒した胤縁の弟遠藤盛数が兄の弔い合戦で攻め、激闘の末、落城して東氏は滅亡した。この時、盛数が陣を敷いた八幡山に築いた城が郡上八幡城です。


≪ 写 真 ≫


郡上八幡城からの東殿山城全景


山頂の本丸


西側斜面の石垣


二つ目の曲輪


最初の曲輪


歩道図のある谷


急な山道


赤谷山城跡標柱と祠


祠横の歩道入口


三十三間堂からの登り口


三十三間堂


宝暦義民碑


五人塚


愛宕神社

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
長良川鉄道郡上八幡駅から徒歩約40分で愛宕公園、さらに山頂まで約60分。険しい山なので要注意。
<車>
東海北陸道郡上八幡ICを降りて八幡IC口交差点信号を左折、国道156号越前街道を南下、吉田川を渡り、城南交差点信号を左折、国道256号せせらぎ街道を東進、郡上市役所を過ぎた道の南側に愛宕公園の駐車場がある。愛宕神社から登城道があり、険しい山道を登ること約60分で山頂に着く。斜面がきついので要注意。


≪ 位置図 ≫

東殿山城(赤谷山城)


愛宕公園


紹介したお城の数 201城



岐阜の山城ベスト50を歩く
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戦国山城を攻略する-キャッスリング入門-
森本 基嗣
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