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三部経千部読誦中止

2023年04月23日 | 宗教、哲学
今日は仏教講座で学んだことをちょっとだけ復習中( ´ ▽ ` )

この解釈が合っているかどうかわからないけど、とりあえず今はこんな感じで納得しています。


建保2年(1214年)、干ばつによる大飢饉は民衆を大いに苦しめた。それを慰めようと、そして飢饉が早くおさまるようにと、他の僧侶と同じく親鸞聖人も読誦を始めた。しかし自分には人を救う力は無い。それは阿弥陀様のはからいだ。私の仕事は衆生を阿弥陀様に導くことだと途中で気づき、4,5日で読誦を中止した(三部経千部読誦中止)。

親鸞聖人ともあろうお方だ。読誦を始める前に気づきそうなものだが、ある意味「世間体」を気にしていたのかもしれないと思うと妙に納得する。あの偉いお方が我々衆生を慰めようとしている。もしかしたら飢饉が治るように祈っているのかもしれない。それを感じて読誦に踏み切ったのだと思うと、色々思うところができてしまう。しかし読誦は三部経である。「無量寿経」は阿弥陀仏の本願、「観無量寿経」は阿弥陀仏の念じ方、「阿弥陀経」は様々な仏様が阿弥陀仏を称賛した様子が描かれているものを読誦するのである。衆生を慰めるとか祈祷するとかいった意味合いのものでは全く無いのである。分かりきったことのようにも思うのだが、始めてみてはたと気が付く、私が人を救うだなんておこがましいと。阿弥陀様を信じ本願念仏の道を歩む、その道をみんなに勧めることこそが、私がやらなければならないということに、ここで初めて気づいたのだと思う。

親鸞聖人も最初から親鸞聖人ではなかった。悶々と過ごしてきた比叡山での日々、法然聖人との出会い、そしてその教えを自ら試行錯誤を繰り返し咀嚼していく中で、宗教者としてのアイデンティティを確立していった。そうなのだ、どんな偉大な人物でも、伝説になった人だとしても、そこに至る過程がある。民衆の苦しみを見かねて始めた読誦、それを親鸞が考える浄土思想的には間違えだと気づくまでの過程、そう、この4,5日の出来事に思いを馳せるのも悪くはない。

このような話も十分に味わい深い。宗教者としての親鸞聖人はあくまでも阿弥陀様への帰依をどう考えるかだ。修行を必要としない宗教だからこそ、無茶苦茶な解釈も生まれてしまう。それを正しい道に導いてきた親鸞の思想、その思想が今も通じていることが信じられない。数多くのエピソードをゆっくりじっくり自分なりに精査するのも悪くないと思う今日この頃である。



親鸞の精神的過程を心理学的に分析すると、宗教的主体(アイデンティティ)の確立の過程と言うことができる

呪術に埋没することは人間の自立と主体性、人間の尊厳性を疎外し、国家あるいは寺社勢力による政治支配・宗教支配を肯定するということを、これまでの法然門下での学びと念仏弾圧という体験の中から、直感的に学び取っていたのである。


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