毎週水曜日の午後、オンライン講座で浄土真宗を学んでいる。今回は歎異抄を学んだ。親鸞聖人がご在世の時代にも教義を勝手に解釈(異義)して門徒に混乱が生じたのだが、親鸞聖人なき後もしばしばそういった混乱は続く。そんな中、唯円は親鸞聖人から直接聞いた言葉を伝えるべく、異義への反論というよりも、異義者を悲しむ心とともに歎異抄を記したとのこと。このような話を聞くと歎異抄を読み返した気持ちが強くなる。
そういえば、歎異抄の名前の由来についても教えてもらった。気にしてみると「嘆く」と「異なる」というネガティブな漢字で構成されている。異義を唱える者に反論するでもなく怒るわけでもなく、優しく包み込み、そし考えを諭す親鸞聖人の優しさ。これもこの書の魅力なのだろうと思った次第だ。
ところで、西田幾太郎、吉本隆明、司馬遼太郎、遠藤周作、梅原猛等々、浄土真宗の内外を問わず多くの知識人を魅了してきた親鸞聖人だが、その魅力はこの歎異抄によるものも大きいみたいだ。哲学者の西田幾太郎は「他の書物が一切なくなったと仮定しても「臨済録」と「歎異抄」さへあればよい」と言っているし、作家の倉田百三は「歎異抄よりも求心的な書物はおそらく世界にあるまい。」と言っている。実際日本でもっとも読まれている宗教書の一つであり、Amazonでは1000件以上もの註釈書が存在するそうだ。熱狂的な親鸞聖人のファンとして、間近でこの偉大なる宗教家の厳しくも慈愛に満ちた存在に魅了された唯円だからこそ書けたのかもしれない。この短い書物に詰まった愛を紐解きたいという人が今も昔もこれほどまでに多いとは、その魅力を語らずともわかると思う。
私は五木寛之氏の著書でこの書物の存在を知った。もっとも有名な「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」もなかなか迫力のある言葉なのだが、「地獄は一定すみかぞかし(地獄こそが唯一の居場所である)」とか「たとひ法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候(法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちても後悔はしない)」といった言葉もすごすぎる。熱く激しく、そして慈愛に満ちたこの書のすごさを改めて教えてもらった。
毎年受講している「広島仏教学院オンライン仏教・真宗入門講座」を今年はしっかり受講しようと思っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます