長男が「これいいよ!」って買ってくれた「Xero Shoes ジェネシス」なるこのサンダル。
足の痛みが癒えるのに1週間以上かかりましたが、歩くことができ自信になりました!
今日のブログはこの「鎌倉までの50km、歩いてきたよ!」の補足になります。
高尾山や奥多摩に出向くようになり2年ほど経ちました。最初は山頂でラーメンを作ったりコーヒーを淹れたりしていましたが、結局のところ風景を愛でるとか、山でゆっくりくつろげるようなタイプの人間ではなかったみたいです。色々やってみて、結局好きな歩き方はボーっと長く歩くことだというのがわかり、最近は家から歩いていける場所に行くことが多くなりました。もちろん山道は足への負担が少なくなるので行きたいところではありますが、アスファルトの道を苦もなくあるくことができれば最強になれるのだろうとの思いが芽生え、挑戦しては跳ね返されてきた鎌倉までの50kmの道のりを、性懲りも無くまたまたチャレンジすることにしたのです。
ということで、いつもは頂いたトレイルラン用の小さなリュックを使うのですが、今回はサンダルでの行動となるので軽さを重視、パスモと携帯、手ぬぐい、鍵だけを持ち、補給はコンビニ等で済ませることにしました。
とにかくこのペラペラのサンダルが身体にどのような影響を及ぼすか、その強度はどんな感じなのか、あの雲取山で会った裸足で歩いてた方に近づくべく、足の裏を鍛えんとばかりに頑張ってみました。もちろんウォーキング後は足底の痛みは1週以上続きましたが、それほどに足が弱いということを痛感できたのは収穫だったと思います。多分こういう痛みを経験しつつ、足の裏は丈夫になっていくのでしょうね。この恥ずかしいほど薄っぺらい足裏がどこまで逞しく成長するか、この歳からではもう遅いかもしれませんが、とにかく目標ができたことは嬉しい限りです。
雲取山を裸足で歩いていた方の足の裏
カッコよかったなぁ!!
最初にボーっと歩くのが好きだと書きましたが、歩行瞑想という言葉もあるように、歩くことは瞑想と同じようなものだと思うのです。以前は音楽やラジオを聴きなら歩くこともありましたが、しんどくなってくると言葉も大好きな曲も入ってきません。それよりもどの道を使うか考えたり、いや何も考えなかったりしながら只々歩き続ける感じ、こういうのがどうも私は好きみたいです。もちろん足は痛くるし、腰が棒のようになっていくし。距離の経過とともに色々なところが痛くなり、それに左右され続ける始末なのですが、あの10日間の瞑想で言ってた諸行無常、全てのものは移り変わるというaniccaの精神、これを知るとその精神世界の偉大さに足を踏み入れ続けたいという気持ちになり、この歩きもその一つなんだなぁと思いつつ歩くと、結構奮いたったりします。
松岡正剛さんが著書「法然の編集力」の中で「昔の人はよく歩いた。思想は歩くことから生まれる。歩くこと動くことは思想の深化につながる」といったことを書いていましたが、確かに思考が深くなる感じはします。もちろんもともと浅い人間なので、ちょっとだけですが。それでもなんだか深く考えている人になった気分になるのは悪い気分ではありません。そして持たない軽やかさも癖になりそうです。この究極のひまつぶし、測量野帳とペンはあってもいいかも、なんて鎌倉駅から乗車した湘南新宿ラインで缶チューハイを飲みながら考えたりもしました。とりあえず、ようやく50mを歩く事ができ、自信につながった一日でした。
雲取山からの帰り、裸足のおじさんにまたまた遭遇。
座椅子によりかかって足を投げ出し缶チューハイでくつろいでいました。
かっこよすぎる!!
高性能登山ギアやファッション性にあふれるものに支配されたくないと思っている私なので、この辺りが最終形態のような気がしています。なのでとっても話をしたくって、、
座椅子によりかかって足を投げ出し缶チューハイでくつろいでいました。
かっこよすぎる!!
高性能登山ギアやファッション性にあふれるものに支配されたくないと思っている私なので、この辺りが最終形態のような気がしています。なのでとっても話をしたくって、、
ところでこのコースですが、言葉を排除しただひたすら体を隅々まで観察します。「目の下がかゆい」「脛が冷たく感じる」「背中が服に触れてモゾモゾする」等。それを言葉に変換せずひたすら観察する、それがどれだけ大変なことか、初日に思いしることになります。
昔の人はよく歩いた。
思想は歩くことから生まれる。
歩くこと動くことは思想の深化につながる。
こういうのを読むと、また歩きたくなります(^。^)
法然の編集力 松岡正剛
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