「おおしたさん」のブログです

思っていることや考えていることを、気ままに書いています。

無神経に適当に適応したい

2024年07月06日 | 考えていることとか思っていることとか
カレーを作りすぎちゃって💦
気を衒いがちな私なので、カレールーの裏に書いている通り、忠実に作りました。
そっちの方が無茶美味い!
ちなみにこっちにきて、ようやく糠床の味も安定してきました。

そして、、
時短に良いかと味噌玉も
お湯を注ぐだけで良い感じ、、
ただ、まだ分量がつかめてません💦

そんなこんなで、なんとか頑張ってます。

この記事を読んで、色々と考えちゃいました。

私は、生物は生きるために生きていると考えているので、ただ生きているだけでも立派なことだと思います。
知の巨人・出口治明が「人生の基本原理は運と適応である」と断言するワケ
【出口治明×更科功】「若い読者に贈る美しい生物学講義」

結局のところ、運が全てを支配する。出会いも別れも、生まれるも死ぬも、生きとし生けるもの全て、平等にどこかに生まれ、平等に誰もが抽出されて死に至る。それを自らで選べない以上、運命の導きに身を任せるしかない。

どこに生まれようがどこで死のうが、逃げることのできない運命だと悟れば、そこに適応するしか術はない。偶然の瞬間にだけ生きる私たち、自らの決定は自らの意思であるかのように見えて、実は自らの意思ではなかったりする。全ての決断を思い返すに、偶然というか縁というか、自ら決めたことが実際存在するのかとも思ってしまう。

そこに居合わせたときに、どのように適応するか、どんな意欲を持ち、どんな世界にしたいと思って動くかはその人次第
運が良いとか悪いとか、羽振りの良い人も惨めに見える人も、皆何かを抱えているものだ。誰もがしんどい。生きるのは本当にしんどい。だから、自分だけが惨めに思える時、生きとし生ける者誰もがしんどい、と思うようにしている。そう思えば幾分かは楽になる。嫌なことや腹の立つことなんてたくさんある。だからそんなことに引きずられず、やらなければいけないことを一つずつこなしていくしかないのだ。それは嫌々やらざるを得ないものかもしれない。仕方のないことかもしれない。うん、この「仕方のない」も意外と自分を許す言葉であったりするが、その話はまた。

そんな世界に生まれてきた私たち、生きているだけで立派なことなのだ。何をしようが何をしまいが、今いる場所で生きていくしかないのだ。せっかく生まれてきたのだから、生まれてきたもの同士、良い関わりを持っていたい。とくに年長者として、子どもの無神経は許して欲しい。子どもは無神経に、自らの思う通りに生きようとする。それが当たり前なのだから。それを早くから規律や責任、勉強を促す、先輩風をふかす親がいたりする。守ることや覚えることといった、神経を使い過ぎてしまう瑣末な体験を小さいうちから強要するから、神経質になるのだ。成長に応じて子どもの好きにだけ対応しておけば、神経質にだなんてなれるわけがない。そして特技を発揮し生きやすくなる。この生きにくい世の中で、少しでも生きやすくするのが年長者の務めなのに、なぜに人は反対をしたがるのだろう。

川の流れに流されながら、その中でベストを尽くしてきただけ
人生の流れに流されながら、その場その場でベストを尽くす。そのためには、やらなければいけないことを好きになる努力も必要だ。なかなか難しい場合もあるが、どんなものにも、どんな場所にも、好きになる要素はある。全てを好きになれなくても、少しでもいい、好きを見つけて、生きやすい場所を見つける作業に、努力を惜しまない方が良い。


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