レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

父のこと 9

2015年03月02日 | 父の話
PET検査の結果は数時間で出たと思う。
検査時間中の暇つぶしに
父が好きそうな本を持ってきて渡したけど
老眼鏡を持ってきていなかったので
読めなかったんだか、
腰が痛くてそれどころじゃなかったか
ともかくその本は
ろくに読まれないまま帰ってきた。
大災害や緊急事態が起こったとき
どんな行動をとった人が助かったか、
という内容の本は
結局いまだに読んでいない。


腫瘍は骨盤のちょっと上あたり、
整形外科の先生が指摘した通りかなりの大きさで
レントゲン写真よりはっきりと写っていた。
直径8から10センチ位、長さが12センチ位。
放射性物質が集まって発光して
他は暗い身体の中で
その存在を示していた。
ほかにも脳と睾丸に光が集中していて
私はそれが転移なのかと気になったのだけど
そこは特に、異常があるからそうなるわけではないらしい。


担当の医師はおそらく私より若い女の先生。
私と父と医師と3人で
脳と腫瘍と睾丸が光っている画像を見るのは
とてもシュールだった事を
これを書いていてはっきりと思い出した。


きっと私はここから先、
くだらないことを次々と思い出すと思う。

父のこと 8

2015年02月25日 | 父の話
父の人生は怒りで彩られていた。


私が思い出す父は大体怒っている。
顔を真っ赤にして怒鳴っている姿、
あの姿は嫌だったなあ。


父は短気だった、なんていう表現では収まらない。
父はある部分において病的に短気だった。
それは主に、父の考える「こうあるべき」が
そうでなかった時。
例えば静かにするべき場所で静かにしない人、
並ぶべき場所で正しく並ばない人、
そうするべき、をそうしない人。
そういう人相手によく爆発していた。


父は自分が正しいと思っていて、確かに正しい部分もあった。
父が怒る部分はモラルに関わる事が多く、
言うことが正しいか間違っているかといったら
そりゃあ、まあ正しい。
自分の中だけで何か思うだけなら、ただのモラルのある人だ。


...でも時々居るでしょう。
言っている事は確かに正しいけど
全面否定するような言い方で食ってかかり、否定される人。
ただ間違えているだけかもしれないのに
普段から何も考えていなくて気が利かなくて
まるでそれが悪気から、
あるいはその人の中のモラルの低さからきているかのような
理不尽な怒りを爆発させる人。


父はまさにその典型で、それが原因で敬遠される事が多かった。
小さい頃、そんな正しい自分が敬遠される世の中を
冗談交じりに嘆いている父を見て
父によく似ていた私は心底同情していた。
それから少し大きくなり、友達が出来た私は
「正しい、でもそれだけではない」という事も知り
父を見る目がその頃から少しずつ変わっていく。

父のこと 7

2015年02月25日 | 父の話
分かっていた事だけど
父は独り暮らしの中で不摂生をし続けだった。
家事や料理が一切出来ない、というのもあって
食事はインスタント、一日一箱の煙草は欠かさず
お酒は酩酊状態になるまで飲んだ。
体調を崩しては連絡が取れなくなり
病院からの電話で私が駆けつける、
といった事が二年くらい続いて
父は他界した。


多分父は一日も早い迎えを望んでいた。
そんな道を選んだのは他ならぬ父なのに
父は選ばされたと思っていただろう。


普段から私はちょいちょい父の不摂生を怒っていたから
父から治療について思うところなど
聞きもしなかった。
今回ばかりは許さない、
とにかく荒れた生活を立て直して
...言葉がちょっとおかしいかもしれないけど
父を生きさせなくては、その事しか頭になくて
ただただ自分のためだけに奔走していた。


父がこうなっている根本の原因
「この世で生き辛い理由」
を考えなかった。

がんのこと

2015年02月22日 | 父の話
昨日たまたま、がんの「無治療」について
テレビで放映されていたのを見た。

父が悪性リンパ腫と分かった時
私は無治療という選択を知らなくて
ただ「ああ、これから抗癌剤による厳しい治療が始まるのだな」
としか思わず、それ以上調べもしなかった。
父の死後、がんの無治療や緩和ケアの本が
よく目につくようになったのは
有無を言わさずがんセンターに転院させた自分の行動が
正しかったとは思えない時があるからだ。


私は父の、最後の病床での姿をほとんど思い出すことが出来ない。
きっと見ているようで目を背けていたのだろう。
…こんな姿にさせたのは私なのだ、という事実から
目を背けていた。


番組に出ていた末期がんの女性は「元気なまま死にたい」と言い
実際それを敢行するべく生活している。
もちろん通常の生活とは違う、緩和ケアのための通院と服薬
抗えない体調不良に悩まされつつも、モニターの向こうで
彼女は変わらぬ生活を送ろうとしていた。


父も、そうありたかったのではないか?


全て過ぎた話で、実際それは難しかった。分かっている。
がんの進行は追々説明するけど驚くほど早かったし
歩けなくなるのも時間の問題だった。
腰痛イタタと言いつつ、好きな酒を飲み、煙草を吸って
飼い猫と一緒にそれなりに余生を過ごすのは
到底無理であったと分かってはいるのだ。


でも、分かってはいるんだけど。
時々ありもしない結末を想像しては思う。
治療はするべきだったのか?
まだ答えは出ないし、この答えはずっと出ないかもしれない。

父のこと 6

2015年02月20日 | 父の話
父はがんセンターに転院し、
現在の詳しい状態を知るために
PET検査を受けることになった。


父の腰痛は最初の整形外科を受信した頃から急激に悪化し
転院する頃には歩くのもやっとだったので
がんセンターの隣にある画像診断クリニックまでは
私が押す車椅子に乗って行った。
PET検査をやるんだって。PET検査って何?という私の質問に
父はそれがどういうものかを簡単に説明してくれた。


ごくごく薄い放射性物質を身体に入れると
それががん細胞にくっ付いて
がんの大きさや罹患部位を見やすくしてくれる。
PETで使う放射性物質は
がん細胞にだけ一時的にくっ付き、
後は自然に排出されるので
今世間で騒がれている原発事故で飛び出したものと違い
身体への影響はほとんど無い。
そんな感じの説明で、
父は相変わらずなんでも知っているなあと感心した。


別々に暮らしていた八年あまりの間も
暇さえあれば新聞に字を書きつけ
難しい本を読んでいたのだろう。
母と比べてうんと痩せている
父の軽い車椅子を押しながら
じゃあ、と私は思う。


じゃあどうして、この人には
自分自身の事はわからなかったんだろう?

父のこと 5

2015年02月15日 | 父の話
父は色々と、何でもよく知っている人だった。
私は分からない事があるとまず父に聞き
そして大抵のことはそこで解決した。
勉強が全く出来なかった私と違い、
勉強で苦労したことはない、と言っていた。


私が思い出す父の姿は
本や新聞を読んでいる父、何か熱心にメモをとっている父だ。
新聞の空いたスペースやダイレクトメールなどの不要な紙には
いつも父の整った字でメモが書かれていた。
メモの内容はニュースで気になった単語や難しい漢字。
何回も、いくつも書いてあった。
そうやって記憶に定着させていたらしい。


私は中学生の頃、成績がびっくり悪かったので
父が勉強を教えてくれたことがあるんだけど
それはあまり良い思い出ではない。
覚える事、に苦労した事がない父は
全然覚えられない私が理解出来なくて苛立つばかりだった。
父の勉強方法は「理解は後でとにかく覚える」だったので
まず理解しないと話が始まらない私とは
のっけからスタンスが違ったのだ。


でもその事を説明しても
だからお前は成績が悪いんだ、の一点張りで
それはまあ、確かにそうだった。

父のこと 4

2015年02月15日 | 父の話
私は父に、父の病名を隠す気は全くなかった。
今どういう状況か、これから何をするかも全て話すつもりで
実際その通りにしたら、父はちょっと嬉しそうに
そうか、と言った。
私の予想は当たっていた。


父は決して強い人ではなかったけど
「そういうこと」は出来るだけ詳しく知りたいだろうな、
と思ったのだ。
これは父との36年間の付き合いの中で
なんとなく感じることなので、説明はし辛いんだけど
父は昔から自分のことをどこか他人事のように、
よく言えば冷静に見ている節があった。
悪く言えば、自分の事はどうでもいい人だった。


だけど父は私たち家族から見ると驚くほど身勝手で
自分本位な所があった。
これが父の人生の中に大いなる矛盾を齎していた。

父のこと 3

2015年02月15日 | 父の話
医師はすぐに
がんの治療が出来る病院への転院を勧めた。
私はその時に働いていた会社の社長が
がんの疑いで治療を受けた病院の事、その病院がこの地方では
がん治療で最も先進的であることを思い出し、
そこへ移りたいと思います、と言った。


その病院の名前は⚪︎⚪︎⚪︎(地方名)がんセンターといい、
そこへ移るということはもうなんの病気か
隠しようがなくなってしまうのだけど
私は全然躊躇しなかった。


父のいる病室に入って行ったら、
父は開口一番
「癌だろう?」と言ったので
私は「まあね」と答えた。

父のこと 2

2015年02月14日 | 父の話
三年前の11月、独り暮らしをしていた父は
腰痛を訴えて近所の整形外科へ行った。
レントゲンを撮った整形外科の医師は、父の腰辺りにある
ハムくらいの大きさの影を目にし、
すぐに大きな病院へかかるようにと言った。
父はそこから自分でスクーターに乗り、
ほど近い場所にある総合病院へ行って検査を受ける。


それから30分後、私の携帯電話に病院から電話がかかってきた。
緊急連絡先として父が書いたのが長女である私の電話番号で、
すぐに病院へ来て下さい、との事だった。


総合病院の医師から告げられた病名は悪性リンパ腫、
ステージは大きさから言っておそらく
3から4の間。進行具合としてはかなりの末期だった。

父のこと 1

2015年02月12日 | 父の話
臨終のきわ、
私は父を呼ばなかった。
主治医も、私の夫も
大きな声で父の名前を呼んでくれたけど
私は最初から最後まで呼ばなかった。


そのまま、行ってしまってと思っていた。
私が呼んだら戻ってきてしまうかもしれない。
私は呼び戻したくなかった。


だって父は昔からずっと
生きているのが辛そうだったから。