レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

そんなわけで

2018年08月18日 | 父の話
 お盆でしたね。

今年も父は呼びませんでした。
生きている時、いつもとても苦しそうだったので
こちらの事はもう忘れてもいいと思います。


ま、帰ってきてたなら貰い物の
美味しい芋焼酎がありますよ。

ご無沙汰しとりました(リエゾン)

2018年08月18日 | ぼそぼそ
 お盆でしたね、こんばんは。

以前の投稿が全く記憶にないくらい以前なんですが
色々ありましたのでまたボソボソやって行こうかと思います。
よろしくお願いします。

父と猫

2016年02月26日 | ぼそぼそ
どうでもいい話をちょいちょい挟む。


*********


父が死んでから一週間か二週間経って、
どうしても父と会いたくなった日があった。
無理だと分かっていても
急に耐えられなくなる日がたまにあって
その夜もそうだった。
幽霊でもいいから、と会社帰り
夜で顔が見えにくいのをいいことに
べそべそと泣きながら歩いていたら
通り掛かった公園の、歩道から少し離れた外灯の下に
一匹の猫がいることに気がついた。


黒と白のハチワレの、父が生前飼っていた猫によく似ていた。
父の猫は親切な猫好きさんが引き取ってくれて
野良になっていることは無いはずはないんだけど、と
思ったところでふと
あれは父なんじゃないか?という飛躍した考えに至った。
悲しんでいる娘の願いを叶えるため
父が猫の姿を借りてちょっとねえ、ほれ


などと思っていたら、その猫が慎重な足取りで
私のほうへ近付いて来るではないか。
もうこれは間違いなく父だ。
オカルトかファンタジーでよくあるやつや。
藁にもすがりたい私はそう確信して
気持ちしゃがみ猫と話す体勢をとったのだが
猫の目線は何故か地面を向いている。
……外灯を反射してぬらぬら光る
細く流れる水のようなものを追っている……?


ムカデだ。


すごく大きなムカデがこちらに向かって
一直線に地面を這って来ており
猫はそれを追って私の方へ来ていたのだ。
私は結構な悲鳴をあげて立ち上がり
反射的に素早く足を上げ、振り下ろした。



靴の裏が地面をとらえた。
しかしその瞬間思ったのは

「……あれ、こっちがお父さん?!」



私の悲鳴と急激な動き
スパーンという足音に驚いた猫は一瞬固まり
それから即座に身を翻して逃げていってしまった。
残ったのは見事にぺったんこになってしまったムカデ。
こっちに歩いて来ていたのはムカデ……
ごめん、もしこれがお父さんだったなら
お父さんのムカデ人生 終わらせちゃった……


…………


そんなことがあったので
その後は泣くこともなく何だか落ち着いてしまい
家に帰ってごはんを食べて寝た。

父のこと 13

2015年05月15日 | 父の話
父の母、私にとって祖母にあたる人は
あまり良い人ではなかった。
悪人ではないけど、子供っぽくて
自分本位でちょっと意地が悪かった。

父は母親の愛、というか
一方的に注がれる無償の愛に飢えていて
それは母と結婚してからも同じだった。
母と祖母の間で何かいざこざがあると
決まって祖母の味方をした。
父は頭のいい人だったけど、道理も理屈も
祖母が入ると通らなくなり、最後にはいつも
「おふくろが可哀想じゃないか!」
という言葉を持ち出した。


母は我慢強い女なので
感情的になって父を責めることはせず
じっと父を見ていた。
母は若い頃からずっと
この人は最終的に自分の母と家族、
どっちを選ぶんだろうと思っていた
と言っていた。


今考えると祖母は所謂
アダルトチルドレンだった。
当時はそんな言葉も括りもなかったから
大人のくせにこんなに
子供っぽい意地悪を...と
驚いたもんだけど
祖母は精神的に子供であったと思うと
納得出来ることばかりだ。
兄のことはすごく可愛がったけど
私は比較対象として大変分かりやすく冷遇した。
でも祖母とは深く関わっていなかったし
分かるような年になった時には
ウケるとしか思わなかったので
精神面に傷は残っていない。


しかし父にとっては実の母親で
幼少期の大事な時期に深く関わったので
残念ながら多大な影響が残ってしまった。
父はずっと母の愛を追い求めるが
小さな頃に餓えて干上がった池には
大人になった後からどれだけ注いでも
水は残らないのだ。


父のこと 12

2015年05月15日 | 父の話
父は三人兄弟の長男、
下に妹と弟がいた。
父の父の事はあまり聞いた事がない。
父が小さい頃離婚したと
聞いたような気もするが
それが父の実の父のことか、
叔母と叔父の父のことかは分からない。
祖母の持っていた仏壇に
誰の物か分からない位牌が入っていて
それが引き取り手の無かった
父の父の位牌だとは聞いていた。


父は貧しい母子家庭で
小さな妹と弟の世話をしながら育った。
小学生の時は貧しさが理由で
よくいじめられたと言っていた。

中学生の時に描いた鎧兜の絵が
同級生に絶賛されたのをきっかけに
しばしば絵を描くようになる。

中学卒業後、就職に有利になるからと
商業高校に進学するも
担任の強い勧めで学年半ばで
地元の進学校へ転校する。
でも卒業まで後少し、というところで
経済的な事情から断念せざるを得なくなり
そこから色々な仕事を転々とする。
中学卒業の学歴しか残らず
就職の際に何度も悔しい思いをした、
と言っていた。



....ここまで書いてきて
私が父について知っている事が
あまりに断片的で少ないことに愕然とし
同時に淋しさを感じている。
何かの拍子にぽつりと語った切れ端を
今になって繋げてみても足りなさ過ぎて
私は私が覚えている
既に父としての、父のことしか
ろくに語ることが出来ないんだなあ。
それは父という人を残すには
かなり片手落ちな気がするけど
細かい点を聞ける人は
もう夢にも出ては来ないのだ。

きっと私がどう書いても
あの苦笑いをして許してくれるだろう。

父のこと 11

2015年05月04日 | 父の話
父と母は今から10年前に
別居に踏み切った。
踏み切った、と言っても
母にとっては予定していた事だったが
父にとっては晴天の霹靂だった。


私の父という人は
人の話を聞くようで
全然聞かない事が多々あり、
母はそれまで何度も別居とその理由について
話をしてきた(つもり)が
一個も伝わっておらず
母が引越し準備を始めた時も
パフォーマンスだと思っていたようだ。
引越し当日にそれまで住んでいた家を
同時に出て一週間後には明け渡し、
という、まず聞き逃してはいけない部分を
多分故意に聞き逃して
いざ当日、本当に始まった引越しに怒り狂い
後日祖母(父の母)の家に移って行った。


父が1人で祖母の家に移る、
同居して面倒を見る、
と言い出したのは別居の約2年前。
母にとってはこれが別居の決定打になった。
その計画は父1人がたてた計画で
祖母が拒否して実現せず
うやむやに終わったのだけど
母の中ではそこが色々の終わりで始まりだった。
私が幼い頃から所謂嫁姑の問題があり
何度もその事で母が泣いたり
両親が喧嘩をしているのを目にしてきたから、
そんなことを言い出せばそりゃあ
下手したら離婚にも発展するんじゃない?と
子供の立場からも容易に予測出来たけど
肝心の父は
世の中の嫁姑問題のテンプレートみたいに
母の気持ちを全然理解出来なかった。


まさか
介護が必要な病気の妻が
別居を申し出るなんて。って。

昔の

2015年04月17日 | ぼそぼそ
好きだった車を買い替えた痛手を紛らわすため
昔のCDを車の中で聞くことにした。
私が中学生~高校生の時によく聞いたアルバムだけど
もう一曲目から驚いた。薄い。


最近、昔好きだった本を読み返して
内容の薄さに驚いた事があったけど
音楽までもか...と愕然とした。
もう二重か三重、音が重なっていたと思うんだけど、
と思ったところでハッとする。
これ、聞こえなくなってるんじゃないのか。


モスキート音みたいに
ある年頃までしか聞こえない音があるのなら
私が今聞いている曲と、15~17歳の私が聞いていた曲が
同じとは言えないだろう。
本も同じかもしれない。
ある本の中には、その年頃にしか響かない言葉があって
今の私にはもう分からなくなっているのだ。


薄い打ち込みの音を聞きながらそんな事を考えていて
当時同じ曲を聴いた時の
焼け付くような胸のざわめきを少しだけ思い出した。
当時の私は歌詞の中に出てくるような
美しい少女に憧れていたのだ。


でも思春期真っ盛りの私は岸部一徳そっくりだったのも
ついでに思い出して
私のバカ、と思う。


一つだけ確かなのは、もう私は17歳ではないこと。

父のこと 10

2015年04月08日 | 父の話
...3年も経つと、あの嵐のような日々も喉元を過ぎ
細かい事柄をどんどん忘れてしまう。
時系列は間違っているかもしれないので
何の参考にもならない事をお詫びしつつ

PET検査で腫瘍の位置と大きさを確認後、
腫瘍の一部を取って検査する細胞診をした。
結果、父のリンパ腫の種類は
「濾胞型リンパ腫」であると判明した。


【濾胞性リンパ腫】
1・悪性リンパ腫の中では進行が遅い(悪性度が低い)
2・抗がん剤は効きにくい
3・でも最近新しい薬が出て、それが効果的

父の担当医は若い女性の先生だった。
説明がさっぱりしていて分かりやすく、
良いことも悪いことも同じ調子で話してくれるので
回りくどい話が苦手な私にも父にも合っていた。
父の病状はかなり進行していたので
すぐにCHOP療法という、4種類の薬を使った化学療法と
リツキシマブという新しい薬を使った治療を
並行して行うことにする、との説明を受けた。


もちろん、この説明もバッチリ覚えていた訳ではなく
ブログを書くために悪性リンパ腫を調べなおしていて
思い出した事です。

がんセンターのこと

2015年03月28日 | 父の話
ついでに思い出したこと。


転院する前
私は父のレントゲン写真を持って
がんセンターで受診というか
事前の説明をしなければならなかった。
大人になるとこういう
「やり方は全く分からないけれど
たった1人で行わなければならない
憂鬱な手続き」
が数多く発生する。
平日の朝早く、広い敷地の奥に建つ巨大な病院の受付へ
私は茶封筒に入れた写真と紹介状を持って赴いた。


この「がんセンター」には
...全国にあるがんセンターは大抵そうだと思うけど
医師の紹介状なしにかかることはできない。
ちょっと調子が悪い、なにかしら?と思って行く場所ではなく、
他の病院でがん又はその疑いありの患者が
医師の紹介を経て改めて来る場所だ。
巨大な院内は受付から明るく清潔で
システマティック。
右も左も分からない人間が行っても
即座に対応してくれる。
病院としての雰囲気は大変良い。
しかし扱う病ゆえか、不思議にどこか一本
ピンと張った空気があった。


待合へ行くとすぐに診察室の一つへ呼ばれ、
レントゲン写真とMRI画像から
予測できる病状と入院手続きの説明
担当医の紹介などをしてもらった。
時間をかけて診察をしてくれた医師の説明は丁寧で分かりやすく、
これから本人と私が何をしたら良いのかが
そこでようやくまとまった気がした。
私のように混乱して消沈した家族や本人に
何度も同じ説明をしてきたんだろうな。


診察室を出て改めて待合を見たら
多くの人が順番待ちをしていた。
診察室は幾つもあって
受付順に次々番号が呼ばれているのに
人が減る様子はなかった。

そこではたくさんの人と家族が口を引き結び
不安と戦っていた。

閑話休題

2015年03月25日 | ぼそぼそ
重くなりすぎ防止で
思い出したどうでもいい話を一つ


主人と付き合い始めた時、
「お互いに太ったら別れてもいいことにしよう」
と言われた。
私は高校生の時から体重の変化はほぼ無かったので
それを言われても不安を覚えることはなく
ストイックな人だなあ、で済ませていた。


先日ふと思い出し
こんな事を言ったのを覚えているか、と問うたところ
「...多分カッコつけて言ったんだと思う、覚えていない」
と言われた。
ぶっちゃけ当時から
容姿なんかほぼ見ていなかったんだと思う。


そうでなかったら十数年前、
私がソフトな拒食症を体験して
私的平均体重から5キロばかし痩せた時に気づくはずだよ。


何キロ太ったら気づくかやってみたいけど
血液検査でコレステロール値が高めと出たので
実験はもう少し先になりそうだ。