レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

長いトンネル(30)

2007年03月16日 | 昔の話
 私はOのお母さんの事を随分長い間、
感情的で気性の荒い性格だと思っていたけど
あの人はごく普通のお母さんだったんだなあと
今になって思う。
私の事をとても好いてくれていた。
●ちゃん●ちゃん、と私が訪ねるたびに
私の名を呼んで歓迎してくれた。
Oが私の名を呼ぶ事が無いかわりみたいに
何度も私の名を呼んで
来たことをいつもとても喜んでくれた。


Oの体調が良くなればK君を歓迎し、
悪くなれば責めかかり徹底的に罵る。
そんなOのお母さんの姿は、私の目には
あまり理想的な母親像に見えなかった。
だけどだれがあの状況で理性的に振舞えるだろうか。
私達はOの友達として、K君の友達として
二人の立場から事故を見て
二人のためにK君を許してやってほしい、K君ばかりを
一方的に責めないで欲しいと願ってきたけど
Oのお母さんは「お母さん」という立場なのだ。
お母さんは私達の誰にも理解出来ないぎりぎりの所で
一人理性や感情や現実と戦っていたのだ。
もう何度目か知れない入院中、
お母さんはお見舞いに訪ねたS君に
Oについてある事を言った。


あの子はあの時、―――――――。



その言葉を「お母さん」に言わせるとは、
一体どれほどの崖っぷちから発した言葉だろう。
S君は私にそれを伝えたあと
「そんな事を言っちゃいけませんよって…
 俺に言えるわけないよ。
 だって一番分かってるに決まってる」
そう言って黙った。




Oと一時期は仲良くなかったかもしれないけど
大事に大事に育てた娘だったのだ。
その娘に「知らん」と言われて
一体誰が理性的で居られようか。


だからこの結末はもう、仕方のない事だったのだ。

長いトンネル(29)

2007年03月15日 | 昔の話
 Oにはその後も様々な体調不良が
後遺症としてついて回った。

頭痛や吐き気に苛まれ何度も入院する事になる。
その度に色々な治療を施すものの、
そう簡単にすっきりと気分の良い状態にとはいかない。
最初に命を取り留めたからもう大丈夫、な訳じゃない、
Oのお母さんにもそれは十分分かっていた。
だけどあまりに長引く苦痛と
いつ病院に飛んで行かねばならないか分からない生活、
手術跡だらけの娘の顔がお母さんの限界を超えてしまった。
最初にK君に会った時の、
あの急激な回復もしばらくすると停滞し
そして間の悪いことにK君が来る時に限って、
Oの体調が悪くなる日が重なってしまう。



ある日、私が友人のS君と二人でOの家を訪ねた時だ。
●ちゃんちょっとおいで、見せたい物があるねん、
そうお母さんに呼ばれて私は一人別室に誘われた。

そこは六畳程の和室で、
壁ぎわに大きな桐の箪笥が二棹並んでいた。
どうやら箪笥だけのための衣装部屋らしく
お母さんは「そこにお座りや」、
と言って部屋の真ん中辺りを指差した。
私がそこへ座ると、Oのお母さんはニコニコしながら
箪笥の引出しを開ける。

中には和紙で繊細に包まれた美しい着物が入っていた。
Oが18歳になった時から一着ずつ作って
今ではこの衣裳部屋の箪笥にぎっしりと
Oのために仕立てた着物が溢れていた。
地域柄、嫁入り道具を絢爛豪華にする家がまだ多く残っている。
Oから聞いた事はなかったけど、
Oの家はそういう昔ながらの家だったらしい。
プリントの柄なんて一枚もない、細かい刺繍が
ぎっしりと入った、見るからに上等な着物が
私の周りに何枚も並べられていった。
最初はすごいですね!と見入っていた私だったが
着物を広げるお母さんの手つきが段々
荒々しくなっていくのを感じて顔を見上げた。


お母さんはニコニコしながら泣いていた。


着物一枚に帯は二本て言うの、
全部の着物に帯を二本ずつ作ったんやで。
これなんか綺麗やろ、これは成人式で着た着物や。
こんな地味なのも作ったんや。あの子がこれが良いって言うから。
でもちょっと出掛けるときいいやろ。
これは訪問着、これは余所行きに
これも、これも、これも、これも、
これも、これも、これも、これも、
これも、これも!



みんなあの子のために作ったのに!



最後は叫びだった。
感情的で一方的で、だけどギリギリまで追い詰められた
悲痛な叫びだった。
私の周りにはお母さんが投げた着物が
花の川みたいに広がっていて
私はその真ん中で 言葉を忘れたように何も言えず
ただただ俯くしかなかった。

長いトンネル(28)

2007年03月15日 | 昔の話
 そんな訳で私は数人の不器用な友人と共に
Oの回復を見守り続けた。
K君という爆弾の投下で
停滞していた現状は劇的に変化した。
…だけどそれはある一定まで、
あれだけの事故だったのだ、
全く元通りと言うわけにはいかない。
尤も当時はそうじゃない、今は回復の途中なのだと
思い込もうとしていたけど。


Oの様子は時々、普通になる。
話しかければごく一般的な返事が返ってくる事もあり
私達はそれが元に戻っていくしるしだと思っていた。
でもその返答には根本的な何かが欠落している。
私達は皆気付いていたけど
聞かないふりをしたり、話を変えたりして誤魔化していた。
思いがけず続いたこの道の
終着点が何処なのか、知るのが恐かったのだ。


Oの家から帰り道、車を運転しながらぼんやりと
ああ、Oに会いたいなと思ってはっとした。
そうだ。私はずっとOに会いたいと思っていたのだ。
本人を前にして話していながら変な話だけど
私はずっとOの中に、Oらしさが残っていやしないかと思って
探りつづけていたのだ。
目の前にいるのは、見た目はちょっと変わったとは言え
紛れもなく友人なのに、話してみると違う。
私はOの様子を気にするけど
Oは私の様子を気にする事はない。
私が何かしていても、
「いいもの作ってるなあ」と話しかけてくることは
もうないのだ。



私はOが退院してから初めて泣いた。
どこ行っちゃったんだよう、帰ってきてようと
呟きながら泣いた。

長いトンネル(27)

2007年03月14日 | 昔の話
 K君と日ごろから仲良くしていた先輩のKさんは
駅から遠いOの家までせっせとK君を送っていった。
同僚のS君は時間があるとOの見舞いに行っていた。
事故が起こった時にはもうすでに会社を辞めていた人が
家に戻ったOの元に花を届けに行った。


お見舞いに行かない人が悪い、と言っているわけではないのは
分かってもらえると思う。
目に見える形で心配するのが最良だとは思わない。
むしろ目に見える形で心配してしまう人は
何か下心のある人か、
「都合の悪いことからうまく抜け出せない人」だと思う。
悪い意味ではなく、職場にいた大半の人は
都合の悪い事実からすっと目を逸らすことが出来た。
私はそれが出来なかったから
私に出来る事を続けていただけだ。
遠くからそっと心配できるならそうしたかったけど
私はどうしても目で確かめないと駄目だったのだ。
…Oの容態をK君に伝えるという
下心もあったから。
結果はまんまと都合の悪いことにはまり
事実がどれだけ辛くても
見守り続けなくては気がすまなくなってしまった。
お見舞いに何度行ったから偉い、
行かなかったから薄情、ではなく
遠まわしな愛情、見せかけの愛情、間接的な愛情、薄情を
私は事故を通して学ぶことが出来た。

長いトンネル(26)

2007年03月13日 | 昔の話
 当時はK君もOのお母さんも興奮していたし
何より私自身が大興奮していたので
二人が会った時の本当に詳しい状況ではないかもしれない。
だけどはっきり覚えている事があって
それは玄関先で佇み、謝罪を口にしたK君に
「そんな事はいいからまあ上がりなよ」と
Oが言ったということ。


それまでのOからしたら劇的な変化だ。
自分から何かを話し出すような事もなく
物事に何の興味ももたず
誰かの顔を見ることもなかったOが
K君を見た途端、以前のような口調で話しかけたのだ。
行き止まりだと思っていた道の果てに突き当たってみると
もっと先まで道が伸びていた、そんな感じだ。
病院での治療が終わっても
この先はこうして回復していけるのだと思えた。


停滞に吐く息が尽きかけていたOの家族にとっても
絶望の只中にあったK君にとっても
それは眩しすぎるほどの希望だった。



私はようやく大手を振って、皆で一緒に旅行へ行った時の写真や
K君とOを二人で写した写真などを見せる事が出来た。
当時私は写真を撮るのが好きだったので
そんな写真はいくらでも持っていた。
Oの家に行く前日は持って行く写真選びに始まり、
その写真にまつわるエピソードを思い浮かべながら
気合を入れて準備し、
K君を入れた同僚や先輩と一緒に
朝早くから張り切ってOの家の門を叩いた。



この時期に私は人の様々な側面を見る。
それは当時の特殊な状況が見せたものだった。
普段では絶対に見ることが出来ない
その「人として」の部分。