ポーランド訪問記(14);クラコフ;殺戮の記念碑
(スケッチ旅行)
2001年6月16日(筒)~6月25日(月)
第3日目;2001年6月18日(火).クラコフ滞在2日目(つづき)
<散策地図>
ヴォルニカ広場近くの小さなレストラン,KILMAT CAFEで昼食を終えた私達4人は,地図を頼りに適当に住宅街を歩き回ることにした.時々,どこを通っているのか分からなくなるが,迷っても大したことはないので,余り気にせずに,Bozego Ciatatという狭い道を北へ進む.
少し大きな交差点に出る.地図を見ると,どう発音するのか分からないが,Podbrzezieという名前の通りらしい.適当に右折する.今度は,東へ少し進み,そこから南へ進路を取る.これも適当である.ジグザグを繰り返しながら,少々陰気な雰囲気が漂うユダヤ人居住地を歩き回る.辺りにはほとんど人影がない.3~4階建ての中層の集合住宅が並んでいる.
14時05分,小さな公園に出る.案内書によると,ここは第2次世界大戦中にナチスによって,6万5000人のユダヤ人が殺戮された所である.静かな公園の片隅に木々に覆われるようにして小さな石碑が建っている.殺戮の記念碑である.記念碑には「ここで6万5000人のユダヤ人がナチスによって処刑された」と刻まれている.
記念碑を見ていると,何ともいえない無常観が込み上げてくる.
私は気持ちが落ち込んでくるのを押さえるようにして,この記念碑をスケッチする.私がスケッチしているところを,1人の老婆が傍らのベンチに座ったまま,怪訝そうな顔をしながら眺めている.どうやら,私より少し年上のように見受けられる.もしそうだとしたら,この殺戮の現場に関係のある人かもしれない.私はいろいろお話を伺ってみたいという衝動に駆られたが,下手な英語で陰惨な過去を聞くのは気が引けるので,話しかけるのを控えた.
ここから北へ少し上り,電車の線路下のガードをくぐり抜けて,ユダヤ人共同墓地に出た.鬱蒼とした木々に覆われた広い墓地である.15分ほど掛けて墓地の周囲を半周した.その間に誰とも会わなかった.たくさんの無縁仏が居るらしくて,墓石は乱雑に崩れ落ちている.雑草が容赦なく繁茂している.全体にひどく荒れた印象を受ける.
ここに眠る人たちは,一体,どんな由来を持っているのだろうか.ひょっとしたら,ナチスによって処刑された人たちも,ここに眠っているのだろうか.廃墟のような巨大な共同墓地を見ながら,私は本当に落ち込んだ気持ちになってしまった.
もちろん,私は戦時中のことを良く覚えている.終戦のときに,私は旧制中学1年生であった.中学に入ったとき,実際には,当時,既に近視であった私には到底望めなかったが,それでも陸軍士官学校や海軍兵学校に憧れを持っていた.当時の教育のせいか,敗戦色濃厚になっても,東京が空襲で焼け野原になっても,戦争を悲劇として受け止める気持ちは殆どかった.
今,偶然にも,クラコフに来て,いきなり血なまぐさい歴史に触れて,私は何とも言いようのない気分になっている.
墓地に沿って,ユダヤ人が居住していると思われるアパート群が続く.余り豊かではない印象を受ける.観光客は,だれもいない.静かで寂しい道を,4人は黙々と歩き続ける.
墓地を半周すると,ガソリンスタンドがある.そこを通り過ぎると,広々としたウィスタ川の畔に出る.急に辺りが明るくなったような気がした.広々とした河原に沿って,しばらく西の方へ歩いてみる.地図を見ると,近くに交通博物館があるようである.
私もNさんも汽車が好きな方である.早速,この博物館を訪れることにした.しかし,地図を頼りに博物館の近くを歩いても,それらしい建物がなかなか見つからない.人気のない道を,探しながら歩いていると,向こうから来た中年の女性とすれ違う.私は,下手な英語で,
「あの,スミマセン.電車や自動車が置いてあるところ,ご存じないですか.この辺りのように思えるのですが・・・」
と聞く.
咄嗟のことで「交通博物館」という英単語が出てこないので,ややこしい言い回しになった.ところが,この女性はドイツ語は話すものの,英語は話せないらしい.でも何となくお互いに意味が通じて,
「そこの角を,入ってすぐの所にありますよ」
とドイツ語で教えてくれる.
私達は,漸く見つけた交通博物館を見学することにした.
(つづく)
「ポーランド訪問記」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/71e905cad395170ee1f382896d23000a
「ポーランド訪問記」の次回の記事
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[編集後記]
2011年7月15日(月)
いよいよ明日が長期旅行の出発日である.
やっと,旅の準備をする気になった.パスポートさえあれば,これといって絶対に不足しているものもないが,結構,細々としたものが欲しいなと思う.
そこで,午後の日射しの暑い中を,ブラブラと歩きながら,大船まで買い物に出掛ける.
空は晴れ渡っていて,雲一つ無い.遠く南太平洋上を台風6号が西へ向かっているようだが,まだ台風の影響はない.
昨日,娘から,
「年を取ったら暑さに鈍感になっているから注意しなければ駄目・・」
と叱られたばかりだが,こうして外を歩いていると,確かに暑いには暑いのだが,決して深いではない.むしろ,多少汗ばむ程度の気温なら爽快感すら感じる.まあ,これも加齢現象ということにしておこう.
鎌倉中央公園を抜けて,台の跨線橋を渡る.この辺りでは陸橋の立替工事が進んでいる.アスファルト道は,まぶしい太陽の光を照り返してムンムンしている.
試しに携帯電話を取りだして,胸の高さで気温を測定してみると,なんと35.5℃もある.なるほど暑い.寒暖計の数字を見てから,なるほど暑いなどとビックリしているようでは,やっぱり,加齢で感覚が鈍感になっているのかも知れない.
「でも,鈍感かどうか分からないが,特段何の支障もないから,どっちでもいいや・・!」
大船で,ちょっとした小物を買い足す.ついでに,Y電機で「見るだけ」ショッピング.たちまちのうちに時間が過ぎてしまい,肝心の200円也のコーヒーを賞味する時間が無くなる.あわてて,ポニー号バスに飛び乗って帰宅.
夕方,北鎌倉の孫2人が来訪.賑やかになる.このまま2~3日滞在するようである.
2011年7月16日(土)
本日より,7月24日(日)まで,アルパインツアー社主催のツールドモンブラントレッキングに参加する.
出発前の朝の内にしておかなければならない雑用があるので,早朝3時に起床する.
まだ外は真っ暗.昨日の熱暑が外気に堪っていて,空気が何となくねっとりとした感じがする.孫達が目覚める前に,出掛ける予定である.
旅行中,パソコンは持参しないが,ごく簡単なコメントは毎日掲載する予定である.
もう少し小さくて軽いネットパソコンを持っていれば,間違いなく旅の友として持参するだろう.私が,今,使用しているパソコンは,パナソニック製レッツノート.十分軽くて,電池も長持ちするので素晴らしいPCだが,それでも山行には大きすぎる.
スタッフバッグには,軽登山靴,ストック一式,下着若干,雨具,防寒具,嗜好品若干,緊急用薬品類しか入っていない.今回は一般的なトレッキングなので,アイゼン,ピッケル,カラビナ,ロープ,寝袋類は全く要らないので,準備も拍子抜けするほど楽だった.
今回のツアー参加者は12名とのこと.どのような出会いがあるか楽しみである.またまた,参加者の中で,私が最高年齢になることは確実だろうな.
では,行ってきます.
(愚痴おわり)