<羽川の「とりせん」で休憩>
歩いて巡る日光街道二十一宿(第4回):第3日目(1):新田宿・小金井宿
(小田急トラベル)
2009年9月28日(月)
<小山評定跡>
■エクセルイン小山の朝食
5時00分,起床する.外はまだ暗い.昨夜はよく眠れたので,寝起きはスッキリしている.朝食まで,まだ,大分時間があるので,ベッドに入ったまま,テレビを見ながら時間を潰す.
6時30分,ホテル1階のレストランで,朝食を摂る.バイキング形式である.
私は,ゆで卵,各種野菜,納豆,海苔を中心に,和食のメニューを揃える.日本人の私には,やっぱり,和食が一番良い.ゆっくり和食を味わっている内に,段々と気分が落ち着いてくる.
■エクセルイン小山を出発
8時17分,例の「エイ,エイ,オー」の蛮声を発した後,エクセルイン小山から歩き出す.まずはJR小山駅の階段を上がって,駅ビルの中の商店街を通り抜けて,JR宇都宮線の西側に渡る.
西側の駅広場から,ほんの少し歩くと,日光街道の交差点に到着する.右折して,昨日の続きを歩き出す.
■小山評定跡
小山駅西口から,西へ500メートルほどの距離に,小山評定跡がある.
このツアーは,街道に沿って歩くことになっている.従って,原則として,枝道に滅多に入らない.今回も,枝道の奥にある小山評定跡には,目もくれずに,日光街道に沿って,北北東の方向に歩き出す.
旅行社の資料によると,豊臣秀吉が没後,秀吉の後継は誰かを巡って,対立が激しくなった.1593年(慶長5年),徳川家康は,上杉景勝討伐のために,小山に本陣を構えた.
家康は,急遽,本陣に諸大名を招聘して,このまま上杉を討つべきか,反転して西へ向かって石田三成を討つべきかを評定した.このときの去就が,後の徳川家康に決定的な影響を与えた.その後,関ヶ原合戦で,徳川家康の率いる東軍が勝利した.そして,1602年(慶長7年),徳川家康は,江戸に幕府を開いた.
このような由緒のある場所を素通りするのは,実にもったいない気がするが,これも団体行動なので,致し方ない.
■喜沢の追分け
私たちは国道に沿って,ほぼ北北東の方向に歩き続ける.
歩き出してから,4キロメートルほど,長閑で単調な郊外が続く.そして,9時09分,喜沢の追分(日光裏街道)に到着する.この追分から左手に続く街道を日光西街道という.日光西街道は,ここから,飯塚,壬生(みぶ),楡木(にれき),奈佐原,鹿沼,文鋏(ぶばさみ)を経由し,今市で,再び日光街道と合流する.
<追分の近くにある馬頭観音>
<新田宿>
■喜沢一里塚
喜沢の追分けから,さらに500~600メートル先に進むと,江戸日本橋から21番目の喜沢一里塚跡に到着する.進行方向右手に,草に覆われた塚らしい盛り土がある.
■新田宿
喜沢一里塚から1.5キロメートルほど歩いて,羽川に到着する.
この辺りが,江戸から13番目の宿場町,新田宿があったところである.
旅行社の資料によると,新田宿には,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠11軒があり,宿内戸数59戸,宿内人口244人であった(年代不詳).
■ショッピングモール「とりせん」で休憩
9時34分,私たちは,羽川にあるショッピングモール「とりせん」に到着する.ここで休憩を取る.
蒸し暑い.私は自動販売機で,炭酸飲料を購入する.
<小金井宿>
■下野市市境
休憩を終えた私たちは,9時55分,「エイ,エイ,オー」の掛け声とともに,「とりせん」を出発する.
再び単調な街道歩きが続く.
10時32分,下野市市境を通過する.
■裏道のような旧日光街道
「とりせん」から歩き出してから,およそ2.5キロメートルのところで,斜めに左折する.そしてまた直ぐに右折する.民家が並ぶ裏道である.前方にかなり大きい森が見えている.ほんの200メートルほど進むと三叉路に突き当たる.本当の日光街道は,右手に見える民家の塀に沿って,さらに真っ直ぐ続いていたようだが,今は道がない.
ここで,右折,50メートルほど歩いて,再び今の日光街道に突き当たる.
さらに,日光街道を600メートルほど歩いて,再び左折する.左折してから100メートルほど歩くと,先ほど通れなくなった旧日光街道の続きの道が現れる.ここで右折して,旧街道に入る.
<旧街道は,右手の民家のブロック塀に沿って続いていた>
■日酸公園
旧街道を300メートルほど歩いて,10時39分,今日2回目の休憩場所,日酸公園に到着する.ここで暫く休憩を取る.
公園は,三方を閑静なアパート群で囲まれた小さな空間である.よそ者の私たちが,住民のための小さな公園に散らばって休憩を取るのは,何となく気が引ける.
<小金井宿>
■小金井一里塚
10時54分,閑静な住宅地のど真ん中で,「エイ,エイ,オー」の蛮声を張り上げて,歩行開始である.
私は,心の中で,
「・・何でこんな閑静な住宅地で蛮声を張り上げるんだ.少しは周りのことを考えて,蛮声を慎むべきだよ・・」
と口には出さないで苦情を言う.
裏道のような旧街道に沿って,北北西の方向に500メートルほど歩いて,右折.直ぐに今の日光街道に合流する.11時02分,合流点の直ぐ近くにある小金井一里塚跡に到着する.江戸日本橋から22番目の一里塚である.
一里塚跡は,こんもりと盛り土になっている.盛り土の上に大きな榎(?)が2本,生えている.盛り土の近くに,この一里塚の案内板が立っている.
国道にも,「小金井一里塚」の案内標識が,高いところに取り付けられている.
■小金井宿
ほんの1分ほど一里塚を見学してから,再び歩き出す.この辺りが,江戸から14番目の小金井宿があったところである.
旅行社の資料によると,小金井宿には,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠43軒があり,宿内戸数154戸,宿内人口767人の規模だった(年代不詳).
■小金井宿本陣跡
小金井一里塚から,真っ直ぐに伸びる国道を,ひたすら歩き続ける.途中,11時11分に,村社金井神社を通過する.広い参道の奥に,立派な社殿が見える.
この辺りに小金井宿本陣があったという.
<村社金井神社>
■JR自治医大駅
小金井宿本陣跡から,1.2キロメートルほど歩いたところで左折,そしてすぐに右折する.今の日光街道にほぼ並行する旧道を500メートルほど歩いて,再び右折.JR自治医大駅前の通りである.ほんの200メートルほど歩いて,11時37分,駅前広場に到着する.
だだっ広いところである.広場には全く人影がない.何時も駅前が混雑している鎌倉駅を見慣れている私には,どこか異境の地に来たような気分になる.
私たちは,駅前広場で休憩を取る.
蒸し暑いので,喉が渇く.広場の片隅にポツンと立っている自動販売機で,またもや炭酸飲料を購入する.
(つづく)
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