<大橋公園に画かれている浮世絵>
歩いて巡る日光街道二十一宿(第1回目)(2)
JR東京駅→竹ノ塚駅
(小田急トラベル)
2009年5月2日(土)(つづき)
<大賑わいの浅草寺>
■上り下りの隅田川
11時25分,私達は浅草寺雷門前に到着する.でも,何という混雑振りだろう.雷門辺りは沢山の観光客で溢れかえっている.最初は,仲見世でも見学しながら,どこかで腰を下ろして,ゆっくり昼食でも取ろうかと思っていたが,想像を絶する人混みを見ているだけで,頭痛がしてきそうである.
仲見世の見物は諦めて,10名ほどの仲間と,近くの隅田公園で昼食を摂ることにする.ただ,土地勘が全くない私は,仲間の後を遅れないように着いていくだけで精一杯である.
吾妻橋の袂で,隅田公園に入る.ここにも沢山の観光客が居るが,少し川沿いに遡ると,何とか腰を下ろしてユックリできる場所がある.一同,大きな木の根元を取り囲むように車座になって座り込む.河畔の堤防のすぐ側に船の発着場があって,一隻の水上バスが停泊している.
<隅田川の水上バス>
■不思議な建物
川向こうの目の前には,大きくてど派手なビルが建っている.屋上には沢山の黄金色のミツウロコが積み重なるように取り付けてある.あれは一体なんだろうかと不思議がっていると,同行者の1人が,
「あのビルは,○○○ビール(※わざと名前を隠す)の建物ですよ・・・あのミツウロコはビールの泡を表しているんです」
と教えてくれる.
ど派手なビルの隣にも背は低いが屋上に,黄金色のサツマイモのような形をしたオブジェのある建物が建っている.これも同じビール会社の建物のようだが,あの黄金色のサツマイモが何を意味しているのか私には分からない.
「・・・お風呂でしたオナラを急速冷凍したら,あんな形になるかしら・・・」
と妙な連想をする.
<○○ビールの建物>
■隅田公園の木陰で昼食
初夏のような陽ざしが照りつけるが,木陰は結構涼しい.私は,今朝方,大船駅前のコンビニで購入した弁当を広げる.朝食を食べて直ぐの時点,つまり食欲のないときに,弁当を購入したので,少々ボリュームが少なかったのが難点である.でも,まあ,こうでもしないと,性根がさもしい私は,買った食べ物を,一度に全部食べてしまうという困った癖がある.もしそんなことを数日続けたら,たちまちの内に,1~2キログラムほど体重が増えてしまう.増えるのは簡単だが,逆に減らすのが大変なので往生する.
食事が終わると,同行者の主婦の皆様が,いろいろな食べ物を配り始める.性根が卑しい私は,いただけるものは全部頂戴する.チョコレート,クッキー,飴,羊羹・・・・頂戴したもののカロリー計算をすると,どうも300キロカロリーを楽に越えそうである.
「これを全部食べたら,やばいな・・・」
と思いながら,ついつい食べてしまう.戦後,幼少の頃にひもじい思いをした経験が,どうやらトラウマになっているんかもしれない.
食事をしていると,直ぐ近くの鉄橋を,東武鉄道の電車が,車輪の軋む音をキーキー響かせながら,超ユックリの速度で,絶えず往来している.
<隅田公園の木陰で昼食>
<安価でローカロリーの昼食>
<小塚原刑場跡>
■閑散とした吉野通り
昼食を終えた私達は,12時10分,隅田公園を後にする.沢山の観光客の間を縫って,ユックリと雷門方向に歩き出す.歩道に面して,沢山の飲食店が立ち並んでいる.どの店も,何となく庶民的な雰囲気を醸し出していて,如何にも下町風である.これならば,田舎者の私でも,抵抗感なしにフラリと立ち寄ることができそうである.
12時16分頃,集合場所に戻る.集合時間は,12時20分である.もう大半の方々が集合場所に戻っているが,お一人だけ時間までに戻らなかった方が居たために,出発が5分ほど遅れる.
例によって,
「エイ,エイ,オー・・」
の掛け声も勇ましく歩き出す.私は内心で,
「ハズカシイったらありゃしない・・!」
と憤慨している.でも,余りの人混みなので,折角の掛け声も,辺りの喧噪さに吸い込まれ,掛け声に気が付く人は殆ど居なかったようである.
私達は,暫くの間,江戸通りに沿って,北北東に進路を取る.ほんの少し歩いただけで,雷門周辺の人集りが嘘のように,たちまちの内に,如何にも連休中を思わせる閑散とした雰囲気になる.やがて,言問橋西の大きな五差路の交差点に到着する.交差点の跨線橋をわたっている内に,一体自分がどちらに向かっているのか,ややこしくて分からなくなる.
地図で確かめると,私達は,この五差路から,都道44号線(吉野通り)に入ったようである.そして,これといって特徴のない住宅と商店が混在している市街地を,北に向かってひたすら歩き続ける.
■小塚原刑場
13時02分,進行方向左手に,突然,大きなお地蔵様が見える.お地蔵様の脇に「小塚原刑場跡」と書いてある杭が立っている.近くにある説明文によると,ここは,江戸時代初期からあった重罪人を処刑する刑場だったようである.ここで処刑された罪人は,実に20万人以上に及ぶという.正に身の毛がよだつ思いがする.
この地蔵から少し先に進むと,常磐線南千住駅脇のガードがある.
<小塚原刑場の地蔵菩薩>
<小塚原刑場跡の説明文>
■回向院
ガードを潜ると,直ぐ左手に小塚原回向院がある.ここは,1667年(寛文7年),本所回向院の住職弟誉義観が,行き倒れの病死者や刑死者の供養のために創建された寺だという.ここには安政の大獄で刑死した橋本左内,吉田松陰,頼三樹三郎ら多くの志士達が葬られているようである.
1771年(明和8年),杉田玄白らが小塚原で刑死者の解剖に立ち会った.そして,後で解体新書の翻訳を行った.その意味では,日本の医学界の黎明期に深く関わりのあるところである.
私は,せめて吉田松陰の墓前で合掌ぐらいしたかったが,団体行動では,それも許されない.
■素盞雄神社
13時14分,素盞雄神社の前を,凄い速度で通り過ぎる.私は慌てて,神社の写真を撮る.
この神社は小塚原,三の輪,下谷通新町,三河島,町屋などの鎮守である.795年(延暦4年),素盞雄命,事代主巫女路の2神が祭神として建立された神社のようである.
<素盞雄神社>
■千住大橋
私達が歩いている都道464号線は,やがて,国道4号線と合流する.そして,程なく,前方に大きな橋が見えてくる.千住大橋である.
13時18分,千住大橋を渡り始める.眼下に川幅一杯に水を湛えた隅田川が流れている.想像以上の大河である.千住大橋を渡りきるのに,3分以上の時間が掛かる.
橋を渡り終えると,隅田川左岸に沿って作られた大橋公園に到着する.ここで,15分ほど休憩を取る.
<千住大橋に到着する>
(つづく)
「日光街道二十一宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3a4b27ea511ac9527a2ffea3f6826f14
「日光街道二十一宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/bf5bf1a72fc93baafa4995edec5c3795
歩いて巡る日光街道二十一宿(第1回目)(2)
JR東京駅→竹ノ塚駅
(小田急トラベル)
2009年5月2日(土)(つづき)
<大賑わいの浅草寺>
■上り下りの隅田川
11時25分,私達は浅草寺雷門前に到着する.でも,何という混雑振りだろう.雷門辺りは沢山の観光客で溢れかえっている.最初は,仲見世でも見学しながら,どこかで腰を下ろして,ゆっくり昼食でも取ろうかと思っていたが,想像を絶する人混みを見ているだけで,頭痛がしてきそうである.
仲見世の見物は諦めて,10名ほどの仲間と,近くの隅田公園で昼食を摂ることにする.ただ,土地勘が全くない私は,仲間の後を遅れないように着いていくだけで精一杯である.
吾妻橋の袂で,隅田公園に入る.ここにも沢山の観光客が居るが,少し川沿いに遡ると,何とか腰を下ろしてユックリできる場所がある.一同,大きな木の根元を取り囲むように車座になって座り込む.河畔の堤防のすぐ側に船の発着場があって,一隻の水上バスが停泊している.
<隅田川の水上バス>
■不思議な建物
川向こうの目の前には,大きくてど派手なビルが建っている.屋上には沢山の黄金色のミツウロコが積み重なるように取り付けてある.あれは一体なんだろうかと不思議がっていると,同行者の1人が,
「あのビルは,○○○ビール(※わざと名前を隠す)の建物ですよ・・・あのミツウロコはビールの泡を表しているんです」
と教えてくれる.
ど派手なビルの隣にも背は低いが屋上に,黄金色のサツマイモのような形をしたオブジェのある建物が建っている.これも同じビール会社の建物のようだが,あの黄金色のサツマイモが何を意味しているのか私には分からない.
「・・・お風呂でしたオナラを急速冷凍したら,あんな形になるかしら・・・」
と妙な連想をする.
<○○ビールの建物>
■隅田公園の木陰で昼食
初夏のような陽ざしが照りつけるが,木陰は結構涼しい.私は,今朝方,大船駅前のコンビニで購入した弁当を広げる.朝食を食べて直ぐの時点,つまり食欲のないときに,弁当を購入したので,少々ボリュームが少なかったのが難点である.でも,まあ,こうでもしないと,性根がさもしい私は,買った食べ物を,一度に全部食べてしまうという困った癖がある.もしそんなことを数日続けたら,たちまちの内に,1~2キログラムほど体重が増えてしまう.増えるのは簡単だが,逆に減らすのが大変なので往生する.
食事が終わると,同行者の主婦の皆様が,いろいろな食べ物を配り始める.性根が卑しい私は,いただけるものは全部頂戴する.チョコレート,クッキー,飴,羊羹・・・・頂戴したもののカロリー計算をすると,どうも300キロカロリーを楽に越えそうである.
「これを全部食べたら,やばいな・・・」
と思いながら,ついつい食べてしまう.戦後,幼少の頃にひもじい思いをした経験が,どうやらトラウマになっているんかもしれない.
食事をしていると,直ぐ近くの鉄橋を,東武鉄道の電車が,車輪の軋む音をキーキー響かせながら,超ユックリの速度で,絶えず往来している.
<隅田公園の木陰で昼食>
<安価でローカロリーの昼食>
<小塚原刑場跡>
■閑散とした吉野通り
昼食を終えた私達は,12時10分,隅田公園を後にする.沢山の観光客の間を縫って,ユックリと雷門方向に歩き出す.歩道に面して,沢山の飲食店が立ち並んでいる.どの店も,何となく庶民的な雰囲気を醸し出していて,如何にも下町風である.これならば,田舎者の私でも,抵抗感なしにフラリと立ち寄ることができそうである.
12時16分頃,集合場所に戻る.集合時間は,12時20分である.もう大半の方々が集合場所に戻っているが,お一人だけ時間までに戻らなかった方が居たために,出発が5分ほど遅れる.
例によって,
「エイ,エイ,オー・・」
の掛け声も勇ましく歩き出す.私は内心で,
「ハズカシイったらありゃしない・・!」
と憤慨している.でも,余りの人混みなので,折角の掛け声も,辺りの喧噪さに吸い込まれ,掛け声に気が付く人は殆ど居なかったようである.
私達は,暫くの間,江戸通りに沿って,北北東に進路を取る.ほんの少し歩いただけで,雷門周辺の人集りが嘘のように,たちまちの内に,如何にも連休中を思わせる閑散とした雰囲気になる.やがて,言問橋西の大きな五差路の交差点に到着する.交差点の跨線橋をわたっている内に,一体自分がどちらに向かっているのか,ややこしくて分からなくなる.
地図で確かめると,私達は,この五差路から,都道44号線(吉野通り)に入ったようである.そして,これといって特徴のない住宅と商店が混在している市街地を,北に向かってひたすら歩き続ける.
■小塚原刑場
13時02分,進行方向左手に,突然,大きなお地蔵様が見える.お地蔵様の脇に「小塚原刑場跡」と書いてある杭が立っている.近くにある説明文によると,ここは,江戸時代初期からあった重罪人を処刑する刑場だったようである.ここで処刑された罪人は,実に20万人以上に及ぶという.正に身の毛がよだつ思いがする.
この地蔵から少し先に進むと,常磐線南千住駅脇のガードがある.
<小塚原刑場の地蔵菩薩>
<小塚原刑場跡の説明文>
■回向院
ガードを潜ると,直ぐ左手に小塚原回向院がある.ここは,1667年(寛文7年),本所回向院の住職弟誉義観が,行き倒れの病死者や刑死者の供養のために創建された寺だという.ここには安政の大獄で刑死した橋本左内,吉田松陰,頼三樹三郎ら多くの志士達が葬られているようである.
1771年(明和8年),杉田玄白らが小塚原で刑死者の解剖に立ち会った.そして,後で解体新書の翻訳を行った.その意味では,日本の医学界の黎明期に深く関わりのあるところである.
私は,せめて吉田松陰の墓前で合掌ぐらいしたかったが,団体行動では,それも許されない.
■素盞雄神社
13時14分,素盞雄神社の前を,凄い速度で通り過ぎる.私は慌てて,神社の写真を撮る.
この神社は小塚原,三の輪,下谷通新町,三河島,町屋などの鎮守である.795年(延暦4年),素盞雄命,事代主巫女路の2神が祭神として建立された神社のようである.
<素盞雄神社>
■千住大橋
私達が歩いている都道464号線は,やがて,国道4号線と合流する.そして,程なく,前方に大きな橋が見えてくる.千住大橋である.
13時18分,千住大橋を渡り始める.眼下に川幅一杯に水を湛えた隅田川が流れている.想像以上の大河である.千住大橋を渡りきるのに,3分以上の時間が掛かる.
橋を渡り終えると,隅田川左岸に沿って作られた大橋公園に到着する.ここで,15分ほど休憩を取る.
<千住大橋に到着する>
(つづく)
「日光街道二十一宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3a4b27ea511ac9527a2ffea3f6826f14
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度々のコメント有り難うございます.
隅田公園辺りは,私にとって,初めての散策でしたが,下町の雰囲気を垣間見たという印象を受けました.
日光街道の旅はまだまだ続きますので,今後とも宜しくお願いします.