![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/b1/8fd759f098d09f7dd698769594e59790.jpg?1621692488)
秋田市立仁井田小学校、である。
秋田市南部にあり、私の学び舎であった。
最近はサイトに歴史を載せていないが、ある文献やサイトからかなり面白く詳しく記してあったので、まとめつなげて記す。
【注意、独自研究も混じっていて道路話は誤認説もでてきました】
1882年 明治15年、仁井田の名士舘岡政千代が自宅を開放した仁井田村立の小学校を開校させる。
明治時代 校舎を仁井田中丁(仁井田地下道付近)に移転し、尋常・高等小学校に、のちに農業科併設
1923年 仁井田下久保(いまの仁井田幼稚園)に木造校舎を新設
戦時中 国民学校となる
1947年 新制仁井田小学校として再出発。また、上新田には仁井田中学校を開校。
1954年 仁井田村合併、秋田市立仁井田小学校に
1966年 仁井田中学校閉校。
1967年 バイパス開通で中丁跡地付近に通学用仁井田歩道橋設置
1968年 中学校跡地にいまの校舎として移転。(下久保跡地は仁井田幼稚園・郵便局へ)
1972年 プール完成
1979年 仁井田児童館(児童センター)完成
1980年 一部地域を学区分割して開校した大住小学校へ。【追記】管理棟はこの年に改築したという資料もある(秋田建設工業新聞など)
1983年 バイパス4車線化で通学用歩道橋廃止、仁井田地下道完成
1984年 御野場中学校開校。城南地域への通学から簡便化。
1994年 御野場ニュータウン造成による生徒増加で東校舎増設と北校舎一部解体
1996年 東校舎完成
となっている。
仁井田小学校は四ツ小屋小学校より規模が大きいが、実は明治8年開校のため、後輩。
中学校に通うと何故か仁井田のほうがスクールカーストが低くなるイメージあるけど、これもあるのか。
クラス配置でも多数派を作りやすいのは四ツ小屋側。
また、あの校舎は1968年とはどうりで古かった。
途中までポットントイレだったし、電気スイッチもNationalでなく、黒いスイッチで「NATIONAL」だった。
特に壊した北校舎はさらに古臭く、一部つないだあとがあったけど、中学校の名残だろうか。
体育館は昭和の体育館らしい三角お屋根だが、選挙にでかけたら中身は新しくされていた。
【追記】この時に校歌をモチーフにしたフレーズ看板が東校舎に移された。
古い古いばかり記してるが、雪害は四八、五九、一八。地震は日本海中部地震と東日本大震災、台風もりんご台風を乗り切ったのだから凄い。
東校舎工事のときは自分たちの学年はプレハブ校舎で嫌だった。
幼稚園のときも園舎工事でプレハブで、大学の時も学部再編の時に仮研究室だったりとこういうのは引きかも。
ただ、東校舎は明るくてベランダ付きで綺麗で大好きだった。
図書室とかが移転してきたけど雰囲気も良かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/88/f211acf2acae9b505152c31078ec541a.jpg?1621738065)
【追掲載】東校舎(奥の赤屋根は南・北校舎)
そして、学区も気がついたら変わってた。
当時大野と横山の子がいたんだけど、大野の子はもう大住扱いに再編されてしまったためいまでは同級生になれない。
想い出深い子が何人かいたからを考えると。
横山は前に取り上げたように交通の便が悪くなり、上北手や御所野に再編されたほうがと思ったりする。
土崎や将軍野はぐちゃぐちゃとした学区割にしてる一方、仁井田は杓子定規な大字割にされている。
大住に変えられたほうが例外で、四ツ小屋与左衛門河原とか御野場の一部あたりの一部は仁井田のが近かったりする。
前者は仁井田目長田にされた地域は仁井田小学校だったが、いまのされなかった地域はどう見ても仁井田のが近い。
また、一時期御野場ニュータウン次第では御野場ニュータウンに仁井田南小学校とか御野場小学校ができるのではと噂があった。
東校舎で充当したから無くなったが、飯島南小学校あたりと混同されたか。
そして、近い未来に四ツ小屋との統合の話は否応なく出るだろう。
そのとき、どうなるのか見ものであるが。
【追記 2024.5】バイパス工事に至っては、参考文献に無いものやもう引けない(消えた?)のサイトなどもあって出典がぐちゃぐちゃです。
現在調査しております。
参考文献:秋田新都市開発連絡協議会「秋田新都市の歩みと周辺地域の今昔」
本当なら牛島大住のが近い感もある場所、かなりありますが。
学区の組み換えも考慮しないといけなさそうな気もしますが。
南とか飽和してそうなイメージですが。
土崎小は、統合により現在の土崎南小への移転が確定しています。
児童館や児童センターの位置づけも、統合談義に絡みそうです。
交流も弱いし、追分や道川のが良かった気がします…
数年以内に戸島と河辺の統合が先行されますが、その時点でも、考慮する必要があるでしょうね。
あまりにも少ないとこは義務教育学校とかになるかもしれません。
ただ、予算やその他優先順位もあるでしょうから、この通りに進んでいないのが現状。
また、統合計画などの適正化検討から、どちらの校舎を使うかによっては、前述の新築及び改修方針通りにやると、跡地利用の問題が発生する状況にもなります。
雄和小学校も、完全な新設校ながら、結果的には雄和中学校の敷地に新校舎の設置及び及び既存の中学校施設の一部共用で対応することになりました(校長は小中兼務ですが、本務は小学校側とのこと)。
適正化配置が第一段階もしくは第二段階の導入段階の場合は、校舎の立地と既存学校の老朽化度などで進みづらいケースもあるようなので、その点も校舎の建て替えを躊躇させる点もあるでしょう。
第三段階に既に入っているところは、立地面などで問答無用状態のところばかりなので。
ただ、河辺が第三段階に行っていないのは、小中が離れていることもあるかもしれませんが。
仁井田も増改築に落ち着かされました。
河辺、追分、日新あたりの統合でどれだけなるのか、位置や交通はどうなるのか行政は見えません。
旭南、将軍野、茨島あたりの特殊事情も未だに解決をみませんし。
河辺中央児童館は河辺小から離れていることと老朽化があって、小学校内に河辺児童室の設置で代替された経緯があります。
藤倉児童館の場合は、小学校閉校後もかなりの間存続していたはずです。
児童室を含めると上新城児童室は3月いっぱいで閉室予定、雄和地区の全ての児童室も雄和児童センター新設に伴い閉室、御所野と上北手は児童センター及び児童館設置に伴う閉室がありました。金足東児童室も閉鎖されています。
また、小学校に対応していない将軍野児童館もあるので、学区の広域化あるいは学区の間に当たる地域は、存続の余地があると思います(上新城児童室がコミセンに移設の上で1年限定で存続したのは、激変緩和措置とのことで、児童室の場合は学校内にあるケースが多いため、即廃室に準じた対応が多い模様)。
下浜と豊岩は日新への統合を望んでいるようですが、浜田は越境入学を受け入れているところのため、一定の小規模校を残したいという希望があるようです。
施設としては3校統合であれば耐えられるらしいので。
ただ、4校統合となると、日新で現在行われている改修のキャパを超えることにもなる(そもそも日新はもとから適正規模を超えている)ため、当面は、浜田に3校の統合校を設置するのが現実解のようです。
この考え方で行くと、金足西と下新城の統合校は、児童館のある金足西に設置するのが現実的だと思われます(下新城児童室は、児童室としては初期の設置なので、学校との導線が完全に分離されていない問題もある)。
南部は、児童館や児童センターが普通にあるところが大半なので、あまりこの辺りを考慮する必要はないと思います(大住や仁井田のように古いところをどうするかという問題はありますが)。
中央部だと、児童館が古い旭北や学校からかなり離れている中通などが分かり易い対応がされやすいかもしれません。
東部は、下北手児童センターをどうするか。
河辺は、河辺全域学区の小学校ができた時点で児童センターの設置は検討の余地があるでしょう。
日吉、浜田地区(旧7西が)日吉小学校で美大や豊岩、駅側+下浜が新屋小学校と。
下浜は岩城が取れたら勝手あたりとくっつけられたのに。
あと、浜田の児童館は学校がなくなるから存廃論になりそうです。
統合校に日新の一部を分割ができれば、日新をスリム化することで、秋田西中学校が適正規模になるかと。
浜田小に統合校を持ってくる場合は、スクールバスの負担が少ないことと、児童館が継続使用できるメリットもあります。
日新と浜田の両児童館は、新築が必要だと思いますが。
とにかく標高が高い。
津波対策にはいいですが、それみると栗田ランプ西側のあたりとかはどうなのか。
この3校からであれば、西中のキャパで供給は可能だと思われます。
ただ、プラス日新となると、大森山近隣の通り沿いにしたほうが、良さそうな気がします。
来年からの西中も、スクールバスは、ジャンボタクシー数台程度であれば対応できそうとのことなので。
今の日新小の敷地や周辺道路を見ると、用意でなさそうな気もします。
ますます、大型バスが難しい場所ですし。
日新を2つに割るにもあそこはまた微妙なんですよね。
桂根とかに置きますか?
勝平の小学校と中学校は手を付けない方針なので、来年の豊岩下浜の西中への統合で、中学校側は蹴りが付きます。
問題は小学校で、浜田豊岩下浜で統合し、日新はそのままとされていますが、前者については、どこに統合校舎を設置するかという問題と、統合しても小規模校には変わらないということで、日新との統合も視野に入れる意見もあるようです。
ただ、現在の校舎のままでは日新を移転させる必要があるのと、その場合に現在予定されている改修が無駄になる恐れがあるので、小学校の統合は、他地域に比べて難しくなることが想定されます。
日新小学校は、奥まったところにあるので、スクールバスの停車位置が現状確保できなさそうなので。
あとは、浜田児童館の処遇ですかね。
豊岩がいよいよなくなりますが、これでまた弊害があるのですか。
都心部は対策放置のツケがいよいよきましたね。
泉といえば、高清水や笹岡などの地域の外旭川問題にも通じそうです。
>Mr.redさん
結局なし崩しなんですな…
合併地域も機械的な統合してますし。
西部の小中学校はそこまで回っていないのが現状ですし、中央部は、学区分割も検討しないと行く中学校も大きく変わります。
南部は影響は少なそうですが...
日新小は、マンモス校一歩手前なので、上記3校統合で超大規模校になる恐れがあるため、学区再編や校地移転も視野に入れないと、無駄な建物になる恐れが高いです。
秋田南中学校については、旭南小学区をきっちり蹴りをつけないと、山王中学校や泉中学校が肥大化する恐れもあるので、慎重にやってもらわないといけないと思います。
耐震補強か、エアコン設置か、トイレ改修か、はたまた教室の用途変更か、どれでもおかしくないのは確かですね。
四ツ小屋と統合になっても関係ない工事なはずですが、特別教室再編とかもあるのか。
秋田西中とか、統合後のキャパは大丈夫なのか、という学校もありますが、併せて、下浜や豊岩、八田方面からの通学が大変そうです。
ありがとうございました。
条例上の名称はそのままなので、正式名称とネーミングライツは併用しているというのが正解。
標識その他は、ネーミングライツに変更される場合もありますが、その費用はネーミングライツ取得者持ちなので、契約条項次第になるかと思います。
もう移管された施設もありますね。
東京の場合はオリパラ施設の運営がそういう指定管理者でほとんどを賄ってるようです。
それで思い出しましたが辰巳国際水泳場もですが、今度通年スケート場になるとのこと。
老朽化して国体すら出来ない秋田こそがいまのスケート場を改築すべきでは?と。
ネーミングライツと指定管理者制度は違いますよ。
指定管理者制度となれば、設置者が運営を指定関係者にやらせる形(児童会館なども、こちらに該当。総合振興公社がやっているのも、こちらになる)。
ネーミングライツは、施設にスポンサーの名前をつけるだけなので、運営は基本設置者が行います。
無論、両方併用する場合もあるのですが。
仁井田の場合は(役場)→出張所→地域センター→機能が小さい「中央会館」→コミセンとなってました。
中央会館途中まで役場時代のを使ってたらしいので、地域センターとしては使い勝手が良かったのでしょう。
指定管理者とは今後きらら図書館やさきがけ八橋球場みたいになる可能性もあるのでしょうか。
恐らくは、そのイメージでいいはずです。
行政機能は、SCに集約(中央、東部、南部別館を除く)されてコミセンに格下げ、SCの行政以外の部分を指定管理者制度導入、だと思います(なお、行政機能は駅東サービスセンターにもありますが)。
仁井田の中央会館は普段は非開放でしたから、実は格上げ?
SCのコミュニティ施設部分の指定管理者とコミセンの指定管理者は、定義がやや異なるようなので、厳格には同一にできないかもしれません。
地域センターがコミセンに格下げされて、指定管理者を入れたところのあるので、純粋にコミセンとして設置されていないところもあるので、注意が必要かと思います。
仁井田はその南コミセンに地域センター時代に組み入れられて廃止されていて復活しましたが、御所野もあとで調べてみます。
中通は、意外でした。
逆に下新城はコミセンと公民館があり。
御所野や四ツ小屋、中通、日新などなど。
土地がない、というところが多いかもですね。
川尻と旭南は、児童館を潰して作りましたし。
反対に1990年に出来た旧中央会館が解体されてコミセン化しました。
仁井田が唯一コミセン化してなかったのもあり、そっち優先。
ただ、学校の敷地っていう地の利を捨てて遠いコミセンまでとなると負担が凄い。
さらに遠いあおぞら学童保育がありますけど。
旧仁井田村官庁街&商店街としてみる影がないのもあるんでしょうか。
Dグループでは、牛島児童館が移転新築で児童センターとなったので、仁井田と大住の両児童館が古株になると思います。
新築するとしたら、どちらかでしょう。
大型化すれば児童センターとなりますが、規模があまり変わらなければ、新築後も八橋や広面のように児童館のままとなるはずです(省令上基準があるので)。
仁井田コミセンを作ったときに、勝平のように合築すればよかった気もしますが、川尻や旭南のような轍を踏んでほしくないというのもあるので、複雑です。
1980年当時の松下スイッチは白いNationalでしたのに60年代の黒いNATIONALだったので小幅なもんかと思いますが。
リノベーションが無かったのは1995年辺りに解体された旧北校舎の一部かと。
本当にふるくてギシギシ言ってました。
給食室と理科室がありましたが、やはり不気味。
いまはここだけ解体しましたのでもう見ることはできません。
だけど1980にしてはかなりくたびれた感が否めませんでした。
1968年は高校の母校たる秋田中央高校も同じ時期でしたが、こちらも壊されました。
1984年の御野場中学校はまだ大丈夫だと思われます。ただこちらはこうまでふるくないんですよね。
三角構造の準備室とかは建築的に珍しいかと思いましたが。
以前の山王中の校舎が1967年築、今も使う旭南小が1969年だったそうで、耐震改修工事の費用対効果を勘案すれば、その時期の建築が、建て替えか残すかの境界線なのかもしれません。
我々の頃の保戸野小は、1960年代半ば築。3階にトイレがなく、給食室が南向き、給食用ダムウェーターがないので隊列を組んで階段で運ぶという感じでした。
幼稚園から高校まで、通った当時の校舎はどれも建て替えられて現存しないので、余計に昔が懐かしく思い出されます。