人が何かを発明すると、それをすごいと人々が褒めます。
コンピューターや様々な機能の機械などを発明したり、作ったりした人を、すばらしいと褒めますが、アッラーが、人間を創造された事を考えてみてください。
どうやって知能を創られたか、どうやって食べ物を消化したり、どのような仕組みで、耳で聞いて、頭で理解したりすることができるのでしょうか。
口から入った食べ物が、食道を通って、胃に入り、そこから栄養を体中に行渡らせて、私達の体は生きていくことが出来るわけですが、そういった全てのシステムをお創りになったのは、アッラーです。
人間には、治癒能力というものが、体に備わっていて、傷ついた皮膚も、数日すれば、血も止まり、自然と皮膚が再生して、治っていきます。私達すべての体の中に優秀な医者がいるようなものです。傷ついたら、体自身がそこを治すように働いていて、自分で治すことができるようになっています。スブハーナッラー。
それら全てを創られた、アッラーのことを考えてみてください。
アッラーが、何を、自分に与えてくださったのか、を考えてみて下さい。
アッラーは私達に命を与え、体を与え、私達の周りにある全てのものを与えてくださっています。
例えば、どなたか、足の小指を他人に売りたいと思う人がいますか?
いつも靴の中にあって隠れていて用がないから、もう100万円で売ってしまいましょうと言ったら、誰か売ってくれる方はいますか?
誰も売らないでしょう。
足の小指でさえ、売ろうと思う人はいないのに、目や、耳、手、その他の体の部分は、どうでしょうか?
そんなに大切なものを、沢山頂いておいて、それでも、私達は、ともすれば、毎日の生活に忙しくて、それらを与えてくださった、アッラーのことを考える時間がありません。
全て私達の周りにあるものは、アッラーの恩恵です。
タウフィーク先生(シリア、ダマスカスのイスラーム学者)が、お話くださった自分の子供のときの話で、6歳の子供だった彼が、ある時、綺麗な花を見て、その美しい香りをかいでいると、彼のおじいさまが、こう言いました。
「それを、アッラーを遠ざけるものとしてはいけません。
それを通して、アッラーのことを思い出すものとしなさい。」
私達の周りにある様々な恩恵(ニアマ)、美味しい料理や、優しい家族や、可愛い子ども達、それらの恩恵は、それ自体に忙しくなって、アッラーのことを忘れるものにしてはいけないのです。
その表面の美しさ、可愛らしさだけに捕らわれて、表面に見えることだけに忙しくなって、その奥にいらっしゃる、それらの恩恵を自分に送ってくださった、アッラーの存在を、忘れるものにしてはいけないのです。
それらの恩恵を通して、アッラーの私達への大きな愛を、アッラーのことを思い出すものに、しなければいけません。
アッラーはクルアーンの中で言われています。
【 私のことを思い出しなさい。私もあなた方の事を思い出します。そして感謝しなさい。そうすれば、不信心に陥る事はないでしょう。 】
預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のハディースルクドゥスィーでも、アッラーは言われていますが、
(( 私は、私を思い出す者と 共にいます。 ))
そんな方が他にいらっしゃるでしょうか?
私たちは、何か災難に合ったり、不幸に見舞われたりすると、アッラーが自分のことを好きではないのでは、と疑ってしまったりしますが、それは大きな間違いです。
コップ一杯の水でさえ、アッラーが私たちのことを好きでなければ、私たちには飲むことができません。
水を飲むことができる、目の前に水がある、ということが、既にアッラーの印のひとつです。私たちの周りにあるすべての恩恵は、アッラーがあなたを好きだという証拠です。
アッラーは、私たちに与えて、与えて、私はあなたのことが好きですよ、好きですよ、とずっと言い続けてくださっています。すべてを与えて、あなたを守ってくださって、その上で、私たちは、アルハムドゥリッラーと言って、休んで座っているだけで本当にいいのでしょうか?
病気になることも、アッラーからの手紙です。足が弱ることも、視力が悪くなることも、子供が病気になることも、すべてアッラーからのあなたへのメッセージです。
アッラーは、いつあなたが自分に気付いてくれるか、待っていらっしゃいます。
でも、私たちの自我(ナフス)は、怠けることを好みます。
「あー、お休みの日が一番!好きなときに起きて、好きなことをして、誰も見ていないし。。。」というように。
でも、もし、心の中にアッラーの存在があれば、
「アッラーは私と一緒にいて、アッラーは私の言う事を聞いていて、アッラーは私を見ています。」
ということを、知っていれば、誰も監督する人は必要でなくなります。よく言われるような、ラマダーンにだけ善行をする、などということもなくなるのです。
なぜなら、ラマダーンの主、アッラーは、ラマダーンにも存在していますが、ラマダーンの前にも、ラマダーンの後にも、存在します。いつでも存在しているのです。
時間を決めて、どこかで待ち合わせたり、電話をして連絡をとってからでないと、
アッラーに会うことができない、ということはありません。
いつでも、私たちが心の中で、アッラーのことを考えるだけで、アッラーはもう私たちと一緒にいてくださいます。アッラーが、ハディース・ル=クドゥシーの中で、
(( 私は、私を思い出す者と 共にいます。 ))
と言われたように、ただ、アッラーのことを考えるだけで、アッラーと共にいることができるのです。アルハムドゥリッラー。
誰かの助けが必要なとき、私たちは、夫や、友達や、両親などに相談したりしますが、彼らが必ずしも、私たちが本当に必要としているときにいてくれるとは限りません。忙しかったり、ちょうど留守にしていたり、どうしても連絡がとれなかったり、ということもあります。
でも、アッラーは、私たちがただ、アッラーのことを思い出すだけで、いつでも私たちと共にいてくださり、私たちの願いを聞いてくださり、助けてくださいます。
ただ、私たちがアッラーのことに気づくだけで、アッラーはいつでもそこにいらっしゃいます。
留守にしたり、今は忙しいから、1時間後に、というようなこともなく、どんなときでも、どこにいても、一緒にいてくださいます。
いつもいてくださるアッラーに、アルハムドゥリッラー。
そして、この、アッラーの存在を私たちに教えてくださった方、それが預言者ムハンマド様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)です。彼がいなければ、私たちはアッラーのことを知ることはできませんでした。
預言者ムハンマド様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)という方は、本当に、生涯を通して、イスラームのために常に努力をされた方だったのですが、彼が、預言者としてアッラーからクルアーンの啓示を受けた始まりは、40歳のときでした。
アッラーは預言者様(彼に平安がありますように)のことを、クルアーンの中で、こう言われています。
【 本当にアッラーの使徒は、あなた方にとって、立派な模範であった。】クルアーン部族連合章21
その預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が、幼い頃は、どんな風にお育ちになったか、というのをちょっと見てみましょう。
まず、彼の父親は、彼が母親のお腹にいた時、彼が生まれる前に、亡くなってしまいました。そして、母親も、彼がご幼少の頃、亡くなりました。
小さな預言者様(彼に平安がありますように)は、両親を亡くした孤児で、何も持っていない貧乏な状態で、読み書きもできない文盲でした。
はじめは、何もないところから始まったのです。
小さな、母親を亡くされたムハンマド様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、叔父さんのアブーターリブの家に預けられましたが、既に叔父さんには、12人の子供がいて、彼は13人目でした。
12人の子供を抱えた叔父さんの家に預けられた、両親のいない、何も持っていない貧乏な、読み書きもできない小さな彼は、自分は何もできない、といじけていたでしょうか?
彼は、自分は孤児で、小さくて貧乏で、というふうには、考えませんでした。そんな状況でも、彼は、自分のできることを探しました。
12人の子供を抱えた叔父さんを助けるために、自分のできることは何か?を考えたのです。
そして、羊飼いという仕事をすることを、子供ながらに申し出ました。町の人達から、羊を預かって、それを郊外に連れ出し、草を食べさせ放牧して、夕方、町に戻ってくるという仕事です。これなら、小さな彼にもできるし、お金がなくても、できます。
自分には何もできない、と、ただ座っていることはなかったのです。
預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、何もないところからでも、始めました。
考えることができる知能を、人間はアッラーから与えてもらっています。それさえあれば、何もなくても始められます。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、自分のできることは、何か?を、考えたのです。
私たちにも、考えれば必ず、何かできることがあるはずです。自分に何ができるか?を、考えてください。ムスリム兄弟姉妹のために、イスラームのために、自分にできることは、何か?を。小さな孤児の預言者様様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が考えたように、私たちも考えれば、何かできることがあるはずです。
啓示を受けてからも、彼は、自分の身を守る鎧のようなものや、武器を、ご自分で鉄からお作りになりました。
働くことは預言者たちの、スンナです。ムハンマド様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)以外の他の預言者も、全て大工だったり(預言者イーサー)、羊飼いだったりと、仕事をしていました。誰も何もせずに家にいるようなことはありませんでした。
預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の奥様のアーイシャ様(アッラーのご満悦あれ)の伝える伝承によると、彼女は、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が、何もしないで座っているのを見たことがなく、ある日、何もすることがなかったとき、彼は、布で貧しい人たちのために、服を縫っていらっしゃいました。サッラッラーフアライヒワサッラム
ムスリムは、毎日、何か前進していきます。少しずつであっても、何かひとつでも、クルアーンのアーヤひとつ覚えることであっても、毎日、何か上昇することが大切です。知識だけに限らず、振る舞い、性格においても、自分の悪い性格をひとつ直すように努力することであっても、なにか毎日少しずつでも前進して行くのです。
今の自分に満足することは、ムスリムとして、ふさわしくありません。毎日、アッラーに戻って、自分を反省して、進んでいくのがムスリムです。
私たちには、明日にでも、アッラーと面会する日が来るかもしれません。そのときに、アッラーの御前で、恥ずかしくないように、今から準備をしましょう。
2005年7月23日 勉強会にて
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