ダマスカス留学生有志による情報ブログ

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イスラームは私の人生をどのように変えたか ①

2010年03月29日 | ムスリムになるって?(入信体験記)

アーミナ・アッスィルミさんはアメリカ人の白人女性で、オクラホマ州南部バプテスト教会の熱心なクリスチャンかつ急進的なフェミニストでした。
大学時代、アラブ人同級生をキリスト教に改宗させたい一心でクルアーン(コーラン)やサヒーフ・ムスリム、その他イスラームに関する本を15冊読み、結果として、ご自身がイスラームに改宗するに至りました。
下記は、彼女による入信記です。

第一章 決心

私が初めてムスリムに出会ったのは、大学でレクリエーション学の学位を取得しようとしているときでした。
その年は、ちょうどコンピュータで事前に履修登録ができるようになった最初の年で、私は事前に次学期の科目登録を済ませ、家族の仕事の関係でオクラホマ州へ出掛けました。
ところが、思ったより仕事が長引いたので、2週間遅れで大学に戻りました。
私は当初、出遅れた分を取り戻すのに、さほど不安を感じていませんでした。
専門科目ではクラスで常にトップの成績を修めていたし、学生でありながら、専門家を交えたコンテストで賞を獲得したこともあったからです。

多くの友人に囲まれて、大学では成績優秀、さらに自分のビジネスを運営・・・となれば、皆さんは、当時の私が文句なしの経歴を持っていたように思われるかも知れません。
しかし、実のところ、私は極端な引っ込み思案でもありました。当時の成績証明書にも「非常に無口である」と書かれています。人と仲良くなるのにとても時間がかかりました。相手がすでに知っている人か、必要を要しない限り、自分から人に話しかけるということも稀でした。
当時の私の履修科目は、どれも管理学や都市計画、児童対象のプログラム作成に関するものばかりで、私にとって、子供たちだけが心から寛げる話し相手でした。

本題に戻りますが、プリントアウトした事前登録科目を見て、私は目を丸くしました。
なんと私は、演劇科目にも登録されていたのです。
つまり、実際の観衆の前で、何かを演じることが要求される科目です。私は萎縮してしまいました。クラスで質問すらしたことのない私が、どうやって人前で舞台に上がることができるというのでしょう?
私の夫は、いつものように冷静で賢明な判断をしてくれました。そして、「先生に事情を説明して、背景画を描いたり、衣装の縫製をする係に回してもらったら?」と、アドバイスしてくれました。

先生が、私にできる参加の仕方を考慮することに同意して下さったので、翌週の火曜日、私はクラスに出席しました。
さて、教室に一歩入ったところで、私は再びショックを受けてしまいました。
教室は「アラブ人」と「ラクダ乗り」でいっぱいだったからです!といっても、そうした名で呼ばれる彼らのことを実際に目にしたことはなく、単に話を聞いたことがあっただけですが・・・。
こんな薄汚い未開人だらけの教室に座れるわけないじゃない?!こんなところにいたら、何か悪い病気をもらってしまいそう!彼らが汚いってことは、みんなよく知っているし、まして信用なんてできっこない!
私はそそくさと教室のドアを閉めて、帰宅してしまいました。
(その頃の私は、ワイングラスを片手に、ぴったりした革ズボンにホルターネックといういでたちでした。にもかかわらず、彼らのことを「悪い奴ら」だと思っていたのです。)

私は夫に、クラスにいたアラブ人の話をし、あんなところにまた戻るつもりはないということを打ち明けましたが、夫はいつものように落ち着いて、こう話してくれました。
「君はいつも、こう言っていたじゃないか。何事にも理由がある。神様は理由なしには何事もなされない御方だ、って。」
私は、このクラスについて、最終決断を下す前にもう少し時間をかけて考えてみる必要があると思いました。
夫は、私が奨学金を受けていること、今後も交付を受けるには今の成績を維持しなければならないことを指摘しました。実際、この科目を落とすことは、奨学金を断念することを意味していました。
その日から2日間、私は導きを求めて祈りました。そして木曜日、「神様は、あのかわいそうで無知な未開人を地獄の炎から守るために、私をクラスに送られたに違いない」と確信して、クラスに戻りました。

私は事あるごとに、イエスを個人的な救世主として受け入れなければ、地獄で永遠にどんな風に焼かれることになるか・・・といったことを彼らに話して回りました。
彼らはとても紳士的に対応してくれましたが、改宗はしませんでした。
そこで私は、イエスさまがどれほど彼らを愛しておられるか、そして、彼らをその罪から救うために十字架にかかって死んでくださったことを説明しました。
とにかく、イエスを彼らの心に受け入れさえすればいいのだ、と。それでも、彼らは紳士的に対応するものの、改宗はしてくれませんでした。

それで、私は、彼らの聖典を読み、イスラームが偽物の宗教であること、ムハンマドが偽物の神様であることを証明してみせようと決心しました。
クラスメイトの一人が、イスラームに関する本とクルアーンをくれたので、早速、それを読み調べ始めました。
必要な証拠はすぐ見つかるだろうと確信していたのですが、クルアーンを完読し、もう一冊の本も読み終え・・・、他にも15冊の本とサヒーフ・ムスリムを読み、その後、再びクルアーンを読み始めました。
「きっと、彼らをキリスト教に改宗させてみせる!」そう決心していた私は、その後1年半に渡って、調べものに明け暮れていました。

そうこうしているうちに、私は夫との間に幾つか問題を抱え始めました。私に、少しずつ変化が現れていたのです。ほんの少しずつでしたが、夫の気分を害するには十分でした。
私たちは、毎週、金・土曜日には、よく一緒に飲みに出掛けたり、パーティに出席していました。でも、もはや、そうした場に出掛けたいとは思わなくなっていたのです。
私はより物静かになり、夫は私との間に距離を感じるようになりました。
夫は、私が浮気していると確信し、私を家から追い出しました。私は子どもたちと一緒にアパートを借り、その後も、ムスリムたちをキリスト教に改宗させるために必死に努力をしました。

そんなある日、誰かが私のアパートのドアをノックする音が聞こえました。
ドアを開けると、長くて白いナイトガウンを着、紅白のチェックのテーブルクロスを被った男性が立っていました。他にも、寝巻きのようなものを着た男性が3人立っていました。(彼らの伝統的な民族衣装を目にしたのは、その時が初めてだったのです。)
寝巻きを着て私の家の前に立っている男たちには、本当に腹が立ちました。
私のことを一体どんな女だと思ってるの???あなた達には誇りや尊厳というものがないの???

私の受けたショックを想像してみてください。テーブルクロスを被った男性に「あなたがムスリムになりたいということを知っています」と言われたときのことを!
すぐに私は、ムスリムになりたいなどと思ってはいないことを伝えました。私はクリスチャンだったのですから・・・。
でも、もし少し彼に時間があるなら、幾つか質問したいこともありました。
彼の名前はアブドゥ・ル=アジーズアル=シェイフといい、私のために時間を割いてくれました。彼は私の抱いている疑問に一つ一つ答えて、忍耐強く説明してくれました。
私が質問する内容をバカにすることは決してありませんでした。

私は彼に「神さまは唯一の御方であることを信じているか」と聞かれ、「ええ」と答えました。そして、また、「ムハンマドは神の使徒であることを信じているか」と聞かれ、「ええ」と答えました。
すると、なんと、私はすでにムスリムであると言うではないですか!私はクリスチャンであることを主張し、イスラームのことは単に理解したいだけなのだ、と言い張りました。
(と同時に、内面ではこんな思いが駆け巡りました。自分がムスリムになんて、なれるわけがない!私はアメリカ人で白人なんだから!夫になんて言われると思う?もし私がムスリムだったら、夫と離婚しなきゃならないじゃない!家族を失ってしまうじゃないの!)

私たちは話し続けました。そして、彼は、こう言いました。
「知識を得、精神性を理解するということは、はしごをのぼるようなものです。はしごをのぼるとき、数段またいで一気にのぼろうとすれば、落下する危険があります。シャハーダ(入信告白)は、はしごの最初の一段にすぎないのです」、と。
私たちは、まだしばらく話す必要がありました。

そして、その日の午後、1977年5月21日アスルの時刻に、私はシャハーダ(入信告白)をしました。
それでも、私はまだイスラームの教えについて納得の行かないことが幾つかあり、自分の気質から、完全に真実だと認めることができるまでは、これらのことについてまだ責任を負う気がないことを表明しました。
私は、「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」ことを証言しましたが、「それでも、決して髪の毛を覆ったりなんかしないし、夫が他の妻を娶ろうものなら、去勢してやる!」と言ったのです。
同伴していた男性の間から「はぁ・・・」というため息が洩れるのが聞こえましたが、アブドゥ・ル=アジーズは彼らを制しました。
あとで聞いたところによると、アブドゥ・ル=アジーズは、そのとき、「彼女の言ったこと(スカーフと一夫多妻のこと)については、彼女と決して議論しないように。いつか、必ず正しい理解にたどり着く日が来るだろうから。」と彼らに話していたそうです。

実際、シャハーダは、神さまへ近づくための、精神的な知識への第一歩となりました。
しかし、はしごの一段一段をのぼっていくのに、その後、非常に長い時間がかかりました。アブドゥ・ル=アジーズは、その後も私のもとを訪れ、私の質問に答えてくれました。アッラーが彼の忍耐強さと寛容深さに報いてくださいますように・・・。
彼は私が質問することをたしなめたり、バカにしたりすることは決してありませんでした。一つ一つの質問を尊厳をもって受け止めてくれただけでなく、「愚かな質問とは、尋ねられなかった質問だけです」とさえ話していました。
ううん・・・、これは、まさに、私の祖母がかつて言っていた言葉です。

彼はこう説明していました。「アッラーは私達に、知識を求めるように、とおっしゃいました。そして、疑問を抱くことこそが、その知識に至る道なのです。」
彼が何かを説明するとき、それはまるで、バラの花びらが一枚一枚開き、咲いてゆくさまを見るようなものでした。花が満開になり、アッラーの栄光が満ちあふれるまで・・・。
私がイスラームについて、どうしても納得できないことがあるとき、その理由を彼に告げると、彼はいつもこう言ったものでした。
「あなたの視点から、あなたの言ったことは正しい。」
そして、彼は、その事柄をもっと別の角度から深く掘り下げてながめる術を教え、十分な理解へと導いてくれることが常でした。

アルハムドリッラー・・・。 その後、何年にも渡って、私はたくさんの先生に出会いました。お一人お一人の先生が特別で異なる存在であり、お一人お一人を通して私は成長し、イスラームをもっともっと愛するようになりました。
知識を分け与えてくださった先生方に心から感謝しています。
知識が増すにつれ、私の身に起こっていた変化はますます顕著になってゆきました。

まず、シャハーダした最初の年に、私はヒジャーブを被るようになっていました。
いつ被り始めたのか、よく覚えていません・・・。知識と理解が増すにつれて、自然にそうなったのです。
また、そのうち、私は一夫多妻までも認めるようになっていました。アッラーが許されていることならば、そこには何か良いことが含まれているに違いないと思ったからです。

私が初めてイスラームを学び始めたとき、自分の私生活に必要なものや欲しいものをイスラームの中に見出すことになろうとは、予想もしていませんでした。ましてや、イスラームが私の人生を変えることになろうとは。
そして、私がイスラームゆえに平安と愛と喜びに包まれた人生を送ることになろうとは・・・。
どんな人間にも、私にそんな変化が訪れることを説得することなどできなかったでしょう。

この聖典(クルアーン)は、唯一なる神さま、宇宙の創造主の語られた言葉です。
アッラーが世界を美しく体系づけられたさまを描写したものです。
この驚くべきクルアーンの中に、すべての答えはあります。
クルアーンは、存在するあらゆる物事に言及し、成功への確かな道すじを示してくれます。クルアーンには、赦しの地図が描かれています。
クルアーンは、人生のマニュアルそのものです。
アッラーこそが愛し給う御方、アッラーこそが平安の源である御方、アッラーこそが護られる御方、アッラーこそが赦される御方、アッラーこそが与え給う御方、アッラーこそが維持し給う御方、アッラーこそが慈悲深き御方、アッラーこそが全てのことに責任を持たれる御方、アッラーこそが広げられる御方なのです。

「第二章 イスラームは私の人生をどのように変えたか」へ続く

 

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イスラームは私の人生をどのように変えたか ②

2010年03月29日 | ムスリムになるって?(入信体験記)

第二章 イスラームは私の人生をどのように変えたか

「私たちは光をどれほど愛することでしょう・・・。かつて暗やみに住んでいたならば。」
私が初めてイスラームに入信したとき、それがどれほど私の人生に影響を及ぼすことになるか、思いも寄りませんでした。イスラームは、私自身の人生に影響を及ぼしただけでなく、私を取り巻く環境そのものもすべて変えてしまいました。

家族生活
私たち夫婦は、互いをとても深く愛し合っていました。この愛情は、今でも互いの心の中に存在しています。それでも、私がイスラームを学び始めた頃、私たちは問題を抱えるようになりました。
夫は私が変わっていくのを見、何が起っているのか理解できずにいました。私自身も理解できずにいました、というより、自分が変わって行っていることにさえ気づいていませんでした。 夫には、私がこのように変わっていくのは他の男がいるからに違いない、としか考えられなかったようです。自分で気づいていない以上、私は、夫に自分のことを理解させる術をもち合わせていませんでした。

のちに自分がムスリムであると気づいた時も、それは状況を改善する助けにはなりませんでした。夫には、女性が宗教という人生の根本的なものを変えてしまう理由として、他の男性の存在しか考えられなかったのです。
彼は他に男性が存在する証拠を見つけられませんでした。しかし、この男性は存在しなければなりませんでした。
結局、私たちの関係は、非常に見苦しい経過をたどって離婚に終わりました。離婚裁判では、異端の宗教(イスラーム)が子供たちの成長に悪影響を及ぼすとして、私から親権を取り上げる判決が下りました。

離婚裁判中、一度、私に選択の機会が与えられたことがありました。
イスラームを放棄し子供を取るか、子供を放棄しイスラームを取るか。
私は打ちのめされました。私にとって、これはいずれも不可能な選択肢だったからです。
もし私がイスラームを放棄すれば、私は子どもたちに欺(あざむ)くことを教えることになる・・・。私は、心の中にあるものを否定することができませんでした。私にはアッラーを否定することはできませんでした。その時だけではなく、永遠に・・・。

私は、以前まるで祈ったことがなかったかのように必死に祈りました。
30分の選択猶予時間が過ぎたとき、私は悟りました。
私の子どもたちにとって、アッラーの御手の中より安全な場所はどこにもない、ということを。
もし今私がアッラーを否定すれば、将来、私の子供たちに、アッラーと共に生きることの素晴らしさを伝える術を失ってしまう。
私は裁判で、子供たちをアッラーの御手に委ねるという意思表明をしました。これは、子供たちを拒絶することではないのだ、と。

裁判所から退出する時、子供たちのいない人生がどれほど困難なものになるか、ということを私は知っていました。
心の中で、いかに自分は正しいことをしたのだと分かっていても、心は粉々に打ち砕かれていました。
私はアーヤト・ル=クルシーに慰めを見出しました。
また、アッラーのご性質(美名)を一つ一つ味わうようになり、いずれのお名前にも美しさを発見しました。

私の直面した問題は、離婚と親権の喪失だけではありませんでした。
私の他の家族も、私の選択を快くは思っていませんでした。
彼らのほとんどが、私とあらゆる関係を持つことを拒絶しました。

母は、私が一時的にこうなっているだけだと思い、そのうちこの状態から抜け出すだろうと思いました。
「精神保健の専門家」である妹は、単に私の気が触れてしまったのだと思い、精神病院に入院させるべきだと主張しました。
父は、私が地獄の奥底に落ちる前に、いっそのこと私のことを殺してしまったほうがいい、と思っていました。
あっと言う間に、私は、夫も家族も失ってしまったのです。
次には、一体何が待ち受けているというのでしょうか?

友人関係
私がムスリムになった最初の一年のうちに、ほとんどの友人が私のもとを去ってゆきました。
一緒にいても、面白くなかったからです。パーティにも飲みにも行かない、恋人探しにも興味がない。
私のすることといえば、馬鹿げた本(クルアーン)を読んで、イスラームの話をすることばかり。なんて退屈なんでしょう!
イスラームがなぜこんなにも美しいのか、当時の私にはまだ、友人たちの理解を助けられるほどの知識がありませんでした。

仕事
次は仕事でした。専門分野でよい成績を修めた私は、高給取りのトレンドセッター(流行を生み出す人のこと)として位置づけられていました。
しかし、ヒジャーブを着け始めたその日が、その仕事の終わりを意味しました。
私は、家族を失い、友人を失い、そして仕事を失ったのです。

こうしたすべての事態の中で、最初の光は、私の祖母でした。
なんと彼女は、私の選択を認めてくれただけでなく、ムスリムになったのです。
何という驚きでしょう!私はいつも、彼女のことを知恵に富んだ女性だと思っていました。でも、ムスリムになるとは!その後、間もなく、彼女は亡くなりました。

そのことを思うと、ふと、私は彼女のことが羨ましくなります。
彼女がシャハーダを唱えた日、彼女のすべての過ちは取り除かれ、善い行いはそのまま書き留められました。彼女はイスラームを受け入れたあと、すぐに亡くなったので、彼女の「本」は、善行のほうにはるかに秤が傾いているに違いありません。
そのことを思うと、私は喜びでいっぱいになります。

知識が深まるにつれ、人々からの質問に対して、より的を得た回答ができるようになり、多くのことが変わっていきました。
でもそれは、私の人となりの中に現れた変化で、それが徐々に、周囲の人々に対して大きな説得力を発揮するようになりました。

数年後、公でイスラームの話をしたとき、母から電話がありました。「イスラームがどんなものかは分からないけれど、あなたがイスラームといつも共にあることを願っているわ」と彼女は言いました。
母は、イスラームが私にもたらした変化を好意的に受け止めていたのです。
それから数年後、母はまた電話をかけてきて、「ムスリムになるにはどうしたらいいの?」と尋ねました。
私は彼女に「アッラーの他に神はないことを知ることと、ムハンマドがアッラーの使徒であることを知ることです」と答えました。
すると母は「そんなことは、どんなバカでも知ってるわ。でも、具体的に何をしなくちゃならないの?」と尋ねました。
私はただ同じ答えを繰り返すだけでした。
母は「そうなの、分かったわ。でも、お継父さんにはまだ内緒にしててね。」と言いました。
母は、私と継父が数週間前に、すでに同じような会話を交わしていたことを知らなかったのです。
私の生父(私のことを殺すべきだといった父)とも、こうした会話を2ヶ月前に交わしていました。
そして、私の妹(精神保健の妹)も、彼女の知っている人たちの中で、私が一番自由で柔軟な考え方をしている人だと言いました。今まで、あの彼女の口から出た言葉の中で、最高の褒め言葉でした!

一人一人がどんな風にイスラームを受け入れたか、という説明を試みるよりも、とにかく、毎年、私の親族からイスラームを見出す人たちが続出したということを述べさせてください。
格別に嬉しかったのは、親友であるカイセル・イマーム兄が、前夫がシャハーダをしたと伝えてくれた時でした。カイセル兄が彼に理由を尋ねると、前夫はこう言ったそうです。
「前妻を16年間見続けてきて、自分の娘にも母親の持つものを持ってほしいと思ったから。」
彼は私のところにも来て「自分のこれまでの過ちを赦してほしい」と言いました。
私は、彼のことを、ずっと前にすでに赦していました。

さて、今度は私の長男ウィットニーです。私がこの文章を書いている間に、電話をしてきて、「ムスリムになりたい」と宣言しました。数週間内にISNAConventionでシャハーダをする予定だそうです。今のところ、彼はできる限りイスラームについて学んでいるところです。
アッラーはもっとも慈悲深いお方です。

何年にも渡って、私はイスラームの語り手として知られ、聴衆の多くがムスリムになることを選びました。
私の内なる平和は、アッラーからの知識と叡智への信頼とともに増し続けました。
アッラーは私の創造主であられるだけでなく、わたしのもっとも親愛なる友です。
アッラーはいつも共に居ておられ、決して私を拒絶されることがありません。
私がアッラーに向かって一歩あゆむごとに、アッラーは私に十歩あゆみよって下さいます。なんと素晴らしい知識でしょうか。
本当に、アッラーは私に試練を与え、約束されたとおりに、私が望むことができたことをはるかに上回った報奨を与えて下さいました。

数年前、私は医師に末期がんであることを伝えられました。
がんはすでに進んでおり、治療法はないとのことでした。今後、どのような経過をたどっていくのか、ということを説明しつつ、私が死に備えられるよう支援してくれました。
余命約1年とのことでした。
私は子どもたち、特に一番下の子のことが気がかりでした。誰が彼の面倒を見てくれるのか。
それでも、私は落ち込んではいません。
私たちはみな死ななければならないのです。
私の味わっている痛みは、祝福をも含んでいると確信しています。

よき友、カリーム・アル=ミサウィのことを思い出しました。
彼はまだ20代の頃、がんで亡くなりました。
彼が亡くなる直前、彼は私に「アッラーは本当に慈悲深い御方だ」と言っていました。
この男性は、信じ難いほど激しい苦痛の中にありながら、アッラーからの愛を放っていました。「アッラーは、僕がきれいな本を携えて天国に入ることを望んでおられるんだ。」
彼の死は、私にあることを教えてくれました。彼は私にアッラーの愛と慈悲を教えてくれたのです。これは、まだ誰も論じたことのないものです。
アッラーの愛!
アッラーの祝福に気づくのに長くはかかりませんでした。

私を愛する友人が、どこからともなく現れてきました。
アッラーは、友と抱擁しあうという贈り物を与えて下さいました。
さらに私は、皆と真実のイスラームについて分かち合うことが、私にとってどんなに大切なことであるか、ということを学びました。
ムスリムか否かを問わず、人々が私に同意してくれるか、私のことを好いてくれるか、といったことは問題ではありませんでした。
私が同意を必要としたのも、愛を必要としたのも、ただアッラーお一人からでした。
それでも、特にこれといった理由もなく、私のことを愛してくれる人たちがたくさんいました。
私は、「もしアッラーがあなたを愛して下さったら、アッラーは、人々があなたを愛するようにしてくださるでしょう」という文を読んだことを思い出し、喜びました。
私はどんな愛にも値する存在ではありません。
ということは、人々からの愛はアッラーからの贈り物に違いありません。
アッラーフアクバル!(アッラーは偉大なリ)

私の人生がどのように変わったかということを、完全に説明し尽くすことはできません。
アルハムドリッラー。(すべての賞賛はアッラーに。)
私は自分がムスリムであるということをとても嬉しく思います。
イスラームは私の人生そのものです。
イスラームは私の心臓の鼓動です。
イスラームは私の血管を流れる血液です。
イスラームは私の強さです。
なんと素晴らしく、美しいことでしょう。
イスラームがなければ私は無に等しく、アッラーはその高貴な御顔を私から背けられ、私は生きることができなかったでしょう。

≪アッラーよ、私の心に光を、私の目に光を、私の耳(感覚)に光を、私の右に光を、私の左に光を、私の上に光を、私の下に光を、私の前に光を、私の後ろに光を、私に光を与えて下さい。≫(ハディース アル=ブハーリー)

≪アッラーよ、私のすべての行為とあなたが私よりよくご存知のことにおいて、私の罪と無知と過ぎた行いをお赦しください。アッラーよ、私が意図して行った、意図せず行った、無知により行った私の過ちを赦して下さい。これらのすべての罪は、私のなした行為であることを告白します。アッラーよ、私が過去と未来において、表立って、あるいは、隠れて犯した罪を赦して下さい。あなたこそ、物事を早め、また遅らせる御方、あなたこそ全能者であらせられます。≫(ハディース アル=ブハーリー)

アーミナ・アッスィルミさん(65歳)は、は病を抱えておられましたが、国内外で講演会を精力的に行っていらっしゃいました。彼女の上にアッラーのご慈悲がありますように。

引用元の記事:日本語訳:日本ムスリム協会

1)http://www.whyislam.org/spiritual-journeys/aminah-assilmi/

 

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シリアから日本へ荷物を送る

2010年03月27日 | アラビア語留学情報


質問① シリアから日本へ、書籍やお土産などの荷物を送る際には、どういう方法がありますか?

回答:シリアから日本へ送る際には、送る物の重さによって、値段や方法が変わってきます。



方法①郵便局から送る
2キロ以内の軽い物:1キロまで 525リラ
               (それ以降2キロまでは、100グラムにつき、100リラプラス)
2キロを超え、30キロ以内の物:1キロにつき 1110リラ(例:20キロ=8045リラ 30キロ=11695リラ)

30キロを超える物を送りたい場合も、一つの荷物につき30キロ以内という制限があるので、30キロの箱を何箱かにして送ることになります。
送るときに使うダンボール箱は、郵便局内でも売っていますが、近所の雑貨屋さんなどでもらったダンボール箱でも十分です。ただ、外側に字や模様が書いてある箱は、郵便局では一切受け付けないので、ダンボールの裏表を反対にして、内側の何も書いていない方を外側にして組み立て直して使います。



方法②カーゴ(貨物)で送る

重いものを送るときには、郵便局から送るよりもかなり割安になります。
詳しい価格は、各航空会社によりますので、直接、航空会社のオフィスへ行き、問い合わせてみましょう。



ダマスカス市内でのカーゴ申し込みから、日本での受け取り手順エティハド航空の場合

注意:私の使ったエティハド航空の場合、カーゴを利用できるのは、エティハド航空のチケットを持っている方のみになります。エジプト航空など他の航空会社では、フライトを利用せずに、荷物だけ送ることも可能です。



自分の乗るフライトの一週間ほど前に、ダマスカス市内にあるエティハド航空のオフィス(日本大使館と同じ通り沿いにあります。日本大使館からアサド橋と反対方向へ徒歩5分くらい、右手に建物があります)で、カーゴの申し込みをする。
カーゴ担当者に、だいたいの荷物の重さと、自分のフライトの日付を言うと、荷物搬送手順の説明をしてくれて、おおよその金額を出してくれる。
フライトの24時間前までに空港に荷物が届いていなければならないため、それまでに、荷物をカーゴに乗せるための書類などを、担当者が準備する必要があるため、自宅に荷物を引き取りに来るのは、遅くともフライトの前日の朝までになる。

私の場合、フライトの前日がシリアの祝日に当たるため、念のためフライトの2日前の朝に荷物を自宅まで、引き取りに来てもらうことになる。
その時点での、荷物の予想は、150キロくらい、見積もり金額は、出国のための書類作成、荷物引取り、空港への配送、シリアから日本の空港までの輸送を含めて、全部で450ドル。
この重さの荷物を郵便局から送ると、約3倍の値段になるので、カーゴはかなりお徳。
カーゴ担当者から、送る荷物に含まれる書籍名を、アラビア語でリストにしておくように言われる。

フライトの2日前にオフィスに出向き、再度手続きを確認。その日の午前中に家に荷物を取りに来てもらい、配送の方が、約30キロの段ボール箱6箱を、ビニール製の紐で編んだ、しっかりした袋に入れてくださり、日本の送り先住所を袋の上に書いて、すべての荷物を引き渡し、事前に用意しておいた荷物に含まれる書籍リストと、パスポートのコピーを、荷物を取りに来てくれた配送の方に渡す。

フライトの前日にオフィスに行き、実際の荷物の重さを聞き、かかった料金を支払う。
実際の荷物は、見積もりよりも重く、176キロで、500ドル。(リラでもOK)。
担当者の方が、とても親切で、学生割引をしてくださり、安くなった。
日本到着時の連絡先の電話番号を聞かれ、書類に記入してもらう。
領収書と、その書類の控えを一枚もらう。

フライト当日は、普通に飛行機に乗り、飛行機の中で、日本に着く直前に配布される、「携帯品・別送品申告書」というのを必ず、2枚もらって(普通は一枚しかくれないので、「別送品(Unaccompanied Baggage)があるので、2枚ください!!」と言って、2枚ゲットする )、2枚とも記入し、到着後は、入国審査の後の、税関で、2枚とも提出し、スタンプを押してもらって、一枚返してもらう。これが、すごく重要!

帰国後は、家に帰って、空港から別送品到着の連絡を待つ。

数日後、別送品到着連絡が電話で入る。
連絡を受けてから、2日以上過ぎると、保管料が余分にかかるので、すぐに翌日、空港へ引き取りに行く。
連絡をくださった方が、荷物受け取りの手続きを詳しく説明してくださり、手順や地図をファックスで送ってくださる。さすが、日本!
(荷物を自分で受け取りに行けない場合は、その時点で、「着払いにして送ってください」とお願いする事もできる。その場合は、引取りの通関手続きと送料の両方で、送り先が同じ県内であっても、150キロで5万円ほどかかるそう。)

空港と言っても、荷物が保管してあるのは、旅客の建物から少し離れた貨物地区、そこへ荷物を取りに行く。
貨物地区に着いたら、荷物を保管してくれている全日空のエリアに行き、入国後にスタンプを押してもらった、別送品申告書とパスポートのコピーとシリアでもらったカーゴの控えの書類を出して、書類に必要事項を記入すると、隣の建物、通関へ行くように言われる。

通関では、2階で、荷物の内容物を尋ねられ、別送品申告書を提出し、シリアで提出した書籍リストを見せると、中身チェックもなく、1分で輸入通関終了。

全日空の建物に戻り、保管料約1700円を支払い、自分の荷物を出してもらい、段ボール箱6箱を車に積み込み、帰宅。荷物受け取りにかかった、全所要時間約1時間弱。



この情報は、2010年3月現在のものです。シリアの郵便料金などは、よく変更になるので、実際の料金は、直接、郵便局へお問い合わせください。


 

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ヤスミーン食堂

2010年03月21日 | シリア旅行ガイド

ウマイヤドモスクの正面ドアから徒歩1分のところに、「マタアム ヤースミーン シャーム」(ヤスミーン食堂)があります。
そんな、観光客をどんどん捕まえるのに、絶好のロケーションに位置しながら、ヤスミーン食堂は、まったく観光客の入っていない不思議な食堂です。
いつも私たち留学生が行くと、がらんとした店内に、一組、客がいるか、全く誰もいないか、、、

料理がまずいのか?と言うと、観光地に珍しく、ものすごくおいしい!!
ますます不思議。

じゃあ、内装が、小汚くて観光客に嫌われているのか?と言うと、狭い入口に似合わず、内側はびっくりするくらい広々したレストランで、高級感はあまりないけど、静かで落ち着ける。

なら、値段が高くて観光客に敬遠されているのか?と言うと、観光地にしてはすごーく安くて良心的!
本当に不思議。

そんなおいしくて安くてきれいなレストランなのに、なぜ流行らないのか?
検討してみると、思い当たる原因はただひとつ!

入り口がせまくて、レストランだとわからないΣ( ̄□ ̄;)

観光地のレストランとしては、決定的な欠点!
しかも、なんと、店の前の道に出ている手書きのような小さな鉄の看板は、アラビア語のみ!!で書かれていて、欧米の観光客には、レストランだとわからない!

まったく人目につかないビルの中の入り口に、隠れるようにこっそり出ている看板(写真下)も、アラビア語が前面に・・・。

やる気がないのかな。

でも、いつも空いていて料理もおいしく、他のレストランではなかなか食べられない、シリアの家庭料理「クッバレバン」(クッバーひき肉の入った団子ーのヨーグルト煮+ライス付き)が食べられて、安い!とくれば、ぜひ日本の観光客や留学生たちにも利用してほしいものです。

メニューの中でお勧めは、やはり名物クッバレバンと、カブサ(シリアの炊き込みご飯)。
ちゃんとじゃがいもから作った、あつあつの大きなポテトフライも、冷凍ものが多くなった今では、貴重かも。
サラダも量が多くて、食べ応えがあります。

行き方は、ウマイヤドモスク正面玄関に向かって、左手の方向に少し行って、一本目を左に曲がって数件目の左手に、上の看板が出ていて、アラビア語で「マタアム ヤースミーン ッシャーム」と書いてあります。

本当に、奥まっていてわかりにくい入り口ですが、そこまで行けば、上の看板を目印にされるか、一軒一軒中を覗いて、「マタアム ヤースミーン?」とお店の人に聞いてみるしかないでしょう。

無事に辿り着けますように!

電話番号:2213219(ダマスカス市内から)

住所:the old damascus the post door in front of althahiria library

注意*ランチ専用のお店で、夜にはお茶と水タバコのみのお店になってしまうようなので、夕方前には入りましょう。

 

 
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ムスリムになりました Q&A

2010年03月17日 | ★イスラームって?(初級~)

質問
入信したばかりで、一日の礼拝5回がとても大変です。どうしたらいいですか?

回答
今日、ちょうど尊敬する先生の勉強会があったのですが、先生がこう言われていました。
ムスリムになったばかりの人は、一日5回の礼拝をするだけでも、今までまったくしていなかったところからのスタートなので、いきなり5回するのは、大変で、そのせいで、イスラームが嫌いになってしまったり、大きな負担を感じてしまうくらいなら、一日1回でも、自分のできる範囲で礼拝をして、少しずつ、5回にしていけば、いいんですよ、と。

あなたが、礼拝が好きになることがまず、大事で、私たちがなぜ礼拝するのか、ということを知ることがまず一番最初に、 大切なことです。
アッラーは、あなたのことが大好きで、大好きで、だから、あなたをムスリマにしてくださいました。
あなたのことが、大好きなアッラーは、あなたに、一日に5回アッラーと一緒にいる時間を持ってほしい、と思っていらっしゃいます。
アッラーは、一日に5回、あなたに直接会って、あなたの言葉を聴いて、あなたと一緒にいたいと、思っていらっしゃるんです。

礼拝は、アッラーと直接お会いして、お話しすること、アッラーの御手の間に立つことです。
また礼拝は、人が死後、あの世で、最後の審判の日に、アッラーの御前に立つ練習をする場です。
最後の審判の日には、誰よりも、もっとも公正で、慈悲深いアッラーの前に立って、この世でしたことを、すべて問われます。
その練習が、この世でする礼拝です。

アッラーは、本当に、どんなに悪いことをしても、殺人をしても、盗みをしても、その人が、そのことを後悔して、アッラーに許しを乞い、二度と同じことをしないと決心し、悔い改めるだけで、すべてを許してくださいます。
アッラーのご慈悲は、とてもとても深く、広く、すべての創造物に注がれています。

預言者様(彼に平安と祝福がありますように)のハディースにこんな話があります。
アッラーは、地上から天に帰った天使たちに、尋ねました。「人間たちは、私に何を祈願しているのかね?」と。
天使たちは、「彼らは、あなたの天国とあなたのお許しを祈願しています」と言います。
するとアッラーは言われました。「彼らに伝えなさい。私はすでに、彼らを許しているのだよ、と。」

私たちは、すでに、アッラーに許されています。
アッラーは本当に寛大な方です。アルハムドゥリッラー。
ですから、アッラーの寛大さに、疑いを持ってはいけません。
必ず、アッラーは、お許しくださいます。
アッラーは、ご自分の99のお名前の中に、「許すもの」という名前があります。
この名前をご自分で付けられたアッラーは、私たちを許したいのです。

また、アッラーほど、忍耐強いお方はいません。
アッラーは、人間をお創りになり、善いことと悪いことを教え、善いことをするようにと命じましたが、悪いことをする人間にも、彼が飢えないように、食事を与え、健康を与え、彼が、いつかは、アッラーに気がついて、彼のところに帰ってくれるのを、待っています。

アッラーは、完璧です。
それに比べて、私たち人間は、まったく不完全です。
どんなに崇拝行為をたくさんしても、どんなにアッラーのことを考えても、アッラーが私たちに与えてくださる愛情の、ほんの一部もお返しすることはできません。
私たち人間は、不完全なのです。

もし私たちが、すべてを持っていて、お金も食べ物も不自由なく、何かをしたいと思ったら、すぐにできる能力があり、アッラーに対する崇拝行為も、すべて完璧にできる存在だったとしたら、いつ、アッラーにお願い事をするのでしょうか?
アッラーの僕(しもべ)だ、ということを、いつ感じることができるでしょうか?

アッラーは、私たちを、完璧にはお創りになられませんでした。
なぜなら、アッラーは、私たちに、アッラーに向かって、お願い事をして、私たちが彼の僕(しもべ)だ、ということを、私たちに感じてほしいからです。
それを、私たちに、現してほしいからです。
私たちは、完璧でないからこそ、アッラーにお願いすることができ、アッラーに、懇願することができます。
ですから、私たちが、間違いを犯したり、自分にできないことがあったりすることは、まったく自然のことで、それは、まったく問題ではありません。

問題は、間違いを犯したときに、または、自分にできないことがあったときに、せっかく、アッラーに、自分がアッラーの僕(しもべ)だということを、確認するチャンスをもらっておきながら、それを生かして、アッラーにお願いしたり、許しを乞ったりしないこと、これが、大きな問題なのです。

ですから、礼拝に限らず、何でも自分にできないことがあったときは、アッラーのことを、思い出すチャンスで、それも、アッラーからの恩恵だということを思い出してください。
全てできてしまったら、私たちはアッラーを必要としなくなってしまうでしょう。
ですから、アッラーは、私たちをそういう風には創られなかったのです。

もしあなたに、イスラームにおいてできないことがたくさんあって、罪悪感を感じることがあるとしたら、それはすばらしいことです。
そういうときには、アッラーにすべてをお任せして、お願いすることが大事です。
私達ができないことがあるのは、当然で、それは、アッラーが、私達に、彼の方を向いて、彼に祈願してほしいと思われているからなんです。
「どうかできるようにしてください。」と、アッラーにお願いしてほしいから、アッラーは、私達にできないことをお与えくださるのです。
ただ、それだけです。
できないことがあることを、自分のせいだと、罪悪感に思わないでください。
アッラーは、そんなことは、百も承知です。
私たちが、すべて完璧にできるなんて、アッラーは、まったく期待していません。

アッラーがお望みなのは、できない私達に、アッラーのことを、思い出してほしいだけなんです。
それが、私たち人間の存在理由なんです。
なぜならば、私たち人間が存在する目的は、2つあり、そのひとつは、「アッラーを崇拝すること」で、二つめは、「この世界をアッラーの代わりに代理人として、治めること」です。
アッラーを崇拝するということは、私たちが、アッラーの僕(しもべ)だ、ということを知るということです。

アッラーのことを、考える時間をもっと作るといいですよ。
目を瞑って、じっくりアッラーのご慈悲、自分をお創り下さったアッラーの偉大さ、をゆっくり考えてみてください。
ファジュルの礼拝の、前か、後に、静かなところで、じっと座って、ゆっくり、私達のことを大好きでいてくださる、アッラーのことをどうか考えてみてください。
そして、アッラーに、「どうか、あなたのことを教えてください。私をあなたに近づけてください。」とお願いしてみてください。
アッラーは、きっとあなたのお願いに応えてくださるでしょう。


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