アーミナ・アッスィルミさんはアメリカ人の白人女性で、オクラホマ州南部バプテスト教会の熱心なクリスチャンかつ急進的なフェミニストでした。
大学時代、アラブ人同級生をキリスト教に改宗させたい一心でクルアーン(コーラン)やサヒーフ・ムスリム、その他イスラームに関する本を15冊読み、結果として、ご自身がイスラームに改宗するに至りました。
下記は、彼女による入信記です。
第一章 決心
私が初めてムスリムに出会ったのは、大学でレクリエーション学の学位を取得しようとしているときでした。
その年は、ちょうどコンピュータで事前に履修登録ができるようになった最初の年で、私は事前に次学期の科目登録を済ませ、家族の仕事の関係でオクラホマ州へ出掛けました。
ところが、思ったより仕事が長引いたので、2週間遅れで大学に戻りました。
私は当初、出遅れた分を取り戻すのに、さほど不安を感じていませんでした。
専門科目ではクラスで常にトップの成績を修めていたし、学生でありながら、専門家を交えたコンテストで賞を獲得したこともあったからです。
多くの友人に囲まれて、大学では成績優秀、さらに自分のビジネスを運営・・・となれば、皆さんは、当時の私が文句なしの経歴を持っていたように思われるかも知れません。
しかし、実のところ、私は極端な引っ込み思案でもありました。当時の成績証明書にも「非常に無口である」と書かれています。人と仲良くなるのにとても時間がかかりました。相手がすでに知っている人か、必要を要しない限り、自分から人に話しかけるということも稀でした。
当時の私の履修科目は、どれも管理学や都市計画、児童対象のプログラム作成に関するものばかりで、私にとって、子供たちだけが心から寛げる話し相手でした。
本題に戻りますが、プリントアウトした事前登録科目を見て、私は目を丸くしました。
なんと私は、演劇科目にも登録されていたのです。
つまり、実際の観衆の前で、何かを演じることが要求される科目です。私は萎縮してしまいました。クラスで質問すらしたことのない私が、どうやって人前で舞台に上がることができるというのでしょう?
私の夫は、いつものように冷静で賢明な判断をしてくれました。そして、「先生に事情を説明して、背景画を描いたり、衣装の縫製をする係に回してもらったら?」と、アドバイスしてくれました。
先生が、私にできる参加の仕方を考慮することに同意して下さったので、翌週の火曜日、私はクラスに出席しました。
さて、教室に一歩入ったところで、私は再びショックを受けてしまいました。
教室は「アラブ人」と「ラクダ乗り」でいっぱいだったからです!といっても、そうした名で呼ばれる彼らのことを実際に目にしたことはなく、単に話を聞いたことがあっただけですが・・・。
こんな薄汚い未開人だらけの教室に座れるわけないじゃない?!こんなところにいたら、何か悪い病気をもらってしまいそう!彼らが汚いってことは、みんなよく知っているし、まして信用なんてできっこない!
私はそそくさと教室のドアを閉めて、帰宅してしまいました。
(その頃の私は、ワイングラスを片手に、ぴったりした革ズボンにホルターネックといういでたちでした。にもかかわらず、彼らのことを「悪い奴ら」だと思っていたのです。)
私は夫に、クラスにいたアラブ人の話をし、あんなところにまた戻るつもりはないということを打ち明けましたが、夫はいつものように落ち着いて、こう話してくれました。
「君はいつも、こう言っていたじゃないか。何事にも理由がある。神様は理由なしには何事もなされない御方だ、って。」
私は、このクラスについて、最終決断を下す前にもう少し時間をかけて考えてみる必要があると思いました。
夫は、私が奨学金を受けていること、今後も交付を受けるには今の成績を維持しなければならないことを指摘しました。実際、この科目を落とすことは、奨学金を断念することを意味していました。
その日から2日間、私は導きを求めて祈りました。そして木曜日、「神様は、あのかわいそうで無知な未開人を地獄の炎から守るために、私をクラスに送られたに違いない」と確信して、クラスに戻りました。
私は事あるごとに、イエスを個人的な救世主として受け入れなければ、地獄で永遠にどんな風に焼かれることになるか・・・といったことを彼らに話して回りました。
彼らはとても紳士的に対応してくれましたが、改宗はしませんでした。
そこで私は、イエスさまがどれほど彼らを愛しておられるか、そして、彼らをその罪から救うために十字架にかかって死んでくださったことを説明しました。
とにかく、イエスを彼らの心に受け入れさえすればいいのだ、と。それでも、彼らは紳士的に対応するものの、改宗はしてくれませんでした。
それで、私は、彼らの聖典を読み、イスラームが偽物の宗教であること、ムハンマドが偽物の神様であることを証明してみせようと決心しました。
クラスメイトの一人が、イスラームに関する本とクルアーンをくれたので、早速、それを読み調べ始めました。
必要な証拠はすぐ見つかるだろうと確信していたのですが、クルアーンを完読し、もう一冊の本も読み終え・・・、他にも15冊の本とサヒーフ・ムスリムを読み、その後、再びクルアーンを読み始めました。
「きっと、彼らをキリスト教に改宗させてみせる!」そう決心していた私は、その後1年半に渡って、調べものに明け暮れていました。
そうこうしているうちに、私は夫との間に幾つか問題を抱え始めました。私に、少しずつ変化が現れていたのです。ほんの少しずつでしたが、夫の気分を害するには十分でした。
私たちは、毎週、金・土曜日には、よく一緒に飲みに出掛けたり、パーティに出席していました。でも、もはや、そうした場に出掛けたいとは思わなくなっていたのです。
私はより物静かになり、夫は私との間に距離を感じるようになりました。
夫は、私が浮気していると確信し、私を家から追い出しました。私は子どもたちと一緒にアパートを借り、その後も、ムスリムたちをキリスト教に改宗させるために必死に努力をしました。
そんなある日、誰かが私のアパートのドアをノックする音が聞こえました。
ドアを開けると、長くて白いナイトガウンを着、紅白のチェックのテーブルクロスを被った男性が立っていました。他にも、寝巻きのようなものを着た男性が3人立っていました。(彼らの伝統的な民族衣装を目にしたのは、その時が初めてだったのです。)
寝巻きを着て私の家の前に立っている男たちには、本当に腹が立ちました。
私のことを一体どんな女だと思ってるの???あなた達には誇りや尊厳というものがないの???
私の受けたショックを想像してみてください。テーブルクロスを被った男性に「あなたがムスリムになりたいということを知っています」と言われたときのことを!
すぐに私は、ムスリムになりたいなどと思ってはいないことを伝えました。私はクリスチャンだったのですから・・・。
でも、もし少し彼に時間があるなら、幾つか質問したいこともありました。
彼の名前はアブドゥ・ル=アジーズアル=シェイフといい、私のために時間を割いてくれました。彼は私の抱いている疑問に一つ一つ答えて、忍耐強く説明してくれました。
私が質問する内容をバカにすることは決してありませんでした。
私は彼に「神さまは唯一の御方であることを信じているか」と聞かれ、「ええ」と答えました。そして、また、「ムハンマドは神の使徒であることを信じているか」と聞かれ、「ええ」と答えました。
すると、なんと、私はすでにムスリムであると言うではないですか!私はクリスチャンであることを主張し、イスラームのことは単に理解したいだけなのだ、と言い張りました。
(と同時に、内面ではこんな思いが駆け巡りました。自分がムスリムになんて、なれるわけがない!私はアメリカ人で白人なんだから!夫になんて言われると思う?もし私がムスリムだったら、夫と離婚しなきゃならないじゃない!家族を失ってしまうじゃないの!)
私たちは話し続けました。そして、彼は、こう言いました。
「知識を得、精神性を理解するということは、はしごをのぼるようなものです。はしごをのぼるとき、数段またいで一気にのぼろうとすれば、落下する危険があります。シャハーダ(入信告白)は、はしごの最初の一段にすぎないのです」、と。
私たちは、まだしばらく話す必要がありました。
そして、その日の午後、1977年5月21日アスルの時刻に、私はシャハーダ(入信告白)をしました。
それでも、私はまだイスラームの教えについて納得の行かないことが幾つかあり、自分の気質から、完全に真実だと認めることができるまでは、これらのことについてまだ責任を負う気がないことを表明しました。
私は、「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」ことを証言しましたが、「それでも、決して髪の毛を覆ったりなんかしないし、夫が他の妻を娶ろうものなら、去勢してやる!」と言ったのです。
同伴していた男性の間から「はぁ・・・」というため息が洩れるのが聞こえましたが、アブドゥ・ル=アジーズは彼らを制しました。
あとで聞いたところによると、アブドゥ・ル=アジーズは、そのとき、「彼女の言ったこと(スカーフと一夫多妻のこと)については、彼女と決して議論しないように。いつか、必ず正しい理解にたどり着く日が来るだろうから。」と彼らに話していたそうです。
実際、シャハーダは、神さまへ近づくための、精神的な知識への第一歩となりました。
しかし、はしごの一段一段をのぼっていくのに、その後、非常に長い時間がかかりました。アブドゥ・ル=アジーズは、その後も私のもとを訪れ、私の質問に答えてくれました。アッラーが彼の忍耐強さと寛容深さに報いてくださいますように・・・。
彼は私が質問することをたしなめたり、バカにしたりすることは決してありませんでした。一つ一つの質問を尊厳をもって受け止めてくれただけでなく、「愚かな質問とは、尋ねられなかった質問だけです」とさえ話していました。
ううん・・・、これは、まさに、私の祖母がかつて言っていた言葉です。
彼はこう説明していました。「アッラーは私達に、知識を求めるように、とおっしゃいました。そして、疑問を抱くことこそが、その知識に至る道なのです。」
彼が何かを説明するとき、それはまるで、バラの花びらが一枚一枚開き、咲いてゆくさまを見るようなものでした。花が満開になり、アッラーの栄光が満ちあふれるまで・・・。
私がイスラームについて、どうしても納得できないことがあるとき、その理由を彼に告げると、彼はいつもこう言ったものでした。
「あなたの視点から、あなたの言ったことは正しい。」
そして、彼は、その事柄をもっと別の角度から深く掘り下げてながめる術を教え、十分な理解へと導いてくれることが常でした。
アルハムドリッラー・・・。 その後、何年にも渡って、私はたくさんの先生に出会いました。お一人お一人の先生が特別で異なる存在であり、お一人お一人を通して私は成長し、イスラームをもっともっと愛するようになりました。
知識を分け与えてくださった先生方に心から感謝しています。
知識が増すにつれ、私の身に起こっていた変化はますます顕著になってゆきました。
まず、シャハーダした最初の年に、私はヒジャーブを被るようになっていました。
いつ被り始めたのか、よく覚えていません・・・。知識と理解が増すにつれて、自然にそうなったのです。
また、そのうち、私は一夫多妻までも認めるようになっていました。アッラーが許されていることならば、そこには何か良いことが含まれているに違いないと思ったからです。
私が初めてイスラームを学び始めたとき、自分の私生活に必要なものや欲しいものをイスラームの中に見出すことになろうとは、予想もしていませんでした。ましてや、イスラームが私の人生を変えることになろうとは。
そして、私がイスラームゆえに平安と愛と喜びに包まれた人生を送ることになろうとは・・・。
どんな人間にも、私にそんな変化が訪れることを説得することなどできなかったでしょう。
この聖典(クルアーン)は、唯一なる神さま、宇宙の創造主の語られた言葉です。
アッラーが世界を美しく体系づけられたさまを描写したものです。
この驚くべきクルアーンの中に、すべての答えはあります。
クルアーンは、存在するあらゆる物事に言及し、成功への確かな道すじを示してくれます。クルアーンには、赦しの地図が描かれています。
クルアーンは、人生のマニュアルそのものです。
アッラーこそが愛し給う御方、アッラーこそが平安の源である御方、アッラーこそが護られる御方、アッラーこそが赦される御方、アッラーこそが与え給う御方、アッラーこそが維持し給う御方、アッラーこそが慈悲深き御方、アッラーこそが全てのことに責任を持たれる御方、アッラーこそが広げられる御方なのです。
「第二章 イスラームは私の人生をどのように変えたか」へ続く
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