改装されたばかりでとてもきれい
新しく見えるけど、実は古いのです
建物の中には、預言者ザカリーヤのお墓があります
ザカリーヤって誰だったっけ?という方、
クルアーンの19章 マリヤム章の最初をどうぞ。
http://www.isuramu.net/kuruan/19.html
預言者ザカリーヤと全ての預言者たちに平安がありますように。
この 山のように盛られた シリアさくらんぼ
食べだしたら、
甘いっ!うまいっ!
止まらない・・・
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しかも1キロ 100円くらい
たくさん食べてもだいじょうぶ
アラビア語でさくらんぼは、「カラズ」 と言います
「これちょうだい→」と指差せば、買えますね
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ハーリド イブン アル=ワリード(Khalid Ibn AlWalid)(アッラーのご満悦がありますように)は言いました。「ある田舎者がアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)にもとにやって来て言いました。「アッラーの使徒よ、現世と来世を豊かにしてくれる事柄についてお尋ねするためにやって参りました。」アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は、「何でも思いつくことを聞きなさい。」と言いました。
1「私は人の中で、一番の知識人になりたいです。」
「アッラーを畏れなさい。そうすれば人の中で一番の知識人になれるでしょう。」
2「私は人の中で、一番のお金持ちになりたいです。」
「何にでも納得するように。そうすれば、人の中で、一番のお金持ちになれるでしょう。」
3「私は人の中で、一番公正な人になりたいです。」
「人々に、自分に好むものを勧めなさい。そうすれば、一番公正な人になれるでしょう。」
4「私は人の中で、一番善い人になりたいです。」
「人々の役に立てるようにしなさい。そうすれば、一番善い人になれるでしょう。」
5「私は人の中で、一番アッラーの特別な人になりたいです。」
「ズィクル(念唱)を多くしなさい。そうすれば、一番アッラーの特別な人になれるでしょう。」
6「私は、自分の信仰が完結することを好みます。」
「性格を良くしなさい。そうすれば、あなたの信仰は完結するでしょう。」
7「私は、善行者たちの内に入ることを望みます。」
「アッラーをまじまじと見ているように、かれを拝みなさい。もし、あなたがかれを見ることができないとしても、かれはあなたをご覧になっています。そうすれば、あなたは善行者たちの内に入れるでしょう。」
8「私は、よく従う人になりたいです。」
「アッラーの定めた義務を遂行しなさい。そうすれば、従う人になれるでしょう。」
9「私は、罪から清められた状態でアッラーにお会いすることを望みます。」
「大汚から清まるようにしなさい。そうすれば、罪から清められた状態でアッラーにお会いすることができるでしょう。」
10「私は、最後の審判の日、光に包まれて召集されることを望みます。」
「誰にも危害を加えてはいけない。そうすれば、最後の審判の日、光に包まれて召集されるでしょう。」
11「私は、自分の罪が軽くなることを望みます。」
「イスティグファール(罪の赦しを請うこと)を多くしなさい。そうすれば、あなたの罪は軽くなるでしょう。」
12「私は、人々のなかで一番寛大な人になりたいです。」
「誰をも疑ってはいけない。そうすれば、人々の中で一番寛大な人になれるでしょう。」
13「私は、人々の中で一番強い人になりたいです。」
「アッラーにお縋りしなさい。そうすれば、人々の中で一番強い人になれるでしょう。」
14「私は、アッラーが糧を大きくしてくれることを望みます。」
「タハーラ(清潔)を保ちなさい。そうすれば、アッラーが糧を大きくしてくれるでしょう。」
15「私は、アッラーとその使徒が愛する人々の中にいることを望みます。」
「アッラーとその使徒が愛するものを愛すようにしなさい。そうすれば、アッラーとその使徒が愛する人々の中にいることができるでしょう。」
16「私は、最後の審判の日に、アッラーのお怒りから安全でいたいです。」
「どんなアッラーの創造物にも怒らないこと。そうすれば、最後の審判の日に、アッラーのお怒りから安全でいることができるでしょう。」
17「私の祈願が叶うことを望みます。」
「ハラーム(禁じられたもの)を食することを避けなさい。そうすれば、あなたの祈願は叶うでしょう。」
18「私は、最後の審判の日に、アッラーが私を覆ってくれることを望みます。」
「あなたの兄弟たちの恥事を覆ってあげなさい。そうすれば、最後の審判の日に、アッラーがあなたを覆ってくれるでしょう。」
19「私を罪から守ってくれるものとは何でしょうか?」
「涙と、追従、病です。」
20「どの善行が、アッラーの許で偉大ですか?」
「よい性格、謙譲、そして災難の際の忍耐です。」
21「どの罪業が、アッラーの許で偉大ですか?」
「悪い性格、酷い吝嗇、そして禁じることです。」
22「現世と来世において、主のお怒りを鎮めるものとは何ですか?」
「隠された施しと、親類を訪問することです。」
23「最後の審判の日に、地獄の火を消すものとは何ですか?」
「現世の災難と困難にたいする忍耐です。」
(イマーム アハマド イブン アル=ハンバルの、正しい伝承による。)
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(「証言」②の続き)
これが、人間とほかの創造物の違いです。
(ムスリム、人間は)イスラームの家族を築くために結婚し、子を設ける。
アッラーを拝めるための力を養うために、食事をする。
これがムスリムである人間の生活です。アッラーに仕えるために、生きる。
アッラーを拝めることは、信者に結婚や食事、利潤を求めることを禁じたりはしません。
しかし、それらで得るものは、アッラー崇拝、アッラーの満足のためであるべきです。
これらが、人間とほかの創造物の間にある違いです。
アッラーに仕えない人間について、クルアーンは次のように言っています:
「彼らは動物のようである。」続けてこう言っています:「いや、その上、迷っている。」
家畜の方が上であるということです。
なぜでしょうか?
動物たちは、「信託」を背負わず、人間が背負っているからです。
ですから、信託を受けた人間が、努力し成功すれば、天使を凌ぐ、一番素晴らしい創造物になれるわけです。
しかし、信託を受けず、大切にしようとしなかった場合、創造物の中で一番最低なものになります。
本物のムスリムは、何かを行うとき、「この行動は、アッラーのために行おう」と考えます。
アッラーの満足のためです。
イスラームは、私が子持ちになることを禁じたりしません。
子供を設けることは、ほかの生き物にも共通することで、私たちにもかれらにも、子供が好きだという天性があります。
しかしムスリムはこう言います:「私はこの子達を、アッラーにお仕え出来るようになるために教育する。」
これが彼の人生の目標です。
「アッラーのために」です。
人は勉強しますが、何のためでしょうか?
博学だとか、ガリ勉だとか、頑張り屋と人から言われるためでしょうか。
いいえ、ムスリムは決してそのような目的のために勉強しません。
ムスリムは、アッラーが自分のことを満足してくれるように、と考えます。
アッラーは、私を、この世界で活動するために創造してくれたのだと。
だから、私は、ラーイラーハイッラッラーと証言し、私の行動全てが、アッラーのご命令に叶ったものになったと言います。
アッラーが「してはいけない」と命じたことをしてしまうことは、私には不可能なことです。
アッラーが「しなさい」と命じたことを実行する。
これこそ、ラーイラーハイッラッラーの(意味の)実現だと言えます。
預言者(平安と祝福がありますように)がある日、ウマル(アッラーのご満悦がありますように)に、「あなたの信仰はどうですか?」とたずねました。
ウマルは、「アッラーとその使徒は、自分のお金と子息よりも愛している存在です。でも、自分自身以上ではありません。」と答えました。
ウマルは、アッラーとその使徒にうそをつくような人ではありません。
預言者(平安と祝福がありますように)はウマルにこう言いました。
「ウマルよ、アッラーとその使徒を、自分より愛するようになるまで、あなたは真の信者になったとは言えませんよ。」
ウマルはたくさん考えました。
そして、「今です、預言者(平安と祝福がありますように)よ。アッラーとその使徒を、自分より愛しています。」
自分自身よりも、アッラーとその使徒を愛するとはどういうことでしょうか。
アッラーとその使徒が、何かを私に命じているが、自分が違うことを求めているとき、自分の好むことを捨てて、アッラーとその使徒のご命令に従うことを言います。
これが、現在、イスラーム世界に住むムスリムたちの問題であります。
現代の(多くの)ムスリムは、こうではありません。
多くのムスリムがこの話について深く考えません。
彼らは礼拝や断食を行っていますが、間違いを犯してもいます。
もしかしたらうそをつくかもしれません。
もしかしたら他人を嫌っているかも知れません。
イスラームが、他人を愛するように諭しているにもかかわらずです。
もしかしたら時間を無駄にしているかもしれません。
イスラームは時間の無駄使いを良しとせず、活動的、生産的であることを好みます。
そして最後の審判の日、ひとりひとりが定められたものを受け取ります。
アッラーのご満悦のために人生を使った者は、来世で殉教者や預言者たちと一緒になり、天国の最上階に入ることになるでしょう。
信仰の度合いによって、受け取るものが違ってきます。
「私はムハンマドがアッラーの使徒であることを証言します。」という、シャハーダ(証言)を構成する、後部分について。
多くのムスリムが、前者よりもこの後部分に未努力だと言えます。
「私はムハンマドがアッラーの使徒であることを証言します。」は、「預言者(平安と祝福がありますように)こそ、私が追従し、模範とする最初のお方です。」という意味を持ちます。
ただ、「彼は、アッラーに遣わされた使徒、預言者である。」という意味だけでは決してありません。
それでは足りないのです。
「彼は、私の先生である。」と言うべきです。
彼の人生を勉強し、見習わないといけません。彼が忍耐したように、私も忍耐し、彼が拝んだように、私も拝みます。
もし、預言者(平安と祝福がありますように)が行ったことと同じことを行えるようになれば、この「証言」が実現されたと言えます。
預言者(平安と祝福がありますように)の人生全ては、アッラーのご満足の中にありました。
そして彼は、忍耐、忍耐、忍耐しました。
もし可能であれば、次回、彼(平安と祝福がありますように)の人生についてお話をしていきましょう。
これはとても重要なことです。
私たちの人生の中に、預言者(平安と祝福がありますように)の生きたような人生はないのです。
アッラーは、アル=アハザーブ章(部族連合章)でこう仰っています。
「じつに、アッラーの使徒は、あなたたちにとってよい模範であった。」(Laqad Kana Lakum Fi Rasuli llahi Uswatun hasanah)
アラビア語で、(La)という句は、文章の意味を強調するために使われます。そして(Qad)は、過去形動詞の後に来ると、文章の意味を強調します。
そして、(Kana、動詞)(英語のWASに相当)過去動詞文も、文章の強調に役立ちます。
ですから、このアーヤ(節)には、三つの強調に役立つ手段が含まれています。(Fi Rasulillah)という、述語を先に持ってくる方法も強調に役立ちます。
さて、いくつの強調句が使われているか分かりますか?
(La)(Qad)(Kana+名詞文)(述語と主語の逆転)、全部で四つの強調句です。
残念ながら、ムスリムたちは(このアーヤ(節)を)実行していません。
彼らの人生は、預言者(平安と祝福がありますように)の人生と比べてどうでしょうか。
預言者(平安と祝福がありますように)の人生は、敵を友人に変えるようなものでした。
十三年間辛抱しつくした彼の敵たちについてなど……インシャーアッラー、次回から、彼(平安と祝福がありますように)の人生について勉強していきましょう。
彼(平安と祝福がありますように)は十三年間、マッカで人々から虐待を受け、罵声を浴びせられました。
折々、彼らがどのように虐待してきたか、お話していきます。
預言者(平安と祝福がありますように)は、マディーナに遷都し、その十年後に再びマッカに戻り、凱旋しました。
その際、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)には多くの信者がついており、マッカの人々は捕虜と化しました。
捕虜の意味が分かりますか?
彼らは(自分たちがどう扱われるか分からず、不安で)立ち、預言者(平安と祝福がありますように)は彼らの前に立ちました。
彼(アッラーの祝福と平安がありますように)は言いました:「さて、私があなたたちをどうすると思うか?」
マッカの人々は言いました:「あなたは、いい兄弟であります。」
預言者(平安と祝福がありますように)は言いました:
「あなたたちは自由の身です。行きなさい。私は何もするつもりはない。」
こう言われた人々は皆、イスラームに帰依しました。
マッカの人々全てです。
さて、現代のムスリムは、もし不当な目に会い、加害者が手中にあったら、慈悲をかけるでしょうか?
預言者(平安と祝福がありますように)は、これをされたのです。
とても多くのことを預言者(平安と祝福がありますように)は行いました。
「私はムハンマドがアッラーの使徒であることを証言します。」と言い、クルアーンが「じつに、アッラーの使徒は、あなたたちにとってよい模範であった。」と私に言っているので、私は彼(アッラーの祝福と平安がありますように)を追従します。彼が行ってきたことを、自分も行います。
預言者(平安と祝福がありますように)は最初、お金を多く持っておらず、賞状や資格も持っていませんでした。
勉強をしたこともなく、字を読むことも出来ませんでした。
父親と母親もいませんでした。
二人は彼(アッラーの祝福と平安がありますように)が幼い頃に亡くなっています。
そして彼(アッラーの祝福と平安がありますように)は、人類史上、最も偉大な人物でありました。
私たちは、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)がどのようにして、偉大な人物であり続けたかを、考えます。
これはムスリムだけが言っていることではありません。
「オリエンタリストたちによる預言者(平安と祝福がありますように)学」という本も同様なことを言っています。
彼らはムスリムではありませんが、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)の人格について研究しました。
彼ら全員が、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)が最も偉大な人物であったと認めていますが、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)が預言者であるとは言いたがりませんし、信じたがりません。
彼らの中に、「彼(アッラーの祝福と平安がありますように)は偉大な軍の指揮者だった。」と言う人がい、「彼(アッラーの祝福と平安がありますように)は、偉大な説教者であり、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)の言葉は美しかった。」と言う人がいます。
「彼(アッラーの祝福と平安がありますように)は、最も偉大な社会改善者だった。」と言う人もいます。
誰も整えることの出来なかった当時の社会を、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)だけが改善出来たからです。
各人が、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)について違うことを言っていますが、真実は、彼がアッラーの使徒であったということです。
略して、「彼はアッラーの使徒であった。」です。
しかし、彼らは理解できなかったので、そう言うことが出来ません。
宗教的に研究しなかったからです。
イスラームを勉強していないのです。
ですから、彼らの好む言葉を選んで、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)について言っているだけです。
ムスリムでない人々が、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)の偉大さを認めているのです。
この偉大さはどこからやってきたのでしょうか?
私が「私はムハンマドがアッラーの使徒であることを証言します。」と言うとき、私はよく考えなければいけません。
私の証言の言葉と、クルアーンの「じつに、アッラーの使徒は、あなたたちにとってよい模範であった。」が、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)がどれほど偉大であったか、教えてくれているように、自分も偉大であるべきだと考えます。
そしてこの偉大さは、預言者(平安と祝福がありますように)の則ったものと同じであるべきです。彼(アッラーの祝福と平安がありますように)の道の上を歩けば、完璧にイスラームを実践できたと言えます。
現代の問題として、ムスリムがムスリム同士で勉強しあっていることがあります。彼女がやったように、私もやる。なぜそうするの?と言われたら、あの人がそうやっているから、と答える。
これは正しくありません。
クルアーンは、「じつに、あなたたち同士は、あなたたちにとってよい模範であった。」と言っていません。
「じつに、アッラーの使徒は、あなたたちにとってよい模範であった。」と言っているのです。
人々がやっているように、あなたもしなさい、とは言っていません。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)を模範としなさい、と言っています。
ですから、新しくイスラームに入った人に注意してもらいたいことは、イスラームを、ムスリムの姿、行動から取り込んではいけない、ということです。
クルアーンとスンナ(預言者の言行録)を参考にするべきです。なぜなら、この人は、「アッラーの他に神は無く、これらの人々はムスリムである」と言っていないからです。
「アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒である」と言ったのです。この証言が、私を、アッラーとその使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)に従う気にさせるのです。
クルアーンが私に命じることを成し、スンナが私に命じることを成すとき、このシャハーダ(証言)が実現されます。
しかし、口で証言しておきながら、ほかの人々がやるようなことを行っていると、言っていることと行動が矛盾し、間違いを犯すことになります。
預言者(平安と祝福がありますように)は、イスラームで最も大事なことを教えてくれました。それはシャハーダ(証言)です。
これは、全ての行いの基礎です。
アッラーとその使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)のご満足を望んで私たちがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)に従うとき、彼の道しるべに従い、クルアーンに従います。
私たちの多くは、「アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)を見ることが出来ていたら…」と望みますが、アッラーは、彼(アッラーの祝福と平安がありますように)に従う者に、天国で彼(アッラーの祝福と平安がありますように)と同等の場所を授けてくださると、アンニサー章(女性章)で仰っています。
「アッラーとその使徒に従った者は天国で、預言者たちや、誠実な者たち、宗教的に熱心だった人たちと共にあるだろう。」
この節は、預言者(平安と祝福がありますように)がサウバーンという名の教友の顔色が悪いので、「どうかしたのか?」とたずねたときに下りました。サウバーンは言いました:「アッラーの使徒よ、私はあなたをとても愛しています。あなたと別れることなど出来ません。最後の審判の日、あなたは先代の預言者たちと共にいて、私はほかの者たちと天国に留まるとはどういうことでしょうか。」この瞬間、この節が下りたのです。アッラーと預言者(平安と祝福がありますように)に従う者には、天国で預言者と一緒に、同じ位が授けられるということです。
イスラームは、学校で出される宿題のように、義務をこなすだけではありません。生きている全瞬間に、自分がムスリムであることを証明する行動を取らなければいけません。
これこそが、イスラームです。
私の生きている間、よいことを行い、アッラーに近づくための努力をしたり、人のために役立つことをしたり。
人生がこうであれば、私は真のムスリムだと言えます。
もし、私たちがそうでないときは、アッラーの赦しを請いましょう。
アッラーがお望みであれば、赦して下さいます。
アッラーに、私たちを真のムスリムにしてくださるよう、お願いします。
(終わり)
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