21世紀航海図;歴史は何も教えてくれない。ただ学ばない者を罰するだけ。

個人の時代だからこそ、個人を活かす「組織」が栄え、個人を伸ばす「組織」が潤う。人を活かす「組織」の時代。

家康とアメリカ軍

2007年01月16日 14時58分03秒 | Weblog
 秀吉後の徳川家康は、冷戦後の米軍に比べ、ほとんど自軍を動かしていなかった。イギリスの名相チャーチルの言葉が思い出される。国際化社会でアメリカ合衆国は徳川幕府のように弱い連邦制の中心地になることは不可能だと言う事だろう。
 徳川家康と秀吉の対決をアメリカの冷戦と比較するのは可能だ。
まずは経済格差だが、アメリカとソビエト連邦の経済力に圧倒的な差があったように、家康が関東で200万石以上を領していたのに対し、豊臣家は70万石程度しか持っていなかった。ソ連が社会主義メンバー国を維持する為に相手国を優遇する形で貿易を行い国力を落として行ったように、成り上がりの豊臣家も’譜代家臣’を作る為に諸武将に土地をバラまき、直接領有できる農地は少なくなっていた。また、豊臣秀吉が武将達からの人気を集めていたように、ソ連の方がプロパガンダに成功していた。また、家康一人が秀吉後に権力を握ったように、アメリカが冷戦後のスーパーパワーになっている。徳川家が日本の政治/経済の中心地を抑えていたように、アメリカも政経の中心地を持っている。
 大きな違いは、アメリカが冷戦後も、世界の中心として世界中に軍隊を送りまくって、実戦を戦い続けているにも関わらず,家康は徳川軍を温存し続け全く実戦に出さなかったことだ。現在アメリカの戦場は、南米での麻薬戦争、中東・アフリカでのテロとの戦いから、平和維持活動,人権保護活動まで多岐にわたる。それに比べ,家康・徳川幕府は徹底的に自軍の温存を図った。戊辰戦争が戦闘慣れしていない徳川家の敗北で終わったのは決して、偶然ではない。そう戊辰戦争でさえ,主戦場は江戸ではなく、会津だったのである。家康の政策は日本の長期の平和をもたらし,その後の革命戦争をも早期に決着させることに貢献した。
 あの関ヶ原の戦いでさえ,家康は’徳川軍’を参戦させていない。関ヶ原で戦闘が行われていた時、徳川秀忠が率いる’徳川軍’は中山道で待機していた。家康は関ヶ原戦勝の直後、石田三成の本拠・佐和山城をつくことが出来たが,三成はたとえ関ヶ原で勝っていたとしても江戸城をつくことは出来なかったのである。また、大阪冬の陣/夏の陣でさえ,家康は’徳川軍’を戦場にこそ連れて行きはしたものの実戦はさせていない。実際に、大阪城を落とすために奮戦したのは外様や譜代の大名達である。さらに,天草/島原の乱では’徳川軍’は九州にさえ渡っていない。彼らは遠く後方に控え、九州の武将達を脅すことによって,自分達の血を流すこと無く内戦を終結させたのである。
 ムチ・アメを見せるだけで,振る/配ること無く問題を解決させられるだけの外交力が欲しい。