フィンランドの教育の質が高いのは教師の質が高いからです。1980年代の恐慌時に、優秀な人材が安定した収入を求めて教師になったため、「頭の良い学校の先生」が多くいるのです。フィンランドの「学校制度」が良いために、教育の質が高いのではありません。優秀な教師がそろっているところでは、学校制度の違いに関係なく、高い教育の質が保障されています。現在、フィンランドでは景気が回復してきて、優秀な学生は一般企業を目指すようになってきています。一つ下のレベルの学生が教育の中心を担うようになる20年後、フィンランドの教育の本質が証明されるでしょう。
日本でも同じです。金を積んで優秀な講師を集めている「某・有名学習塾、私立学校は大規模授業をしているにもかかわらず、結果を出しています。そして、資金難で優秀な教師を募れない公立学校は、少人数教育を実施しても教育の質を上げられずにいます。
それに「少人数教育」って、何人から言うんですか? 本当に優秀な講師の方は、教室に生徒が50人いようが100人いようが、話で全員を引き込んでいきます。逆に、生徒の側が優秀な場合も講堂で300人ぐらい相手にしても落ちこぼれは出ません。「超・専門家」が集まっている学会の場合、規模が大きくても機能するのと同じです。その場合、100人以下でも「十分に少人数」って言えるんじゃないですか?
逆に、30人一クラスをまとめられない教師もいます。そして、全く基礎が理解できない生徒は、一対一で教えてもらわなければ、集中していられません。(発明王エジソンは、母に家庭教師をしてもらっていた。)その場合、10人程度でもまだ「少人数教育」とは言えないでしょう。
一人で勉強できる優秀な子どもに金をかけるほど無駄なことはない。大人が何もしなくても、彼らは勝手に伸びる。むしろ、邪魔をしないように気をつけるべきだ。進級試験を導入して、合格者は「飛び級」できるようにする。大学は入学定員を設けず、最低点以上を獲得した受験生を全員合格にする。そして進級試験と卒業試験で学生の質を維持する。(出来る学生は講義に出なくても、進級するから、大学の教室の「定員」を気にしているだけ無駄だ)
そして、できるガキ共を追い出して、出てきた余力で「落ちこぼれ」が出ないように対応する。200人一学年では10人に一人教師をつけようとすると20人分の人件費が必要になるが、200人の内100人が勝手に勉強してくれていれば、10人分の人件費で10人に一人教師をつけられる。間をとって15人雇えば、基礎のできない5人の落ちこぼれに専属の先生をつけてあげることができるようになる。その上、飛び級をした何人かの優秀な生徒が授業を手伝ってくれるようになれば、教育はもっと「安く」あがる。その上、授業を手伝う生徒は、教えることを通して復習ができ、リーダーシップを学ぶことができる。
公立教育の根底は、「優秀な生徒の成長を阻害しない」「落ちこぼれを出さない」ことだ。例えば、教育指導要領を改正して、必修漢字の数を半分以下にすれば(ゆとり教育を導入すれば)、落ちこぼれの数を半分以下に減らせるが、それでは優秀な生徒の成長を阻害してしまう。進級テストを導入し、出来る生徒をさっさと上に押し出してしまった後で、ゆっくり時間をかけて出来ない生徒の指導に当たるべきだ。
現状では、落ちこぼれた生徒は、劣等感を感じているだけでなく、教師にも相手にしてもらえていない。進級テストを導入すれば、感じる劣等感はさらに強くなるかもしれないが、教師の側が一人一人に時間をかけて、勉強を教え、精神的ケアに気を配ることができるようになる。
日本でも同じです。金を積んで優秀な講師を集めている「某・有名学習塾、私立学校は大規模授業をしているにもかかわらず、結果を出しています。そして、資金難で優秀な教師を募れない公立学校は、少人数教育を実施しても教育の質を上げられずにいます。
それに「少人数教育」って、何人から言うんですか? 本当に優秀な講師の方は、教室に生徒が50人いようが100人いようが、話で全員を引き込んでいきます。逆に、生徒の側が優秀な場合も講堂で300人ぐらい相手にしても落ちこぼれは出ません。「超・専門家」が集まっている学会の場合、規模が大きくても機能するのと同じです。その場合、100人以下でも「十分に少人数」って言えるんじゃないですか?
逆に、30人一クラスをまとめられない教師もいます。そして、全く基礎が理解できない生徒は、一対一で教えてもらわなければ、集中していられません。(発明王エジソンは、母に家庭教師をしてもらっていた。)その場合、10人程度でもまだ「少人数教育」とは言えないでしょう。
一人で勉強できる優秀な子どもに金をかけるほど無駄なことはない。大人が何もしなくても、彼らは勝手に伸びる。むしろ、邪魔をしないように気をつけるべきだ。進級試験を導入して、合格者は「飛び級」できるようにする。大学は入学定員を設けず、最低点以上を獲得した受験生を全員合格にする。そして進級試験と卒業試験で学生の質を維持する。(出来る学生は講義に出なくても、進級するから、大学の教室の「定員」を気にしているだけ無駄だ)
そして、できるガキ共を追い出して、出てきた余力で「落ちこぼれ」が出ないように対応する。200人一学年では10人に一人教師をつけようとすると20人分の人件費が必要になるが、200人の内100人が勝手に勉強してくれていれば、10人分の人件費で10人に一人教師をつけられる。間をとって15人雇えば、基礎のできない5人の落ちこぼれに専属の先生をつけてあげることができるようになる。その上、飛び級をした何人かの優秀な生徒が授業を手伝ってくれるようになれば、教育はもっと「安く」あがる。その上、授業を手伝う生徒は、教えることを通して復習ができ、リーダーシップを学ぶことができる。
公立教育の根底は、「優秀な生徒の成長を阻害しない」「落ちこぼれを出さない」ことだ。例えば、教育指導要領を改正して、必修漢字の数を半分以下にすれば(ゆとり教育を導入すれば)、落ちこぼれの数を半分以下に減らせるが、それでは優秀な生徒の成長を阻害してしまう。進級テストを導入し、出来る生徒をさっさと上に押し出してしまった後で、ゆっくり時間をかけて出来ない生徒の指導に当たるべきだ。
現状では、落ちこぼれた生徒は、劣等感を感じているだけでなく、教師にも相手にしてもらえていない。進級テストを導入すれば、感じる劣等感はさらに強くなるかもしれないが、教師の側が一人一人に時間をかけて、勉強を教え、精神的ケアに気を配ることができるようになる。