ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第72回ふうちゃんのお城ブログ 佐竹城と水戸城

2023-07-01 17:39:54 | 日本百名城

今、秋田県知事の佐竹氏のルーツを探ると茨木県常陸太田市になります。

佐竹氏は、ここから水戸へ出て、江戸時代まで続きましたが、

関ヶ原の合戦で日より見な態度が

徳川家康の怒りを買い、

秋田に移封されてしまい、現在に至っているということになります。

佐竹は石田三成と仲が良く、

秋田の久保田城には三成から送られた手水鉢があるくらいです。

佐竹城は関東7名城の一つに挙げられています。

関東7名城とは、

水戸城、厩橋(前橋城)、宇都宮城、忍城、唐沢山城、金山城、箕輪城、佐竹城

のことでです。

水戸城の復元された大手門と二の丸隅櫓を見るために水戸を訪れたついでに

佐竹(舞鶴)城まで、足を伸ばしてみました。

ここは太田小学校の敷地内です。

この一帯の山が太田城であったところであったとみてよさそうです。

付近にある佐竹氏の氏神若宮八幡宮と

そこから見える景色です。

いかにもお城の上から下界を見下ろしたように見えます。

 

そして、いよいよ水戸に向かいます。

駅を降りれば水戸黄門と助さん、格さんが迎えてくれます。

それに、この風景が加わりました。

二の丸隅櫓です。

そして、元お濠の道路の道路に沿って進みます。

右の階段を上ると

復元成った大手門が目に飛び込んできました。

今から5年前の

工事中のこの姿を見ているだけに感動もひとしおです。

 

それに、城郭検定試験の会場で問題を通して初めて出会った、

瓦塀とご対面になりました。

土塁と門とを繋ぐ役割を果たしているそうです。

城郭検定から発生されるメッセージには、傾聴に値するものがあります。

復元された二の丸角櫓に向かいます。

 

アプローチが素晴らしい。哲学の道を行くようです。

さすが御三家を受け継ごうとする水戸の市民の心意気を感じることができました。


第69回ふうちゃんのお城ブログ 町田市小野路城をゆく

2023-04-26 20:58:31 | 日本百名城

東京都町田市の郊外小野路(おのじ)には里山風景が広がっています。

今、人びとがここで生活を営んでいる風景があります。

この近くに幕末に活躍した新撰組の近藤勇と土方歳三が

剣道の稽古をするために

小野路の小島家(現在は小島資料館)に通った道があります。

関屋の切通です。

調布(近藤)と日野(土方)から小野路に向かったのです。

 

目指す小島家(小島資料館)

 

小野路宿

小野路の歴史について、小野路宿里山交流館で資料をもらいました。

 

小野路の歴史

「小野路」の地名の由来については諸説あります。

『大日本地名辞典』によると、

平安時代の牧場地帯「小野牧」(現在の八王子から日野市・府中市・稲城市・多摩市・町田市北部)を含む地域)への入口、

『武蔵名勝図』によれば、

武蔵七等の一つ横山党の祖である小野氏との関係によるものと考えられ

『鶴川村史』では

「小野郷」(現在の府中市域内)への道筋とも言われています。

 小野路は、長い歴史を通じて交通の要所で、江戸時代に東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、

また、江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行き来する人びとで賑わ宿場になっていました。

 江戸時代には近隣の三十五ヶ村をまとめる組合村の寄場として見張番屋が置かれ

明治時代には登記所や郵便局などの公共施設がができ、小野路は地域行政の中心的な役割もはたしました。

 

下の地図を見てください。

今日私たちが

目指すは小野路城です。

E小野神社前を出発し小島資料館の前を通りD中宿をへて

旧小野路宿から関屋の切通へ寄り道し、

冒頭の里山風景を目にしてから

目的の①山道に入ります。

山城に向かう雰囲気になってきます。

②から萩生田牧場の牛小屋をみます。

東京ビーフとして、伊豆諸島の最南端青ヶ島などで生まれた牛を飼育し

「東京産黒毛和牛」として出荷しているそうです。

 

なだらかに続く山道を行くと

④近くの小町井戸につきます。

ここで小野小町に出会うとは思いませんでした。

 

そして、

いよいよ小野路城です。

都内の古城址の中でも最も古い物の一つで承安年間(1171から1174年)

平安時代の築城であることがこの説明板から分かります。

郭になっている洞が立つ本丸

郭と思われる平らな空間、周囲は土塁でしょうか。

郭と空堀でしょうか。

 

今で城や城跡ではあまり目にすることがなかった

環境保護地域の看板と

人びとの営みを知らせる管理組合の案内板に興味を引かれます。

わたしもかって(平成3年から8年)町田市の教育委員会に勤務したことがあります。

この掲示板は町田らしさを改めて

わたしに思い出させてくれました。

当時、町田市教育委員会では、

東京都に先駆けて環境教育の副読本の作成しており

わたしもその編集にかかわっていました。

 

今、初めて小野路城跡に来て思うことは

(教育委員会勤務当時小野路城に来ていません)

東京で最古である古城址の

本丸

郭(くるわ)

空堀

土塁が

環境保全地域の中で

静かに眠っている

ということです。

今まで多くの城を訪れましたが、

そこでは感じたことのない

何かがあるのです。

町田の空気の匂いと言ってよいのかもしれません。

 

⑭道祖神をへて小野路宿に下山していきます。

 

万松寺から小野路城を振り返ります。

中央の山のてっぺんが小野路城本丸あたりです。

 

六地蔵です。7つありますが、

 

ゴールの小野神社に着きました。

小野神社の由緒書きにも驚かされました。

平安時代の小野篁、小野道風にここで出会うと思いませんでした。

 

追伸 草木塔って聞いたことがありますか。

草や木などの自然に対して感謝を表す供養塔だそうです。

これも町田らしい環境保全の表れでしょうか。

 


第68回ふうちゃんお城ブログ 江戸無血開城と洗足池

2023-04-11 08:38:11 | 日本百名城

  今から155年前の4月11日は江戸城が無血開城された日です。

ウクライナとロシアの戦争をみるにつけ

無血開城がいかに意義あることであったかがわかります。

今、こうしている間にも有能な人材の命が失われているからです。

 

お花見の名所として知られる大田区南千束の洗足池(東急池上線洗足池下車徒歩0分)には、

江戸無血開城の立役者

勝海舟夫妻の墓があります。

海舟が建てた無血開城のもう一人の立役者西郷隆盛の留魂洞と留魂詩碑もあります。

海舟は西南戦争で被った西郷の不名誉の回復に貢献しています。

そして、洗足池には、大田区立勝海舟記念館あります。

勝海舟の記念館は日本ではここだけだそうです。

なぜ、大田区の洗足池に

勝海舟記念館があるのでしょうか。

 

それは、

開城の前々日と前日に

江戸無血開城の細部の打ち合わせに、

官軍と池上本門寺で会うために

海舟が命がけで洗足池畔を通ったからです。

 

官軍の陣所が池上本門寺にありました。

西郷の宿舎は本門寺の96段の坂の手前

理境院にあったといわれています。

 

記念館には、

海舟が洗足池を通ったことを裏付け次のような掲示があります。

 

明治24年初秋海舟が記した「洗足軒之記并歌」には

「慶応戊辰(慶応4年)の変の時に、

官軍先鋒の士へ述べることがあるので本門寺に行った。

道中、官軍の兵士等が殺気をふくんで様子を伺っているので、

洗足池のほとりにある草庵に立寄り殺気をさけた

という内容の回想が記されています。

 

海舟が官軍の殺気を感じ、命がけで本門寺に向かう途上

洗足池に滞在したことがこの掲示からよみとれます。

これが海舟と洗足池との最初の出会いです。

 

記念館の年表に

3月13,14日 江戸薩摩藩邸で西郷隆盛と会談

4月9,10日 池上本門寺会談、翌日開城に至る。

と表記されています。

 4月9日、10日の会談について 慶応4年戊辰日記では

 大久保一翁とともに、江戸城明渡に関する陸海両軍の嘆願書を持参し

 参謀である海江田武次、木梨精一郎と話し合った。

とあります。

 

令和元年(2019)9月7日勝海舟記念館が出来る前、

江戸城開城を決める勝・西郷会談が

池上本門寺にある松濤園で行われたのではないか。

という説がありました。

しかし、この年表は、この説に対して記念館の公式見解を示したものです。

無血開城が決定されたのは、江戸芝にあった薩摩藩江戸屋敷でした。

 高輪藩邸に於いて西郷に談判す。

 これ我が一生の難事なり。(年表より)

さて、勝・西郷会談の開催地について結論をみましたが、

ここに貴重な資料があります。

池上本門寺の周辺の地域はどのようなものであったかを

地域の池上徳持小学校の先生が

大田区小学校社会科部の部報に報告したものです。

 

明治維新と地域の人びと

 慶応四年(1868年)三月、

江戸城を攻めようと江戸に迫った官軍の本陣を本門寺に置き、

西郷隆盛は石段の左にある理境院を宿舎にしていました。

薩摩や長州の兵は周辺の農家に泊まり、

総攻撃に備えて眠る時も

わらじを解かず刀の手入れを怠らず待機していました。

農民は野菜や鶏などを食料として取り上げられたり、

鉄砲や刀などの武器を隠していないか調べられたり、

名主は官軍に協力するか

幕府に通じていないか

厳しく取り調べられたりしました。

十五歳から六十歳までの男子はすべて

官軍のために働くように命令されました。

 

官軍が地域の人びとにかなり厳しく協力を迫っていたことがよくわかります。

勝海舟がこのような状況の中で、

無血開城を実現させたことは、

今、考えてもすごいことだと思います。

 

そして、明治の世になって勝海舟は

池上本門寺に行くときに立ち寄った洗足池を訪れ、

津田仙(津田梅子の父)と共に、良い値で土地を買い、

洗足軒という別荘を建てたのです。

そして、墓所も建てることにしました。

今、大森弟六中学校の敷地となっている所です。

 

無血開城と洗足池のかかわりについて触れました。

海舟が無血開城のため本門寺を訪れることがなければ

洗足池に海舟夫妻の墓、勝海舟記念館も

今、なかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 


第67回ふうちゃんのお城ブログ 阿波踊りと徳島城

2023-03-30 09:35:16 | 日本百名城

わたしが昨年9月お城の授業を行った

東京都杉並区の小学校で

昨年12月に

阿波おどりの講習会(授業)が行われました。

講師は高円寺阿波おどりシルバー連の方です。

わたしも参加しました。

実は阿波おどりについて、学生時代の思い出があります。

当時、わたしは、カニ族をしていました。

カニ族とは

横長のリュックを背負い、

国鉄の均一周遊券(指定地域の急行、特急の自由席が期間内は何回でも乗れた)を片手に

ユースホステルなど安い宿を泊まり歩く旅行者を

そう呼びました。

蟹の横歩きのスタイルに似ていたからでしょう。

わたしも、北海道、東北を巡り、

このときは四国に行きました。

徳島県の日和佐ユースに泊まったとき

ミーティング

⦅ユースホステルのペアレント(主催者)を中心に宿泊者が夕食後に集う会合⦆で

阿波おどりを踊りました。

ペアレントの森さんが阿波おどりのコンクールの上位入賞者で

ミーティングでは阿波おどりを踊ることにしていたのです。

 

今回阿波おどりを踊るのは

その時以来です。

阿波踊りの由来には諸説あるそうですが、

その一つに、

徳島藩祖・蜂須賀家政による「築城起源説」があります。

「阿波の殿様 蜂須賀様(蜂須賀公)が 今に残せし 阿波おどり」。

と『阿波よしこの節』に歌い込まれている一節からきているそうです。

蜂須賀家政公の銅像が出たところで

徳島城に触れてみます。

城郭検定で問われるのは次の二つ。

石垣の材質と

天守の位置です。

 

石垣の材質は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩です。

地質が繋がっている海を越えた

和歌山城にも緑色片岩の石垣があります。

さらに離れた埼玉県の

長瀞(ながとろ)でも

緑色片岩の地層を

みることができます。

徳島城の天守の位置は

本丸ではなく、

東二の丸にあります。

天守の位置としては、とても特徴があるお城なのです。

 

徳島を訪れたらお城の他にオススメの場所があります。

一つは阿波おどり会館です。

阿波おどりの実演がいつでもみられます。

もう一つは徳島ラーメンです。

さらに一つ。

写真はありませんが

阿波尾鶏(あわおどり)焼き鳥のことです。

 

今回は阿波おどりの講習を受けたことから始まり、

徳島城、

阿波お会館会館

徳島ラーメン

阿波雄鳥

に触れて見ました。


第66回ふうちゃんのお城ブログ 町田市の町内会での講演

2023-02-21 20:36:52 | 日本百名城

19日(日)東京都町田市の町内会で

講演をさせていただきました。

演題は

「小学生にもわかるお城の話」でした。

主催者から所感をLINEでお寄せいただきました。

 

『「小学生にもわかるお城の話」

「お城の話で交流会」を、

地元ゆかりの伊東冨士雄先生をお招きして開催しました。

(*かつてわたしは町田市教育委員会と玉川大学に勤務したことがあります)

先生から「現存12天守」の授業を受け、

参加者全員が「お城」にまつわる様々な思いを語り合い、

笑顔で楽しい時を過ごしました。

「日本には約3万の城があるといわれている」

「国宝の天守は5城ある」

「天守や櫓だけがお城ではない」等々、

会場からは

「へー、そうなんだ!」との声が聞こえました。

現存12天守は天災や戦災に耐えて「400年間生き延びた」ものであり、

「城」は殿様だけを守るものでなく領民を守る機能を持っていたこと、

などなど「お城」の深い見方を学びました。』

 

参加者は、

小学生2人

大人(元小学生)17人でした。

写真最前列、わたしと向かい合っている2人が小学生です。

 

このときの様子が前掲のLINEに記述されています。

 

話の内容は昨年9月に杉並区の小学校で行った授業と

とほぼ同様です。

https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/e040d5a31ab2e82f87a9614c4782fac6

 

江戸時代から今まで

幾多の困難を乗り越えて

生き残っている現存12天守の話をしました。

今回、付け加えて

現存12天守ではありませんが、

箱館戦争の

戦火をくぐり抜けてきたのに

昭和24年の役場の類焼で焼失した

当時国宝だった松前城の天守の話を付け加えました。

今、復元天守が乗っている箱館戦争での砲弾跡が残る石垣です。

でも、国宝に指定されていたここにあった天守は

戦火に耐えたのでした。

 

講演後の交流会は大人だけで実施されました。

参加者の皆さんの心にお城がしっかりと位置付いていることを感じました。

お城は心のシンボルなのだということを実感しました。

 

安曇野出身の方は

松本城(藩)とかかわって

加助(貞享)騒動の話をされました。

安曇野の子供たちはみな学校で、

加助騒動ついて学んでいたそうです。

現在松本市が発行しているお城の副読本に貞享騒動についての記述があります。

 

貞享騒動

3代目水野忠直のとき、大きな百姓一揆がおきましした。

これを貞享騒動(加助騒動)といいます。

延宝年間(1673~80)以後に不作が続いたのにもかかわらず、

財政難の藩は領民から年貢を多くとろうとしました。

これに反対する領内284か村のうち274か村の農民たちが団結して、

1686(貞享3)年反対に立ち上がりました。

しかし、わずかな日数で鎮圧されてしまい、

一揆の中心となった安曇郡中萱村(安曇野市)の前の庄屋多田加助たちは処刑され、

家族もろう屋に入れられました。

処刑された人の中には子どももいました。

のちに、これらの人たちは、農民のためにつくした人として

あがめられました。

 

かたむいた城伝説

 多田加助を中心に1万人もの農民が、年貢を減らしてほしいと松本に集まってきました。

あわてた武士たちは、何とかこれをおさめようと考えました。農民たちの要求をいくつか

受け入れ、それを書いた紙を農民たちに示しました。多田加助をはじめ中心となった人た

ちは、さわぎを起こした罪ではりつけの刑にされることになりました。

 加助がはりつけにされる場所には多くの人びとが集まり、念仏をとなえたり、罪を許して

くれとさけんだり、最後にはみなが大声で泣き出しました。「みなのしゅう、わしはみなの

年貢が減らされるのだから、安心して死んでいく。さらは。」と加助がいうと、人びとの

中から「残念ながら、約束の書かれた紙は、おぬしがろうやに入れられた日に役人に取り

上げられた」とおしえる声があがりました。加助は「2斗5升、2斗5升、2斗5升・・・」と

怒りに満ちた声でさけぶと、血ばしった目で天守をぐっとにらみつけました。その瞬間、

恐ろしい地ひびきとともに天守が西にかたむいたのです。

 実際に明治30年代に天守の傾きを直す工事をしています。しかし、これは、天守台の中の

支柱がくさり、かたむいてしまったのです。かたむいた城伝説は、明治になってつくられた

ものです。

 

郷土(松本藩)の歴史をお城とかかわって

後世に伝えていこうとする姿勢が

この副読本の記述からうかがえます。

 

わたしは、この副読本を入手したとき、

内容についてざっと目を通しました。

しかし、加助騒動の記述について、

はっきりと記憶しておらず、

懇談会で副読本の存在を

わたしから話題にしたとき、

加助騒動の記述について

直接触れられなかったのは

残念でした。

帰宅して副読本を調べ

貞享騒動の記述を発見しました。

 

 

岡山で若い頃を過ごされた方は

岡山城の思い出を語って下さいました。

烏城ともいう黒いお城です。

旭川を自然の壕として立っている岡山城の姿が

今でも心に残っているといいます。

 

昨年の朝ドラカムカムエヴリに何回も登場しました。

最近福山城とともにリニューアルされました。

わたしも行ってみたいと思っています。

 

 

世界遺産、国宝姫路城です。

このお城を訪ねられた方は多いようでした。

ここでは、わたしからもお話しました。

暴れん坊将軍で8代将軍吉宗が白い馬に乗り江戸城をバックに登場します。

このロケ地が姫路城なのですが、

吉宗の時代に江戸城の天守はないのです。

明暦の大火(明暦3年1657年)に焼失したからです。

これは一つ確認しておきたいところです。

では、江戸城のロケ地として姫路城は歴史的に適切かについてです。

松江歴史館で江戸始図が発見されて以来

根拠をもつことになりました。

池田輝政(家康の娘婿)が

この姫路城をつくりました。

家康が作った江戸城が姫路城とよくにていることが

分かったのです。

姫路城を試作しておいて

江戸城にその成果を生かしたのでは

ないかという説も出てきました。

江戸城のロケ地としての姫路城は

相応しいといってよいでしょう。

 

お城の楽しみ方は天守や建物だけではありません。

空壕、土塁、石垣などの楽しみ方もあります。

町田に近くて典型的な建物あるお城は小田原城。

建物がなくても空堀や土塁があり山城の雰囲気が味わえるのが小机城。

なんて紹介もしました。

お近くの城から訪ねてみてはと思います。

小学生2人(1年生と3年生)特に1年生には難しい話のようでしたが、

3年生は最後までメモをとりながら一生懸命に聞いてくれたのが

印象に残りました。

彦根城ゆるキャラひこにゃん、

備中松山城猫城主さんじゅうろうの

ような具体物があると

話により興味がもちやすいこと

わかりました。

大人の方との懇談会はとても有意義なものでした。

自分の人生と城との関わり合いが想起されていたように思います。