今回のお城めぐりは初めて乗る電車で始まります。
日吉、新横浜間を走る東急新横浜線です。
わたしは、大岡山(奥沢・田園調布経由)から新横浜まで
相鉄線西谷行きの電車に乗りました。
小机城は今回が4回目、本ブログでも
第2回
第2回ふうちゃんのお城ブログ 我が家から近い城(小机城) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)
第25回
第25回ふうちゃんのお城ブログ 城めぐり再開(小机城へ) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)
第62回
第62回ふうちゃんのブログ 滝山城 - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)
と3回にわたって取り上げています。
今回は西曲輪(地図では本丸)と東曲輪(地図では二の丸)の間にあって土塁のように見えていた
帯曲輪を取り上げます。
帯曲輪です。
矢倉(櫓)があったのですね。
小机城の中では最も高いところに位置します。
土塁の上に広い空間があります。
これは曲輪なんですね。
西曲輪(本丸)です。
東曲輪(二の丸)です。
帯曲輪は東西2つの曲輪を繋ぐように中間に位置します。
帯曲輪は、下から敵が攻めてきたとき
次の作戦に移るための
重要な位置であることを
伊東潤さんの解説で理解することができました。
例えば、東曲輪(二の丸)から攻めてくる敵を東曲輪(二の丸)に引きつけて攻め込ませます。
わざと味方は西曲輪(本丸)まで引きます。
そのようす(戦況)を帯曲輪で監視します。
ここから東曲輪(二の丸)の様子を監視したのでしょうね。
ときには攻撃することもありますが、監視と情報の伝達が大切な任務です。
監視からの情報を得て、西曲輪(本丸)では用意万端整え迎え撃ちます。
というようなことです。
下のような空堀を越えなければ西曲輪(本丸)にはたどり着きません。
西曲輪(本丸)を囲む空堀のスケールの大きさです。
滝山城と比べてもひけをとらない
北条氏の技術が生かされていると思います。
実際に掘を上からみたり、降りてみて
改めて実感しました。
城は何度行っても学ぶところがあります。
小机城の次に向かうのは茅ヶ崎城です。
茅ヶ崎城というとサザンオールスターや湘南海岸をイメージするかも知れません。
しかし、横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目(横浜市営地下鉄センター南駅徒歩6分)にあります。
わたしは初めて横浜市営地下鉄にも乗りました。
市営地下鉄新横浜駅から南センター向います。
この掲示版には、
『茅ヶ崎城址は「空堀」「郭」「土塁」などが良好な状態で残る貴重な中世城郭遺跡です。
早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されています。
茅ヶ崎城は14世紀末から15世紀前半に築城された推定され、
15世紀後半に最も大きな構えになります。
16世紀中頃には二重土塁とその間に空堀が設けられました
(この築城方法は後北条氏独特のもととされる)
築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や
後北条氏(戦国時代)が関与したと推定されます。
16世紀末までには、城としての役割は終わります。
江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され
「城山(じょうやま)」という地名とともに、今日まで保存されてきたのです。
茅ヶ崎城址は、貴重な歴史遺産なのです。』
という説明があります。
別な資料には
『早渕川南岸の舌状台地を堀切で先端部を独立させ、
内部に中郭・東郭・西郭・北郭・東北郭・腰郭の主要な6つの郭を造り
周囲に複数の平場を設けています。
15世紀後半までに西郭、中郭、東郭、北郭が造られ、
16世紀中頃には腰郭・東北郭の構築や空堀の壕直しが行われるなど
大まかに二期に分けて築城されたと考えられています。
城の周囲からは14世紀の板碑や火葬臟骨器が見つかっており、
城の成立がさらにさかのぼる可能性もある。』
-横浜市指定史跡 茅ヶ崎城址 横浜歴史博物館より-
今実際に見学できるのは 中郭、東郭、西郭・北郭です。
中郭 倉庫が建っていた。今、その遺構(礎石がある)
北郭 井戸跡がある。直径約4m 深さ約5m 水がたくさん湧いていた。
城には飲料水が必要です。
東郭 城の中で最も高いところに位置し
眺めが良いところで本丸だと考えられています。
「中原街道」や「矢倉沢街道」の街道筋を見渡せるほど見晴らしがよいため
物見台の役割をもっていました。
端の土塁が比較的よく残っています。
西郭 近くに一番長く深い壕があります。
交通の要所に造られた城のようですが、静かなたたずまいの住宅地の中にありました。
今回、小机城、茅ヶ崎城と伊東潤ファングループの城めぐりに参加しました。
最前列正面ビニル傘と毘沙門天の帽子が伊東潤さん、その真後ろがわたし伊東冨士雄です。
さすが、現役の歴史作家のお城の知識は素晴らしい。
ありがとうございました。