ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第54回ふうちゃんのお城ブログ千代ヶ岡陣屋跡

2022-06-27 07:29:22 | 城郭検定

お城訪問の話ではありませんが

作家伊東潤との出会いについて書きます。

6月20日(月)

伊東潤「維新と戦った男 大鳥圭介」を

早朝の布団の中で読んでいました。

P301からp302に差しかかったところで

背筋がゾクゾクっとしました。

わたしの歳になると

こんなことは、めったにありません。

 

松前城で榎本武揚が大鳥圭介にある男を紹介する場面です。

 

フロックコートの上に長マンテルをは羽織ったその男は、

高い頬骨を誇るかのように海を見つめていた。

それは獲物を探す鷹のようでもあり

また、諦念の境地に達した高層のようでもある。

「大鳥さんは、中島さんと初めてでしたか」

「ああ初めてだ」

「それは失礼しました」

榎本が男を紹介すると、男は愛想笑い一つ浮かべず、ぶっきらぼうに名乗った。

「元浦賀奉行所与力、中島三郎助。以後お見知りおきを」

実は,

わたしは今から20年前に中島三郎助を教材化し、

卒業を前にした杉並第十小学校と三谷小学校の6年生に卒業記念授業をしています。

拙著「社会科教材授業設計プラン」の

P80~p84に掲載してあります。

 

 

]

 

浦賀奉行所にあって,

黒船に一番最初に対応した日本人

与力の中島三郎助と

オランダ語通訳の堀達之助

という2人の人物を取り上げました。

堀が話せる唯一の英語

「わたしは蘭語が話せる。」

I  CAN  SPEAK  DUTCHから

日米交渉の第一歩が踏み出されたという内容です。

伊東潤が2015年2月に「死んでたまるか(原題)」として刊行する6年以上前のことです。

 

以前にも書きましたが、

2016年から

本格的に城について学びだし

伊東潤の「城を攻める守る」

「歴史作家の城歩き」を

城についてのテキストとして読みます。

それから、歴史小説も読むようになりました。

そして、今、伊東潤のファンが参加する読書会にも参加しています。

 

京都で応仁の乱があった頃に

関東で起きた長尾景春の乱を取り上げた

「叛鬼」に2020年に出会います。

私が校長をしていた杉並区立三谷(さんや)小学校が

太田道灌が石神井城(長尾方の豊島氏)を攻める陣地の周辺にあったという事実

を知り驚きます。

校長を退任して10年以上経ってからのことです。

もし、この事実を在任中に知っていれば

三谷小学校での卒業生に対する私の授業の内容が変わっていたかも知れません。 

 

でも、「維新と戦った男 大鳥圭介」との出会いは

教師伊東冨士雄と作家伊東潤が、

まったく偶然にも

それぞれの専門分野で

同じ歴史的事実を扱っていたことを示すものでした。

(わたしの勝手な解釈ですが)

こんな嬉しいことはありません。

 

函館で中島三郎助が死を選び、

大鳥圭介が生き残り明治維新で活躍するようになったかについても

本書を通して詳しく知りました。

中島三郎助終焉の地千代ヶ岡陣屋跡が

中島町となって

今、函館税務署になっています。

知識が広がること、

そして、既習の知識と構造的に

結びつくことを

実感することができました。

 

 

 


第53回ふうちゃんのお城ブログ 高遠城

2022-06-11 12:58:27 | 城郭検定

5月6日(金)高遠城址公園で目にした光景です。

地域の方が桜祭りの片付けをしていました。

殆ど訪れている人はいませんでした。

4月中に行われていた桜祭りの喧噪が嘘のような静けさでした。

桜祭り開催中には

町の随所に臨時の駐車場を設け多くの人を裁いていたことが

交通規制図・駐車場案内図を見るとわかります。

 

でも、殆ど人のいないこの時が

城郭ウオッチングには絶好の環境です。

 

ここでは、この城にある事物から2人の人物について触れて見ます。

まず、仁科五郎信盛です。

武田信玄の五男、勝頼の弟です。

信盛を祀ったのが

新城(信盛)神社です。

高遠城本丸にあります。

信盛は天正10年、信長の嫡男信忠率いる五万の兵と三千の兵で向かい撃ちましたが

多勢に無勢、城は陥落し、自害したと伝えられています。

織田軍が信濃侵入に際して武田軍が見せた唯一の徹底抗戦が

この高遠城の信盛の戦いでした。

大軍を前に一歩も退くことなく戦った信盛は

県歌「信濃の国五番」にも

旭将軍義仲(よしなか)も
仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も
象山佐久間先生も

皆此国の人にして
文武の誉(ほまれ)たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ
川と流れて名は尽ず

と歌われています。

県歌「信濃の国」ほど47都道府県の歌で

県民に親しみ歌われている歌はないと

筆者は思っています。

信盛の名前を知らない県民は今でもいないどろうと思われます。

 

もう一人は保科正之です。

徳川家光の弟です。

わたしが保科正之を特に意識したのは

明暦の大火(明暦3年・1657)で江戸城の天焼失焼失し、

江戸市中の再建を優先し、天守の再建を中止させたことです。

平和な世に戦いへの備えの象徴である天守はいらないという正之の識見です。

 

下の写真は高遠城歴史館にある保科正之と生母お静の方の顕彰碑(平成21年4月4日建立)

です。

    お静の方          お静地蔵        保科正之公

正之(幼名幸松)は、2代将軍秀忠とお静の方の間に生まれましたが、

秀忠の正室お江与の方が大変深く

お静の方と幸松の危機を避けるために

武田信玄の娘見性院と信松尼の保護を得ました。

7歳の時高遠藩主保科正光の養子となり

お静の方と正之は高遠に迎えられ

25歳の時、高遠藩主になりました。

 

お静の方は、高遠に来る前

東京目黒にある成就院(蛸薬師)に

正之の大願成就を願って

金剛宝、金剛幢、金剛願の3地蔵を奉納しました。

これをお静地蔵と言っています。

これが成就院のお静地蔵です。

家光は鷹狩りの歳に寄った成就院で正之の存在を知り

以後正之を要職取り立てていきます。

山形藩主、会津藩主になります。

家光は死に際し、4代将軍家綱への補佐を託したと言います。

江戸で4代将軍家綱を20年にわたって仕え、

江戸幕府265年の礎を築くのに貢献しました。

正之の幼少から青年期を培ったのが

この高遠の地なのです。

コヒガンザクラで有名になるのは戦後のことです。

1876年(明治9年)荒廃した城跡に旧藩士が桜を植樹し

1960年(昭和35年)にタカトオコヒガンザクラの樹林が

長野県の天然記念物に指定され

1978年(昭和53年)から花見シーズンだけ有料化されました。

 

では、城内を写真でめぐってみましょう。

高遠城大手門(高遠高校の正門として使われたいました)

勘助曲輪(今は広い駐車場になっています)

太鼓櫓(本丸)

空堀・石垣・桜雲橋・問屋門(二の丸)

桜の咲いているときのここはシャッタースポットに違いありません。

 

高遠城からの中央アルプスです。

こうしてみてくると桜だけではない

高遠城の歴史に浸ることができました。

高遠城をウオッチングするには

桜の直後の5月がオススメです。

以前8月に訪れましたが

草が伸び放題でした。