お城訪問の話ではありませんが
作家伊東潤との出会いについて書きます。
6月20日(月)
伊東潤「維新と戦った男 大鳥圭介」を
早朝の布団の中で読んでいました。
P301からp302に差しかかったところで
背筋がゾクゾクっとしました。
わたしの歳になると
こんなことは、めったにありません。
松前城で榎本武揚が大鳥圭介にある男を紹介する場面です。
フロックコートの上に長マンテルをは羽織ったその男は、
高い頬骨を誇るかのように海を見つめていた。
それは獲物を探す鷹のようでもあり
また、諦念の境地に達した高層のようでもある。
「大鳥さんは、中島さんと初めてでしたか」
「ああ初めてだ」
「それは失礼しました」
榎本が男を紹介すると、男は愛想笑い一つ浮かべず、ぶっきらぼうに名乗った。
「元浦賀奉行所与力、中島三郎助。以後お見知りおきを」
実は,
わたしは今から20年前に中島三郎助を教材化し、
卒業を前にした杉並第十小学校と三谷小学校の6年生に卒業記念授業をしています。
拙著「社会科教材授業設計プラン」の
P80~p84に掲載してあります。
]
浦賀奉行所にあって,
黒船に一番最初に対応した日本人
与力の中島三郎助と
オランダ語通訳の堀達之助
という2人の人物を取り上げました。
堀が話せる唯一の英語
「わたしは蘭語が話せる。」
I CAN SPEAK DUTCHから
日米交渉の第一歩が踏み出されたという内容です。
伊東潤が2015年2月に「死んでたまるか(原題)」として刊行する6年以上前のことです。
以前にも書きましたが、
2016年から
本格的に城について学びだし
伊東潤の「城を攻める守る」
「歴史作家の城歩き」を
城についてのテキストとして読みます。
それから、歴史小説も読むようになりました。
そして、今、伊東潤のファンが参加する読書会にも参加しています。
京都で応仁の乱があった頃に
関東で起きた長尾景春の乱を取り上げた
「叛鬼」に2020年に出会います。
私が校長をしていた杉並区立三谷(さんや)小学校が
太田道灌が石神井城(長尾方の豊島氏)を攻める陣地の周辺にあったという事実
を知り驚きます。
校長を退任して10年以上経ってからのことです。
もし、この事実を在任中に知っていれば
三谷小学校での卒業生に対する私の授業の内容が変わっていたかも知れません。
でも、「維新と戦った男 大鳥圭介」との出会いは
教師伊東冨士雄と作家伊東潤が、
まったく偶然にも
それぞれの専門分野で
同じ歴史的事実を扱っていたことを示すものでした。
(わたしの勝手な解釈ですが)
こんな嬉しいことはありません。
函館で中島三郎助が死を選び、
大鳥圭介が生き残り明治維新で活躍するようになったかについても
本書を通して詳しく知りました。
中島三郎助終焉の地千代ヶ岡陣屋跡が
中島町となって
今、函館税務署になっています。
知識が広がること、
そして、既習の知識と構造的に
結びつくことを
実感することができました。