2019年12月25日。
ふうちゃんは今まで見たことのない美しいお城を見ました。
それは、浜松城の天守です。
三方原に向かう路線バスの中からです。
写真はありません。
ふうちゃんの心の中に刻まれたママなのです。
白内障の手術直後に初めて見たお城だったのです。
今回、久しぶりに浜松城に行きました。
可愛らしい天守をしっかりカメラに収めました。
お城に行く前にはままつフラワーパークで行われている浜名湖花博2024に行きました。
そこで、感動したのがこれです。
遠くから見ると出世大名家康君が見えます。
このような三角形の土地に花を植えていくのです。
近くから見ると
こんな感じにか見えません。
遠くから角度を付けてみると
初めのように家康君に見えます。
花をどのように植えるのかデザイン(設計)しているのです。
今の浜松城に行く前、曳馬(引馬)に行きました。
ひくまじょうと読みます。
場所は浜松城の天守から見える本丸の向こうの一番上の丸くなった森です。
磯田道史先生の解説です。
今は東照宮になっています。
家康は引馬は馬を引く負けを連想することから、浜松と改名しました。
もう一つ行ったところがあります。
椿姫観音堂です。
大河ドラマの田鶴役 関水渚さんの色紙
磯田先生の解説の冒頭
「飯尾豊前の守の城であったここ引馬城を開かせ」とあります。
豊前の守が暗殺された後、この城を最後まで奥方のお田鶴の方が守りました。
家康を相手に孤軍奮闘戦ったのです。
昨年の大河ドラマでもお田鶴の方の奮闘の様子が放送されていました。
「落城寸前のさなか、
緋縅(ひおどし)の鎧の白柄のなぎなた、
丈なす黒髪に純白の鉢巻きのお田鶴の方、
それを取り巻く鉢巻きにたすき掛け、
なぎなたを手にした18人の侍女が
主君のお田鶴の方を守り壮絶に戦いましたが
命を落としてしまいます。
家康公は、この地にお田鶴の方と侍女18人の亡骸を手厚く葬り、
塚を築き、洞を建てました。
母同士が義理の姉妹にあたる
家康公の正室「築山御前」も
塚の周りに百本あまりの椿を植え、
供養を営みました。
椿は毎年、美しい花を咲かせたことから、
いつかしら椿塚と呼ばれ、
それが椿姫の由来になったと言い伝えられています。」(現地にあったパンフレットより)
「敵ながら天晴れ」家康は認めたのでしょう。
そして、浜松城に向かいました。
城郭検定に取り組む中で、
浜松城は、天守台が天守曲輪の中にある珍しい城であることを知りましたが、
それを実感したいというのが
3回目になる今回の浜松城訪問の目的です。
天守曲輪の石垣と天守門(櫓門になっている)
石垣は野面で折れが入っているのがわかります。
天守の上から天守門をみます。
櫓が石垣に載っているのがよく分かります。
この角度から見ると浜松城の構造がよく分かります。
手前から本丸の石垣、ネットの向こうの石垣から天守櫓、櫓門になっている天守門、
そして天守がそびえています。
堀尾氏時代に創建された天守は17世紀姿を消し
江戸時代には天守がなかったそうです。
しかし、城主が6人老中、2人が大坂城代に登用され出世城と言われています。
この天守は昭和33年の復元です。
このようなことを実際に目で確かめ、訪問の目的を果たすことができました。
浜松と言えば。浜松餃子です。
浜松駅ビル1階にある石松という店で10個食べました。
久しぶりの新幹線を利用した城郭ウオッチングでした。
追伸
おまけの一枚新幹線からの富士山です。