ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第41回 ふうちゃんのお城ブログ 駿府城

2022-01-25 14:43:50 | 日本百名城

昨年の12月に駿府城に行きました。

家康が見ていたと思われる富士山が、

天守台発掘現場から見えました。

駿府城は天守台の発掘を行ってします。

その規模は、先日訪れた江戸城の天守台より、

はるかに大きいそうです。

 

江戸城天守台

 

各天守台と駿府城の大きさ比較です。

駿府城の天守台の大きさができる実感できるます。

 

家康が隠居をしてから天下普請で造られた慶長期の天守台です。

 

それ以前の天正期の天守の石垣も発見されました。

 

天正期の石垣からは300枚にも及ぶ金箔瓦が発見されました。

 

本丸に立つ家康像

 

 家康は駿府城の落成祝いに駆けつけた江戸増上寺の観智国史の

「どうして駿府に城を築いたのですか」

という問いに以下のように答えています。

① 子どもの頃ここに生活していて思い出の地である。

② 冬暖かい。

③ 米がおいしい。

④ 駿河は国堅固の地である。

⑤ 諸大名が江戸に行くのに遠回りしないで済む。

④は原文では

「南西に大井、安倍の瀑流あり。北東に箱根山・富士山の剣あり。要害最も堅固なり」

となっています。

家康は大御所になって、

自分が希望すれば何処にでも城を築くことが出来たのに

駿府を選んだのは、

駿府城を大坂方に対する前衛とするところにあったように

思われます。

駿府城は巽櫓、多門櫓、櫓門、高麗門、坤櫓が復元されています。

駿府を訪ねた英国大使は「日本渡航記」で

駿府はロンドンに匹敵すると述べているそうです。

(2021.12.21訪問)

 

 


第8回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ  ふうちゃんを城道(しろみち)へ誘ってくれた恩人杉渕尚さんを悼む

2022-01-21 09:48:00 | 日本百名城

 ありがたいことに本ブログを読んでくださる方が増えてきました。

前回は、今現在432のリアクションをいただきました。

わたし(ふうちゃん)とお城とのお付き合いの原点を知って頂くために

加筆・修正し再掲させて頂きます。

突然の訃報

Lineは2021年(令和3年)4月3日突然舞い込みました。

早朝、杉渕尚さんが亡くなったというのです。

杉渕さんは、わたしの城仲間の一人です。

そのとき、急にフラッシュバックしたシーンがあります。

それは、2015.10.30 広島県にある福山城です。

石段が向かってV字のように掛かっている合坂(あいざか)を前にして

「どちらが上り、どちらが下り」と質問しました。

「答えは左側通行なのですが、武士は刀を左側に挿しています。

通行しやすいのは刀が外側にある方ですよね。」

 

 合坂(これは福山城ではありません)

この場面がやけに印象に残り、5年以上経った今でもよく覚えています。

それ以来、社会科教育連盟の3・4年部会後の飲み会で

杉淵さんに城ついての質問をぶつけていたように思います。

そんな中で、日本百名城がについての話があります。

杉渕さんはもうすでに一周しており、

二周目に入っているとのことでした。

わたしも、ネットから百名城の一覧表をプリントアップし、

今まで何らかの形で訪れたことのある城をチェックしたところ、

58になりました。

これから、42周れば、100になる。

そんな軽い気持ちから100名城について興味をもち始めました。

適切なアドバイス

毎年宿泊旅行をしている大学時代の友人と、

大人の休日クラブきっぷを利用し北海道に行くことになりました。

私は名簿上日本100名城NO.1の根室チャシ跡群に行く計画について、杉渕さんに相談しました。

「釧路まで汽車で行き、周りの風景に触れながら、そこから先は、レンタカーがよい」

とのアドバイスをもらいました。

おかげで、景色を見ながら宿泊した霧多布でエゾニューの花を見ることができました。

わたしが学生の頃に流行ったさとう宗幸さんの岩尾別旅情の一節に

「丘の上に咲く一輪のエゾニューの花に寄れば」という歌詞が出てきます。

しかし、花の姿形は知りませんでした。

帰京して調べて、花の名前がエゾニューだとわかったときには、

50年来の思いびとに会ったような気がしました。

杉淵さんのアドバイスのおかげです。

エゾニューの花です。

根室チャシについてはこちらも参照

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=e6eae0c808786eab90f65f655d5f6a92&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD0x

それ以来わたしの城めぐりの計画について相談に乗ってもらうようになりました。
かなり無謀な計画を立てましたが、その都度適切な指導をして頂きました。
 
わたしに合わせた日程調整
 杉渕さんは、社会科教育連盟の3.4年部会の会員を中心に、
 お城について、Lineで情報を交換したり、
 実際にお城へ出掛けたりするお城部を作りました。
 お城に出掛ける際に、会員の中で最年長のわたしは、日程やコースについて、優遇してもらったと思っています。
 杉渕さんにわたしの希望を伝えると、
 それに合わせて仲間を募り、実現してもらいました。
 とてもありがたいことです。
 こんな具合です。
 2017年当時、東京に日本100名城が2つありました。
 江戸城と八王子城です。
(現在は続日本100名城の品川台場と滝山城の2つが加わりました。)
「八王子城に行きたいんだけど、都合つきませんか」
これだけで、2017.7.9に実現しました。
杉渕さんは、お城部で仲間を募ったり、
 現地で地図の復元に取り組んでいる方に連絡をとり、
 ボランティアガイドをお願いしたりしました。
猛暑日が予想されたので、
前日からカチンカチンに凍らせたペットボトル用意するおまけもつきました。
そのとき写した八王子城の石仏です。

 訃報を頂いたとき、ご家族にお悔やみを述べるハガキに、

 この写真を使っていますが、

 まさか、杉渕さんに使うことになるなんて。

 春日山城へは、こんなわたしの願いを実現するために行ったと言ってもいいでしょう。

「越中おわらと直江兼続の史跡めぐりというツアーで、

 春日山城の石坂浩二に似ていると言われる謙信像の前まで行ったのだけれど、

 春日山の上まで登らないで戻ってきたんだよね」

「そうなんですか。上は日本海まで見えますよ。」

そんな会話の数日後、

「10.28に何とかなりませんか」とわたし。

それが何とかなったのです。

鮫ヶ尾城、高田城、春日山城、富山城、高岡城、増山城の豪華ツアーでした。

念願の春日山頂上

謙信も見た日本海直江津

 

 

 

 

 

 

 

 

 

情報の提供

杉渕さんが豊富な情報を提供してくれたおかげで、

わたしの城めぐりはどれだけ豊かになったことでしょう。

群馬県にある岩櫃(いわびつ)城です。

NHK大河ドラマ真田丸を見るまでこの城のことをわたしは知りませんでした。

真田昌幸が織田・武田連合軍に追われた武田勝頼を岩櫃城に招きます。

しかし、勝頼は小山田信茂を頼り岩殿城を目指しますが、裏切りにあい、天目山麓の田野で生涯を閉じます。

 以前に行った時には、昌幸が勝頼を住まわせるために設けた潜龍院に行けませんでした。

 ある時、杉渕さんがlineで、潜龍院の存在をお城部の会員に知らせる情報を流しました。

 そのおかげで、2回目に岩櫃城に行くとき、潜龍院に行くことができたのです。

 また、秀吉が唐入りのために設けた名護屋城ですが、

 一人で行ったときには十分に理解出来なかった城割り(破城)の様子について説明してもらったことが、

 つい昨日のことのように思いだされます。

 2019.8.のことです。

岩櫃城

潜龍院

名護屋城

算木積みを壊した石垣(効果的な城割)

最初で最後の2人だけの城めぐり2019.10.1能島城

杉渕さんから「1日の都民の日に能島城に行くのですが一緒に行きませんか」

と誘われました。

能島城は、福江城(五島)、金田城(対馬)と並んで続百名城の中では行きにくい城だと言われいます。

前2城をクリアしているわたしには、これで続百名城達成が視野に入ってきます。

もちろん即決です。

このとき、行ったおかげで、能島城の他にも、2ついいことがありました。

1  これは、わたしだけの事です。

  岡山城西の丸西手櫓が普段入れない廃校になった小学校の校庭の中からみれたことです

岡山城西の丸西手櫓

次は2人共通の話題です。

お城ではなくカブトガニです。

生きた花石と言われるカブトガニの保護に取り組んだ岡山県笠岡市の高校の先生と高校生の話が国語の教材にありました。

行ってみたくても交通の便が良くないので後回になっていたのです。

いよいよ能島城に向かいます。

やまなみハイウェイ快適にドライブし、

村上海賊ミュージアムにつきました。

この対岸が能島です。

このときは台風被害の影響で能島には、

上陸できませんでした。

周辺のクルージングを、村上海賊の子孫と思しき船長の見事な操船でしました。

瀬戸内海というと波が静かなイメージがありますが、

このような急流があるのですね。

杉渕さんから、村上龍の「海賊の娘」と城山三郎の「秀吉と武吉」の2冊を紹介されました。

いつものように帰京してから文献研究をしました。

能島城

潮の流れが急な能島城周辺

能島城への旅が、2人だけの最初で最期の旅になってしまうなんて信じられません。

杉淵尚さんの死を悼む

2017.3に玉川大学を定年退職し、2年後に東京学芸大学を退職するとき、

妻から、

「あなたこれからどうするのですか」と訪ねられました。

 わたしは即座に

「お城があるから大丈夫」と答えました。

このような答えができたのは、

杉淵尚さんの存在なくして考えられません。

あなたは、わたしの城道(しろみち)への良き伝導者でありました。

このブログを書きながら、しみじみそう思います。

百名城、続百名城すべてに行くことがができたのも、

ともに城道を歩き、

また、適切な情報を惜しげもなく提供してくれた

 杉淵尚さん

 あなたがいたからです。

 命のある限りこの道を歩いていきます。

 本当にありがとうございました。

 心から、ご冥福をお祈りします。

最後に、あなたや都小社研の仲間と全小社研岐阜大会後の巡検で行った、

郡上八幡城の写真で終わります。

 


第3回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ スタンプ集めにこだわった遠くのお城(北海道根室チャシ)

2022-01-17 09:40:14 | 日本百名城

 今から50年前の学生時代から冬の北海道へのあこがれをもっています。

 大学4年の2月に均一周遊券を使って北海道一周旅行の計画を立て

 ユースホステルの予約も済ませ、出発するだけになっていました。

 しかし、就職関係の連絡が来ないので、中止せざるを得なくなりました。

 今と違って携帯電話のない時代で、

 連絡手段は家の固定電話しかありませんでした。

 それ以来冬の北海道への憧れがあり、

 何回も冬の北海道に行っています。

 3年前(2019年)の1月に、大人の休日きっぷを利用して釧路へ。

 釧路から花咲線を利用して根室を向かいました。

 

 エゾシカに衝突しないように、

 警笛を鳴らしながら走っていることがとても印象的でした。

 

 さて、ここからは、日本百名城めぐりです。

 日本100名城の公式ガイドブック(日本城郭協会監修)の一番最初に紹介されているのが、

 根室半島チャシ跡群です。

 この公式ガイドブックを通してその「チャシ」なるもの存在を

 わたしは初めて知りました。

 同書には「チャシ」とは、砦や柵による囲いを意味するアイヌ語である。

 チャシは、16~18世紀につくられ、戦闘・祭事・集会など多目的に使

 われていたようである。

 とあります。

 アイヌのお城なのです。

 天守、石垣というわたしたちが普通にもっているお城の雰囲気とは違います。

 写真をご覧ください。2019.1.27のものです。

 

 冬の道東根室オンネモトチャシです。

 強い寒風にさらされ、

 立っているのがやっとの状態でした。

 毛糸の帽子が葺く飛ばされてしまいかぶっていません。

 雪も降るのですが強風に吹き飛ばされほとんと足下にありません。

 よい体験でした。 

 アイヌの人たちはこのようなところによくお城を作ったと思います。

 ところで、実は、これは、二回目の訪問なのです。

  一回目は2016.6.25です。

 百名城の存在を知りはじめた頃、

 NO1にランクされているチャシに魅力をもったのです。

 しかし、このとき、まだ、百名城のスタンプ集めをしていませでした。

 だから、スタンプを集めるために上記の二回目に行ったことになります。

 物好きと言えばそれまでになります。

 そのスタンプがこれです。根室駅の隣の観光施設にあります。

 百名城のスタンプのスタンプの中でも根室半島 群跡は、

 手に入れくいものの一つだと、

 テレビのお城番組で言っていました。

 スタンプ集めも、お城巡りの楽しみの一つだと言ってよいでしょう。

 ご朱印からヒントを得た御城印なるものが最近各城で出回っています。

 わたしは、まだ、集めていません。

 チャシの雰囲気を伝える二枚の写真を、次に載せます。

 これは、一回目、初夏のものです。


第9回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ 子どもたちと何回も行ったことのある松本城

2022-01-13 14:43:14 | 日本百名城

 江戸時代またはそれ以前に造られて、

 今存在している現存天守は

  12あります。

 弘前城、松本城、犬山城、丸岡城、彦根城、姫路城、

 備中松山城、松江城、丸亀城、高知城、宇和島城、松山城です。

 この中でどれが一番好きかと問われたら

 松本城と答えます。

 それは、以下のようなことのためかもしれません。

 小学校の教員をしていたとき、

 夏休みの林間学校で、6年生の子どもたちと中房温泉(https://nakabusa.com/)に宿泊し、

 燕(つばくろ)岳(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E5%B2%B3)に登山をしていました。

 松本駅から中房温泉までの行程で、必ず松本城を見学していました。

 担任として、引率教員として、実地踏査要員として、合計10以上行ったことがあります。

  こんな多くの回数行った城は、地元の江戸城を除いてないと思います。

 これは、わたしが写した一番好きな松本城の写真です。

なぜかというと,

国宝の建物が全て写っているからです。

左から、月見櫓、辰巳附櫓、天守、渡櫓(少し見えにくい)、乾小天守となります。

 

社会科教師であっても、

特に、お城に特別な関心がなかったわたしは、

子どもたちに、

今、国宝のお城が5つ(当時は4つ)あり、

江戸時代から今まで現存するお城は12しかないこと、

など城に関する基本的な知識さえ話すことができませんでした。

何しろ本ブログ第8回で述べましたが、

わたしが城に関心をもち、城の知識をもつようになったのは、

平成27年(2015)10.30、故杉渕さんと福山城に行って以来なのですから。

第8回ふうちゃんのお城ブログ  ふうちゃんを城道(しろみち)へ誘ってくれた恩人杉渕尚さんを悼む - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

今ならどんな話ができるか、松本城を見るたびに考えます。

 これは、長野県聖火リレー最終ランナーの小平奈緒さんと松本城です。

 2021年4月2日のことです。

 わたしはこれを軽井沢にいてipadの画面を通してみていました。

 軽井沢から車で2時間近くかかる松本の映を

 リアルタイムで見ることができる。

 いや、日本中の人が小平奈緒さんと松本城の映像をリアルタイムで目にすることができる。

 待てよ、これはインターネットだ。

 世界中の人が同時に見ることができるのだ。

 日本の美しい光景を同時に見ることが出来る。

 こんな教材ウオッチングをしました。

 国際化、情報化の教材として使えそうです。

 さて、松本城そのものについてはどうでしょうか。

 わたしが、松本城に子どもたちを、連れて行って頃と違って、

強い味方があるのです。

 それが、これです。

 副読本です。

 松本市教育委員会が、

 平成29年に松本市内小学生の社会科、総合的な学習の時間の学習のために発行しました。

 わたしは、松本城内の売店で1000円で購入しました。

 実際に、松本市内の学校で、これを活用してどのような授業が展開されているのか、

まだ調べていません。

 以下の内容を目にすれば、教材ウオッチングの心がうずきます。

 目次です。

  お城の案内にとどまらず、

  地域の歴史、

  歴代城主の業績エピソード、

  松本市民と松本城との関わりについても触れています。

  

  明治になって、門、屛、櫓、堀などが次々に取り壊され、

  天守が売りに出され取り壊されそうになりました。

  そのときのことを、副読本では以下のように紹介しています。

  明治5年(1872年)下横田町の副戸長(副町長にあたる)をつとめていた市川量造は、

  なんとしても由緒ある天守を残したいと考えました。

  新聞で人々に残すことの大切さを知らせ、

  人々に新しい産業をおこす知識を広めようと、

  天守を会場にして博覧会を開くことを計画しました。

  市川量造らの努力が実って、

  明治9年(1876年)までに博覧会は5回開かれました。

  市川量造は自分でお金を出し、

  また、人々から寄付を募って松本城天守を買い戻し、

  取り壊しの危機から救いました。

 

 松本市のこの副読本作成の取組はすばらしいと思います。

 東京都でお城を教材にするのは、どのような方法があるのか、東京らしい方法で。

 故杉渕さんと話題にすることはありましたが、

 まだ、具体化に至ってはいません。

 最近、社会科見学のコースの中に江戸城本丸、

 天守台を入れている学校があることを聞いたことがあります。

 杉並区の学校がバスで青梅街道を通って江戸城に行くなら、

「今バスが走っているこの青梅街道は、

 徳川家康が江戸城を作るために必要な石灰を青梅の成木から運ぶために作った」

 という話を車中で校長が話して聞かせることはどうかな?

 なんてこれを書きながら考えています。

 江戸城天守台です。

明暦大火後、加賀藩が作りました。

しかし、天守は保科正之の市民生活の復興が第一の考えで再建されませんでした。

 

松本城の話からいろいろ広がってしまいました。

わたしの好きな松本城。

昨年、12現存天守から一枚選んでカードを作る機会がありました。

このカードです。

わたしが松本城を訪ねたのは全て夏です。

これから四季の松本城を訪ねたいと思っています。

 

 

 


第40回 ふうちゃんのお城ブログ 続々小諸城

2022-01-10 14:59:29 | 日本百名城

今年初めての城廻は軽井沢から最も近い城小諸城です。

本ブログでは、小諸城を2回取り上げています。

第6回ふうちゃんのお城ブログ 学生時代から何度も訪れた城(小諸城) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

第7回ふうちゃんのお城ブログ 続小諸城(少しつれづれなるままに) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

今回で3回目となります。

懐古園の額のあるお馴染みの三の門です。

明和2年(1742)に再建された現存の櫓門です。

2020.7の大雨で三の門の石垣と塀の一部が崩壊したので、

災害復旧工事がおこなわれています。

 

年末に行われたお城に関するイベントあるで次のことが問われました。

小諸城の現存の門は次の組合わせのどれでしょう。

1 大手門と二の門

2 大手門と三の門

3 二の門と三の門

4 一の門と二の丸西門

答えをお知らせする前にわたしがどのように考えたのかをたどっていきます。

冒頭で書いたように三の門は

明和2年(1742)に再建された現存の櫓門です。

だから、答えは2か3と言うことになります。

わたしは小諸城というより懐古園には学生の時から何回も行っています。

しかし、大手門に行ったのは第7回で行ったときが初めてでした。

でも、第7回では大手門について触れていません。

理解が浅かったのです。

この解説を読み、最後の五行目

「平成20年、江戸時代の姿に復元されました。」

の「復元」が頭に残っていた程度です。

わたしの頭は「大手門は復元だ」と理解してこの問題に臨みました。

すると、大手門は復元なのだから

現存は二の門ということになります。

しかし、小諸城の二の門は

礎石と石垣が残るだけで、現存の門なんてありません。

すると、大手門が現存でなければなりません。

今回、よく探してみると先程の解説(この解説そのまま健在です)

とは別の場所に

新しい解説がありました。

重要文化財の解説の所にこのように書かれています。

「大手門またはの名を瓦門といい、小諸城主仙石秀久が築造した正門です。

現存の門は、

慶長17年(1612)年の建立と言われています。

近世初頭の大型の城門として、

日本の城門発展の過程を知るうえの価値が高く重要な建物です。」

別の資料(こもろ観光局のインターネット)には、

「明治期には、民間に払い下げられ、

料亭や小諸義塾の仮校舎のとして

利用されていた時期もありましたが、

平成に入って小諸市に寄贈されました。

平成の大改修、復元修理を経て、

仙石秀久による創建当時の姿によみがえっています。」

現存と言うからには何か残っていなければならないと思います。

「現存」と「復元」の言葉の使い方を明確にしていく必要があります。

兎に角ここでは、大手門は現存の櫓門ということにしておきましょう。

問題の正解は

「2 大手門と三の門」ということになります。

 

さて、冬の小諸城を訪ねることによって第7回で触れた

地獄谷(酔月橋)浅間軽石流で出来た断崖をはっきり目にすることが出来ました。

冬は木が枯れているので地表が見やすいのです。

 

冬の千曲川の景観もまわえました。

そして、いつ見ても素晴らしいのは天守の石垣です。

雪が被った石垣も格別です。

(2022.1.6 訪問)