ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第18回 城郭検定を通して(七尾城について)

2021-07-19 20:05:13 | 旅行

城郭検定での七尾城との出会い

2019.6.9 今から2年前のことです。

城郭検定準1級に水道橋にある日大法学部で取り組んでいました。

問1からマークシートで解答を続け、問97にさしかかりました。

「何だこれは!」

読み下しのない漢文が出てきました。

今まで過去問を解いてきましたが、

漢文がそのまま出てきたことはありません。

大学入試の国語以来です。

問題は、

上杉謙信がある城を攻略した時に

「霜滿軍營秋氣淸数行過雁月三更越山併得能洲景莫遮遠征遠征」

の漢詩を詠んだが、その城はどれか。

1 鳥越城 2 増山城 3 小松城 4七尾城

というものです。

これを見たときに

「やった」とおもいました。

何だかこれで試験に受かったような気がしてきたのです。

たまたま前日ベットの中で読んだ

伊東潤「城を攻め守る 城を守る」の中に

この詩が出てきたからです。

この詩の意味は同書によりますと

霜は軍営に満ち、

秋の気配が清々しい。

真夜中の月に雁が列をなして飛ぶ。

越後と越中だけでなく能登の景色も眺めることができた。

(三国を制したという意)

故郷の人々は、遠征のこの身を案じているだろうが、

そんなことはどうでもよい。

この漢詩は、江戸期の思想家・頼山陽が、このときの謙信の気持ちを代弁して書いたものと

されるが、謙信の天を衝くばかりの意気を見事に表している。

というのも当時、能登半島随一の大要害である七尾城を攻略するなど、神仏でもできないと

思われていたからである。伊東潤「城を攻める 城を守る」P141~142

 

そのときの謙信の気持ちと、試験を受けているわたしの気持ちが同化しているように

思えてならないからです。

もちろん、試験には合格しました。

試験場でいきなりこの漢文にであったのであれば、あせりを感じていたかもしれません。

謙信がみた能洲の景

実は、わたしは試験の以前、2016.11.1に七尾城を訪れ、謙信が見た能洲の景をみています。

もちろん、謙信もこの景色を見たと言うことで感動したのを覚えています。

しかし、伊東潤の本に出会った後であれば、感動もより深いものになったことでしょう。

再度、七尾城との出会い

また、七尾城には、1級の勉強の過程で次の過去問題に出会いました。

石川県の 七尾城には、九尺石とよばれる巨石が虎口に積まれているが、それはどの曲輪か。
1.遊佐屋敷曲輪
2.長盛屋敷曲輪
3.温井屋敷曲輪
4.調度丸曲輪

答えは 3.温井屋敷曲輪なのですが、九尺石を見た記憶がありません。

わたしが、七尾城を訪れた時点で九尺石のことがインプットされてなかったので

おそらく、スルーしたものと思われます。

この道標の九尺石の方には行かなかったのです。

次回、七尾城を訪れたときには

1 「城を攻め 城を守る」を踏まえ謙信の見た能洲の景により浸る。

2 9尺石を見る。

を楽しみたいと思います。

9尺石については、過去問が七尾城をみる新たな視点を提供してくれたと言えます。

 

ブログ執筆と検定試験の基本姿勢(スタンス)

最後に、このブログ執筆と検定試験の基本的姿勢(スタンス)について、述べて起きます。

平成4年秋、滋賀県立教育総合センターを指導主事会の研修で訪れました。

当時、滋賀県へ琵琶湖の水質汚染に取組み環境教育の先進地域でした。

環境教育推進の具体的なポイントとして、

県が所管するあらゆる試験(高校入試から管理職試験に至るまで)で環境教育に関す出題す

る出題するというものです。

わたしは、このことから、試験問題の中には、行政推進のためのメッセージが込められてい

ることを学びました。

以上のことから、城郭検定の問題には、お城の理解を深めるための視点やメッセージが込め

られていると受け止めます。

このような基本姿勢で、これからもお城について語っていきます。

 

 

 

 

 


第16回ふうちゃんのお城ブログ 早稲田大学大隈重信像を前にして(国宝 彦根城と大隈さん)

2021-07-09 17:31:33 | 旅行

東京生まれ、東京育ちで72歳になるわたしが

初めて早稲田大学に行き大隈重信さんの銅像に対面しました。

大隈さんにはいろいろな業績があります。

お城との関係で言いますと、

彦根城が現存12天守の一つとして、

5つある国宝天守の一つとして

今日存在しているのは、

大隈重信さんのおかげなのです。

明治維新後、お城は文化財としての価値が広く一般に認められず、

軍の施設になったり、壊されたりしました。

彦根城も危なかったそうです。

北陸巡行を終え、彦根に立ち寄った明治天皇に、

大隈さんが、彦根城の保存の必要性を訴えたとのことです。

天皇は大隈さんに同意され、宮内卿徳大寺実則を通じて

保存を命じられたそうです。

今、この彦根城を目に出来るのも、

わたしのリュックにひこにゃんがいるのも

大隈さんのおかげなのです。

大隈さんありがとうございます。

 

さて、ここで、クイズです。

彦根城の天守には、お寺にあるような華頭窓があります。

2重と3重に見えます。

こちらの写真からよく見えます。

彦根城の天守に華頭窓はいくつあるでしょう。

1 六 2 十二 3 十五 4 十八

考えて頂けたら嬉しいです。

答えは次回に掲載します。


第14回ふうちゃんのお城ブログ 幻の江戸城めぐり(九月実施の可能性)

2021-06-22 12:58:53 | 旅行

久しぶりの投稿です。

 

幻の江戸城めぐり(2020.3.10)

大田区退職校長会の歴史散歩の会で江戸城めぐりの計画を立てたのですが

延期をしたまま今日に至っています。

9月に歴史散歩の会の再開第1回として、江戸城巡りを予定しているという

会長からのLINEが入りました。

皇居東御苑も月6月8日から公開を再開したので、

ワクチン接種第2回目終了後

実踏を行い、実施に備えようと思っています。

 

主なコース(見学のポイント)は2時間で

 

九段下2番出口集合

1牛ヶ淵と土塁(腰巻き土塁、鉢巻き土塁)

2牛ヶ淵と千鳥ヶ淵の水面の比較(水戸違い水量の調整)

3田安門(江戸城で最も古い桝形虎口の城門)

4近衛第一連隊、近衛第二連隊跡

5気象庁施設

6吉田茂像

7清水堀・牛ヶ淵(水戸違い・水量の調整)

8清水門(二重桝形、幅広い階段、青海波、二引き両)

9竹橋門跡

10平川濠(高石垣、折れ)

11北詰橋・北詰門

12天守台(切込接の完成形、算木積)

13天神濠

14平川門(搦手門、大奥女中、時間厳禁、石狭間)

15帯曲輪門・山里門(不浄門、死人、罪人)

16パレスサイドビル屋上(江戸城全景)

竹橋駅解散

ここでは予告編として、何枚かの写真を載せます。

 

これは日本武道館(タマネギ)に行くときに知らず知らず通っている

田安門です。(武道館・タマネギが左に見えます)

明暦の大火でほとんどの建物が焼けてしまった中で

焼け残った、今ある江戸城の建物の中で最も古い建物です。

それを証明するのが次の写真です。

上の櫓門とセットになって桝形を造っている高麗門の扉の金具(肘壺)に書かれている

銘文です。

寛永十三年(1634)丙子暦

九月吉日

九州豊後住人

御石火矢大工

渡辺石見守康直作

明暦の大火は、明暦3年(1657)に起きている。

寛文13年(1634)年に出来た田安門は明暦の大火以前にできて、

今日まで建っている。

江戸城で最も古い建物なのです。

この最も古い門をくぐり、わたしたちの城廻は始まります。

 

江戸城は武蔵野台地の端にあり、結構起伏があります。

お濠の水を一定の水位に保つには、水位の調整が必要になります。

手前(牛ヶ淵)と向こう(清水濠)で水位が違う事が分かると思います。

土橋にかかる石橋が水位調整の役割を果たしています。

手前(牛ヶ淵)の水が急激に向こう(清水濠)に流れないように工夫しています。

 

これは、平川門櫓門のお城側からみたところです。

ここは搦手門で大奥の女中さんはここから出入りしていました。

時間厳守だったようで、春日局でさえ、時間を守らなかったときには通して

もらえなかったようです。

平川門にはその隣に別の門があります。

これです。

死人と罪人を通す門(山里門)です。

生きてここを通ったのは、

忠臣蔵の浅野内匠頭

絵島・生島事件の絵島

の2人だけだったそうです。

 

ここまで、何枚かの写真で見学のポイント

に触れてみました。

早く、城廻(城郭ウオッチング)に出かけたいと思います。

 


第7回ふうちゃんのお城ブログ 続小諸城(少しつれづれなるままに)

2021-04-01 17:39:19 | 旅行

小諸城への目的は、その3特色ある地形ですが、あまり得意ではありません。

例によって、小諸城に行ってからしばらくして、萩原さち子さんの本読んでいたら小諸城について、以下のように書いてありました。

扇状地につくられた城といえば、小諸城だ。最寄りの小諸インターを降りて車を市街地に向かって走らせると、ジェットコースターに乗っているかのようにぐんぐん降下していく。小諸は谷底の街という感じだ。

 隣町の軽井沢にいると、小諸へは、国道18号やバイパス浅間サンラインを利用して小諸にいくのですが、千曲川に向かって車が進んでいるときに「ジェットコースター」状態を感じます。言い得て妙な表現だと思います。みなさんにも実感して欲しいくらいです。この小諸城、谷底の奥がまだあって、千曲川の断崖になっています。それが、穴城といわれているのだと思います。

さて、萩原さんの説明は続きます。

田切り地形と呼ばれる、この地域の特有の地形で、約11000~14000年前に浅間山から噴出した小諸火砕流の堆積、千曲川の浸食によって河岸段丘した場所に小諸城は築かれている。 地獄谷(酔月橋)の景観は圧巻で、浅間軽石流で形成された断崖が目の当たりにできる。

酔月橋

酔月橋の上から浅間軽石流の断崖が見えます。


その4 鉄道とお城の位置

線路越しに見る三の丸門、二階櫓の部分です。

わたしのカメラを構えている後ろに大手門があります。

大手門はお城の表玄関です。表玄関を入ればお城の敷地です。

これは、どんなことを意味しているのでしょうか。

大手門、わたしのいる所、線路、三の丸門、二の丸、本丸天守台という位置関係になります。

そうです。

お城の敷地の中を鉄道が通っているのです。

明治21年(1888年)に小諸駅が開業していますから、それ以前に線路が敷かれました。 同様にお城の敷地を跨いで線路が至る所にあります。わたしが行って確認したのは、長岡城、甲府城、三原城、福山城、水戸城、山形城です。その中でも典型的なのが長岡城です。長岡城の本丸を駅にしてしまったのです。

さて、小諸藩ですが、長岡藩と関係が深くどちらも戊辰戦争では、幕府側でした。 

しかし、大手門で案内しているボランティアの方の話では、城外に鉄道を通す話が当初あったのですが、近くで養蚕業を営んでいた方の反対で城地を通すことになったとのことです。列車からでる煙が蚕に悪い影響を与えることを心配していたそうです。

 鉄道の敷地の位置とお城の関係、わたしにとって、教材・城郭ウオッチングのテーマの一つになっています。

 

その5 城より蕎麦(付け足しだが、本音かも)

小諸藩、そして、上田藩を治めた仙谷氏。その仙谷氏が今の兵庫県の日本海側出石(いずし)に転封になりました。そのときに、信州蕎麦の職人を一緒に連れて行き、蕎麦を出石の名物にした。大名にとって自分の領地の産業を発達させることは、大事なことなのですね。

小諸の蕎麦店に、有名な草笛があります。軽井沢に行くと佐久平店を利用してますが、この日は三の丸門の近くの小諸本店に行ってみました。

草笛小諸本店の小諸蕎麦(佐久平店にはない)

出石でも、もちろん、「城より蕎麦」をしてきました。

出石「花水」の皿そば

 出し方は出石には特色がありますが、味が似ているような気がしたのは、わたしのまったくの私見です。

 

 

 

 

 


第4回ふうちゃんのお城ブログ 戦火をいくつもくぐり抜けてきたのに(松前城天守)

2021-03-23 12:08:52 | 旅行

松前城は嘉永2年(1849年)築城の許可おりて、やっと築城された北海道唯一の日本式のお城です。

松前城本丸御門(上)、本丸御殿玄関(下)です。松前城で現存している建物です。

それ以前は慶長5年(1600年)から築かれた福山館という陣屋がありましたが、外国船の出没に備えて

守りを固めるために本格的なお城が必要になったのです。7基の砲台と25門の大砲を備えていましたが、

海への防備が主体になっていたため、背後が手薄でした。

砲台跡です。

戊辰戦争の際土方歳三らの旧幕府軍に背後から攻められて落城しました。

天守の石垣に残る戊辰戦争時の砲弾の跡です。

しかし、天守は残ったのです。太平洋戦争で多くの天守が焼失する中で、松前城の天守は健在でした。

ところが、昭和24年(1949年)近くの役場からした出火した火が燃え移り焼失していまいました。

今、12の現存天守がありますが、松前城の天守があれば、13現存天守ということになったはずです。

昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリートで再建された天守です。

今、木造の天守を復元しようと計画が話題になっているそうです。

現在の松前城全景(雪景色)なかなか趣があります。

戊辰戦争などをくぐり抜けたきた本丸御門と再建の天守

戦火をいくつもくぐり抜けてきたのに、天守が失火したことは、残念でたまりません。

今あれば、国宝に指定されたのではと言われています。