コロナで外出ができなかった2020年夏
読書三昧の日々を過ごしていました。
伊東潤の「叛鬼」を読みました。
室町時代中期1477年関東平野を2分する
長尾景春の乱が起きます。
叛旗に長尾景春側の豊島泰経(石神井城)泰明(練馬城)兄弟と
太田道灌(江戸城)の戦いの場面が描かれています。
①「4月13日、道灌が豊島泰明の籠もる練馬城(西武園遊園地あったところ)に迫った。
しかし、城の守りが堅いことを知った道灌は、練馬城下を焼き払っただけで反転する。
この知らせを受けた泰明の兄泰経は石神井城から出撃、
弟の泰明も練馬城を出て、道灌の追撃に移った。
豊島兄弟が妙正寺川河畔に達したときである。
葦原の間から突如として現れた伏兵が豊島勢を襲った。
慌てた豊島勢はいったん兵を引こうとしたが、
周辺は沼沢地で進退がままならない。
四周から猛烈な矢箭(やせん)を浴びた泰明勢は、泰経勢も巻き込んで潰走した。
豊島勢の追撃に移った道灌は江古田原と沼袋で二度にわたり豊島勢を撃破、
練馬城に逃げ帰ろうとする泰明を討ち取った。
地の利のある豊島兄弟も道灌の軍略の前では赤子も同然だった。」
②「いったん江戸城に戻り、軍備を整えた道灌は、石神井城に逃げ込んだ泰経を追い
14日、石神井城近郊の愛宕山に陣を布いた」
③「万策尽きた豊島泰経は18日、降伏を申し出る」
「道灌は、いったん泰経の降伏を受け入れたものの
道灌の命じた城の破却と退去期日を守らない泰経に疑念を抱き
21日、突如として攻撃を再開、28日にこれを攻略した。
泰経は命からがら逃亡した」
長々と引用しましたが、これからの話は②14日太字の部分です。
地図を見てください。
ネットでこの地図と解説「太田道灌の石神井城城攻めの道を行く」
を見つけたときはしびれました。
太田道灌が戦勝祈願をして槇の木を植えた荻窪八幡宮、
そして、
道灌が陣幕を張った小美野邸
道灌坂、道灌掘公園、道灌橋跡碑
そして、中心に「文」三谷小学校(小学校を示す地図記号)
が目に飛び込んできました。
それから、
道灌山(杉並区上井草スポーツセンター)
観音山(都立井草高校)
叛旗にも登場する愛宕山(早稲田高等学院)も、
すべての道は石神井城に繋がっているのです。
特に太字で示した部分
何とわたしが平成18年(2006)4月から平成21年(2009)3月まで
校長をしていた杉並区立三谷小学校の周辺なのです。
史跡のど真ん中で3年間くらしていたことになります。
しかし、そのことに叛旗とこの地図を見るまで
歴史的意味の重要性に気付いていなかったのです。
それまでのわたしの太田道灌に関する知識と言えば
1 江戸城をつくった。
2「七重八重花は咲けども山吹の蓑ひとつだになきぞ悲しき」という歌を詠んだ。
の2つくらいです。
学区の周りが太田道灌にかかわる史跡であふれているのです。
石神井城と三谷小学校の位置関係を線として実感できていなかった。
石神井城の存在そのもの
太田道灌が石神井城を攻めたことの意味が、
歴史的事実として実感されていたとも言えません。
これを教材にしない手はないと今になって思うのです。
そこで改めて、
わたしの在任中に発行した「新わたしたちの三谷」(創立50年記念副読本)
を調べてみました。
ありました!!!
道灌橋についての記述が旧道灌橋の写真入りで。
今回再認識しましたが
この記念碑には当時あった石橋の一部を使用したとのことです。
道灌橋之跡碑(2022.3.30伊東撮影)
今くらいのお城に関する知識があれば,
この副読本を生かして校長の卒業記念授業ができたと思います。
当時は上杉鷹山を取り上げた授業をしていました。
伊東冨士雄著 小学校社会科「新教材」授業設計プラン 2009.9明治図書参照
お城の勉強を始めたのは前にも書きましたが
校長を退職し、第2の就職である大学の仕事の終盤、
平成28年(2016)になってからです。
校長時代の10年後です。
それ以前のわたしには、道灌の江戸城をつくったという歴史的事実以外は、
認識の外にあったと言えます。
太田道灌を知るようになったのは、
主に、伊東潤の城に関する著作や小説からです。
例えば、
永享4年(1432)相模守護・扇谷上杉氏の家宰を務める太田氏の嫡男として生まれる。
幼少時からその才は傑出し、9才から15才まで預けられた鎌倉五山の学所では「五山無双」と言われた。
長尾景春の乱で扇谷上杉氏として山内上杉氏に味方し長尾景春と戦った。
様々な戦いや調略でその力を遺憾なく発揮し勝利を治めた。
そのあまり、上司に妬まれて暗殺された。
歴史作家の城めぐりには、以下の狂歌が紹介されています。
「小机は、まず手習いのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」
(小机城なんざ手習いの初めのようなもので、いろはにほへと書くように落として見せるさ)
石神井城で行方不明になった豊島泰経が、
道灌に小机城でほろぼされたときものと言われています。
偽作とい説もありますが、
道灌の自信と傲慢さがよみとれるかもしれません。
コロナ禍でなかなか行けなかったのですが、
2022.3.30、10年ぶりにもとの職場の周辺をお城の視点で散策できました。
三谷小学校周辺には、道灌に関わる史跡がありました。
道灌橋公園と三谷小学校
公園を右に曲がった所に道灌橋之碑があります。
橋跡と橋が架かっていた井草川暗渠
この暗渠を通勤時毎日歩いていました。
ここが道灌坂の一番低いところです。
道灌坂
一番低いところが上の写真の井草川暗渠 道灌橋ノ跡碑道灌橋之跡碑と道灌橋公園があります
道灌公園
道灌の名前の付いた公園です。陣幕といわれた小美野邸近くにあります。
道玄坂を北上します。
道灌山、観音山、愛宕山の三箇所に
道灌は陣を張ったと言われています。
上井草スポーツセンター(道灌山)
都立井草高等学校(観音山)
早稲田高等学院(愛宕山)
そして、石神井城址
石神井城土塁と空堀
11月の文化の日の近くになると公開されます。この写真は公開時のものです。
最後に道灌が戦勝祈願をした荻窪八幡宮の道灌槇
鳥居の真ん中に伸びる高い木ご神木になっています。
今から545年前に展開された太田道灌と豊島泰経・経明兄弟の戦いの跡を
半日かけて廻った来ました。
13年前に道灌について知っていたらと思うと
残念ですが、
新たな学びには、後悔よりも新たな展開が待っていることを期待しています。