ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第66回ふうちゃんのお城ブログ 町田市の町内会での講演

2023-02-21 20:36:52 | 日本百名城

19日(日)東京都町田市の町内会で

講演をさせていただきました。

演題は

「小学生にもわかるお城の話」でした。

主催者から所感をLINEでお寄せいただきました。

 

『「小学生にもわかるお城の話」

「お城の話で交流会」を、

地元ゆかりの伊東冨士雄先生をお招きして開催しました。

(*かつてわたしは町田市教育委員会と玉川大学に勤務したことがあります)

先生から「現存12天守」の授業を受け、

参加者全員が「お城」にまつわる様々な思いを語り合い、

笑顔で楽しい時を過ごしました。

「日本には約3万の城があるといわれている」

「国宝の天守は5城ある」

「天守や櫓だけがお城ではない」等々、

会場からは

「へー、そうなんだ!」との声が聞こえました。

現存12天守は天災や戦災に耐えて「400年間生き延びた」ものであり、

「城」は殿様だけを守るものでなく領民を守る機能を持っていたこと、

などなど「お城」の深い見方を学びました。』

 

参加者は、

小学生2人

大人(元小学生)17人でした。

写真最前列、わたしと向かい合っている2人が小学生です。

 

このときの様子が前掲のLINEに記述されています。

 

話の内容は昨年9月に杉並区の小学校で行った授業と

とほぼ同様です。

https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/e040d5a31ab2e82f87a9614c4782fac6

 

江戸時代から今まで

幾多の困難を乗り越えて

生き残っている現存12天守の話をしました。

今回、付け加えて

現存12天守ではありませんが、

箱館戦争の

戦火をくぐり抜けてきたのに

昭和24年の役場の類焼で焼失した

当時国宝だった松前城の天守の話を付け加えました。

今、復元天守が乗っている箱館戦争での砲弾跡が残る石垣です。

でも、国宝に指定されていたここにあった天守は

戦火に耐えたのでした。

 

講演後の交流会は大人だけで実施されました。

参加者の皆さんの心にお城がしっかりと位置付いていることを感じました。

お城は心のシンボルなのだということを実感しました。

 

安曇野出身の方は

松本城(藩)とかかわって

加助(貞享)騒動の話をされました。

安曇野の子供たちはみな学校で、

加助騒動ついて学んでいたそうです。

現在松本市が発行しているお城の副読本に貞享騒動についての記述があります。

 

貞享騒動

3代目水野忠直のとき、大きな百姓一揆がおきましした。

これを貞享騒動(加助騒動)といいます。

延宝年間(1673~80)以後に不作が続いたのにもかかわらず、

財政難の藩は領民から年貢を多くとろうとしました。

これに反対する領内284か村のうち274か村の農民たちが団結して、

1686(貞享3)年反対に立ち上がりました。

しかし、わずかな日数で鎮圧されてしまい、

一揆の中心となった安曇郡中萱村(安曇野市)の前の庄屋多田加助たちは処刑され、

家族もろう屋に入れられました。

処刑された人の中には子どももいました。

のちに、これらの人たちは、農民のためにつくした人として

あがめられました。

 

かたむいた城伝説

 多田加助を中心に1万人もの農民が、年貢を減らしてほしいと松本に集まってきました。

あわてた武士たちは、何とかこれをおさめようと考えました。農民たちの要求をいくつか

受け入れ、それを書いた紙を農民たちに示しました。多田加助をはじめ中心となった人た

ちは、さわぎを起こした罪ではりつけの刑にされることになりました。

 加助がはりつけにされる場所には多くの人びとが集まり、念仏をとなえたり、罪を許して

くれとさけんだり、最後にはみなが大声で泣き出しました。「みなのしゅう、わしはみなの

年貢が減らされるのだから、安心して死んでいく。さらは。」と加助がいうと、人びとの

中から「残念ながら、約束の書かれた紙は、おぬしがろうやに入れられた日に役人に取り

上げられた」とおしえる声があがりました。加助は「2斗5升、2斗5升、2斗5升・・・」と

怒りに満ちた声でさけぶと、血ばしった目で天守をぐっとにらみつけました。その瞬間、

恐ろしい地ひびきとともに天守が西にかたむいたのです。

 実際に明治30年代に天守の傾きを直す工事をしています。しかし、これは、天守台の中の

支柱がくさり、かたむいてしまったのです。かたむいた城伝説は、明治になってつくられた

ものです。

 

郷土(松本藩)の歴史をお城とかかわって

後世に伝えていこうとする姿勢が

この副読本の記述からうかがえます。

 

わたしは、この副読本を入手したとき、

内容についてざっと目を通しました。

しかし、加助騒動の記述について、

はっきりと記憶しておらず、

懇談会で副読本の存在を

わたしから話題にしたとき、

加助騒動の記述について

直接触れられなかったのは

残念でした。

帰宅して副読本を調べ

貞享騒動の記述を発見しました。

 

 

岡山で若い頃を過ごされた方は

岡山城の思い出を語って下さいました。

烏城ともいう黒いお城です。

旭川を自然の壕として立っている岡山城の姿が

今でも心に残っているといいます。

 

昨年の朝ドラカムカムエヴリに何回も登場しました。

最近福山城とともにリニューアルされました。

わたしも行ってみたいと思っています。

 

 

世界遺産、国宝姫路城です。

このお城を訪ねられた方は多いようでした。

ここでは、わたしからもお話しました。

暴れん坊将軍で8代将軍吉宗が白い馬に乗り江戸城をバックに登場します。

このロケ地が姫路城なのですが、

吉宗の時代に江戸城の天守はないのです。

明暦の大火(明暦3年1657年)に焼失したからです。

これは一つ確認しておきたいところです。

では、江戸城のロケ地として姫路城は歴史的に適切かについてです。

松江歴史館で江戸始図が発見されて以来

根拠をもつことになりました。

池田輝政(家康の娘婿)が

この姫路城をつくりました。

家康が作った江戸城が姫路城とよくにていることが

分かったのです。

姫路城を試作しておいて

江戸城にその成果を生かしたのでは

ないかという説も出てきました。

江戸城のロケ地としての姫路城は

相応しいといってよいでしょう。

 

お城の楽しみ方は天守や建物だけではありません。

空壕、土塁、石垣などの楽しみ方もあります。

町田に近くて典型的な建物あるお城は小田原城。

建物がなくても空堀や土塁があり山城の雰囲気が味わえるのが小机城。

なんて紹介もしました。

お近くの城から訪ねてみてはと思います。

小学生2人(1年生と3年生)特に1年生には難しい話のようでしたが、

3年生は最後までメモをとりながら一生懸命に聞いてくれたのが

印象に残りました。

彦根城ゆるキャラひこにゃん、

備中松山城猫城主さんじゅうろうの

ような具体物があると

話により興味がもちやすいこと

わかりました。

大人の方との懇談会はとても有意義なものでした。

自分の人生と城との関わり合いが想起されていたように思います。

 

 

 

 

 

 

 


第65回ふうちゃんのお城ブログ ーふうちゃんのファミリーヒストリー(江戸城の石垣)

2023-02-04 14:24:09 | 城郭検定

東京都大田区本羽田に羽田山長照寺という日蓮宗のお寺があります。

創建は1550から98年といわれている古刹です。

ふうちゃんの菩提寺です。

このお寺の1000ある墓地の3分の1が「伊東」家なのです。

羽田空港のある大田区羽田には「伊東」という姓が多いのです。

友人が校長をしていた大田区羽田小学校(ふうちゃんの両親の母校)では

伊東姓の子どもはファーストネームで呼ばれています。

 

一般に、「お名前は」と聞かれて

「いとう」と答えると

「伊藤」と理解されることが多いです。

わざわざ「東」の「いとう」です

と言わないと

「伊東」と理解してもらえません。

 

このお寺を訪問し住職さんから

羽田の伊東のルーツ「ふうちゃんのルーツ」についての話を聞きました。

 

住職さんの話を聞く前の

羽田の「伊東」についてのふうちゃんの理解は

以下の通りです。

半島半島にある伊東の伊東祐親(すけちか)にかかわっていた人たちが

羽田に来て漁師になったというのです。

母の従弟(故人)からおぼろげながら聞いた話です。

御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機の垂直尾翼は

伊豆半島下田沖に落下し

東京湾の入口で発見されました。

確かに伊豆半島冲から東京湾の入口への

潮の流れがあることがわかりました。

 

鎌倉殿の13人にも伊東祐親(浅野和之演)は登場しました。

八重(新垣結衣演)さんの父親、

義時(小栗旬演)の祖父です。

祐親は平家側で

頼朝(大泉洋演)を預かっていましたが、

頼朝は政子の父北条時政を頼り、

祐親は殺されます。

ふうちゃんお先祖は

鎌倉時代のこの時、

羽田に逃げてきたのではないかと勝手に思っていました。

我が家も曾祖父の時代まで

羽田で漁師をしていたことが分かっています。

 

前置きはさておき、

ここからは住職さんの話です。

徳川家康が江戸城をつくるとき

石垣の石を伊豆半島の伊東からも

切り出して船でで運んで江戸にもってきました。

その仕事に伊東家のご先祖がかかわっていたというのです。

仕事が済んだ後

伊豆伊東には帰らず

江戸に残って住み着いた。

羽田にも住み着いた人たちがいたのです。

伊豆は日蓮聖人が流された土地で

日蓮宗の信者が多かったようです。

そこで、羽田に住み着いた人々は

日蓮宗の古刹である長照寺の檀家になったのでしょうか。

 

この話から

伊東祐親から我が家・ふうちゃんまでの空白の部分がつながりました。

鎌倉時代ではなく、

江戸時代に伊東から江戸・羽田に来たのです。

徳川家康は江戸に多くの人々を各地から集めました。

我が伊東家も家康によって江戸に集められた一員であったのです。

わたしは、家康以前のネーチーブ江戸人だと思っていましたが

そうではありませんでした。

 

これから江戸城の石垣をみるとき

我がご先祖様が運んできた石で出来ている。

家康の下で先祖様は仕事をしていたんだと

思うことにします。

石垣の黒い石は伊豆石(安山岩)です。

お城の勉強を始めて6年になります。

私の先祖が江戸城づくりにかかわっていたなんて、

思いもよらない大きな発見です。

真っ先にわたしのお城の師匠故杉渕尚さんに報告したい出来事です。

https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/33d1ed53e559ddd89008e7062e69c091

 

追伸 春のお彼岸の一日

杉渕さんのお墓参りに行くことが出来ました。

大宮にある広々とした霊園の中にありました。

わたしのこの間の城についての思いを報告しました。

・城郭検定試験一級合格

・伊東家のファミリーヒストリーなど