ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第39回 ふうちゃんのお城ブログ 新春特集号ー江戸城の櫓ー

2021-12-31 08:26:15 | 城郭検定

あけましておめでとうございます。

今年も

日本百名城、続日本百名城をめぐっている方々

城郭検定を目指している方々

その他様々なお城を巡りをしている方々に

情報を提供していきます。

よろしくお願いします。

さて、クイズです。

わたしのパソコンの待ち受け画面にはお城があります。

ZOOMの背景画面にも同じお城が出来てきます。

このお城はどこの都道府県にあるでしょうか。

 

 

ヒント 青森県 愛知県 福井県 東京都

正解は東京都です。

これを聞いて意外に思われる方がいるのではないでしょうか。

東京にお城なんてあるのかとお思いの方がいるかもしれません。

このお城は東京都千代田区皇居(江戸城)の中にあります。

江戸城富士見櫓です。

明暦の大火(1657年)で江戸城の天守とともに焼失。

万治2(1659)年富士見櫓は再建され、

代用天守として使われてきました。

 

「今一番好きな城は」ときかれたときには

「江戸城富士見櫓」と答えています。

わたしの名前が冨士雄だからです。

わたしも初めてこの富士見櫓を近くで見たときには

東京にもこんなお城があるのかと驚きました。

わたしがそれまでに訪れた弘前城、犬山城、丸岡城の天守と比べても遜色ないからです。

富士見櫓は立派な石垣の上に建っています。

天守台が標高30mに次いでひょうこう23mの高い所に建っています。

先日、あるところで、「江戸城冨士見櫓の石垣を造ったのはだれか」と聞かれました。

わたしは、不本意にも全く答えられませんでした。

まだ、まだ、知らないことがある。

答えは加藤清正だそうです。

石垣ではありませんが、

わたしの身近な散歩コースにこんな所があります。

池上本門寺の96段ある石の階段です。

加藤清正が慶長(1596~1615)年間寄進したと伝えられています。

そして、昨日(大晦日)に散歩で訪れた本門寺では

清正公生誕460年、此経難持坂(96段の石段のこと)建設400年報恩事業として

三重塔形式の清正公堂再建工事が始まっていました。

 

ところで、江戸城には富士見櫓の他にも現存の櫓があります。

二重橋の向こうに見える伏見櫓です。近くから見ると

土塁の上に石垣を組んで建っています。

次は桜田巽櫓です。

いつでも至近な所から見ることが出来ます。

下の写真は、右から桜田巽櫓、真ん中に桔梗門、左に富士見櫓が見えます。

富士見櫓がこうして普通に見えるところを探すのも江戸所巡りの楽しみです。

 

先日、後輩の結婚式で行ったパレスホテルからは

右奥に富士見櫓、左手前に桜田巽櫓を見ることができました。

今年はお正月の一般参賀が中止になりました。

早く自由に何の心配もなしにお城巡りが出来る日が来ることを願っています。

一般参賀のときに皇居の中に入ると富士見櫓、伏見櫓を至近距離で見ることが出来ます。

 


第38回ふうちゃんのお城ブログ 五稜郭ー見隠塁・刎出し

2021-12-26 09:51:20 | 日本百名城

五稜郭タワーからの五稜郭です。

2006年(平成18年)4月1日に新しい五稜郭タワーが完成したそうです。

五稜郭タワーに上ることによって城の全体像を目にすることができます。

大山古墳にもこのようなタワーがあれば全体像を見ることができるとおもってしまいます。

五稜郭は

五角形の星の形をした西洋式の城です。

長野県佐久市には、同様な龍岡城があります。

稜堡と呼ばれる星形の突角が、五角形状に突出しています。

五稜郭タワーの掲示に上のような地図がありました。

わたしが今回五稜郭でぜひ見たかったのは、

見隠塁と呼ばれる土塁です。

城郭検定の勉強の過程で知ったのですが、

虎口から城の中の様子が見えないようにする土塁を設ける。

一文字土居とか蔀(しとみ)とか呼ばれ

五稜郭では見隠塁とよばれています。

確かブラタモリでも取り上げられたことがあります。

現存では一文字土居といわれるものが高松城(桜御門内部)にあります。

高松城には行ったことがありますが、

その時、一文字土居のことを知らなかったので

わたしはまだ確認していません。

五稜郭では当初の計画では5箇所設けられるはずだったのが

5箇所になってしまったようです。

上記の地図にある半月堡も

5箇所設けられるはずのものが

1箇所になってしまいました。

わたしは、市立博物館で、

五稜郭の初めの計画図を見ましたが、

見隠塁も半月堡も確かに5つありました。

予算と期間の問題で今のようになったそうです。

写真の色で囲んだ1.2.3の部分です。

この写真に写っている五稜郭をタワーからみているときには

1.2.3の存在について確信が持てているわけではありません。

ワクワクドキドキしながら、タワーを降りて五稜郭に向かいました。

1です。

確かにこれならここから中の様子が見えません。腰巻き土塁と言っていいのでしょうか。

石垣が切込接でつんであります。江戸時代の後半に幕府の力で積んだことを感じさせます。

搦手門の橋を渡って真正面に見える土塁が見隠塁です。

3は探すのに苦労しました。

2のように橋がないからです。

橋の跡のような者を見つけました。

そして、この橋の跡を写真で言うと右にありました。

立派な土塁です。これが3です。

立派な土塁です。タワーも写っています。

実に満足です。

前回確認した刎ねだし石垣を載せておきます。

人吉城、品川台場にも見られる刎ねだしの石垣です。

今回解説ではっきり確認できたことがあります。

跳ねだしているのは上から2段目の石ということです。

跳ねだしている石が目立ちますのです、

1段目と思いがちです。

このように下の方から見ると1段目のように見えます。

石垣の上に上ってみましょう。

どうです。

2段目なのです。

手前に一段目があることがわかります。

今回は見隠塁と刎ねだしに絞って五稜郭をみてみました。

(2021.11.28訪問)


第37回ふうちゃんのお城ブログ 松前城2

2021-12-17 09:56:50 | 日本百名城

松前城には2回行ったことがあります。

1回は函館空港からレンタカーで

もう1回は木古内から路線バスで。

今回は、函館からレンタカーを運転していきました。

今回も木古内からの路線バスを考えたのですが、

ロスタイムが多いのと

戊辰戦争の舞台を思い描きたいということで

急遽レンタカーにしました。

戊辰戦争の舞台となったコースを通って運転したくなりました。

それそれの場所でいちいち下車したわけではありませんが、

箱館、七重浜、有川、富川、矢不来、茂辺地、当別、泉沢、木古内、知内、福島、松前と

戦地と言われるところやその近くを通っていきました。

木古内、知内、福島ではタイムを取りました。

余談になりますが、前回、戊辰戦争を意識しなかったときは、

新幹線停車駅(当時まだ駅の工事中)としての木古内

観光地として北島三郎出身地としての知内

横綱千代の山、千代の富士の出身地、

新幹線の北海道の入口としての福島

を意識して下車していました。

しかし、この全てが戊辰戦争の有名な戦場だったのです。

歴史的な知識が加わると旅、運転しながら考えることも違ってきます。

そして、松前城に着きました。

駐車場からの天守です。

この天守は昭和36年に

2千2百万円の町民等の寄付、

五百万円道費助成、

百万円函館市期成会

に町費を加え、

総工費七千六百三二万円鉄筋コンクリートで復元したものです。

この天守を見ると

前にも本ブログに書いたことがありますが、

前天守のことを思うと残念でたまりません。

前天守は

戦争を乗り越え、乗り越えしてきました。

戊辰戦争のとき天守の石垣に打ち込まれた砲弾の跡

第4回ふうちゃんのお城ブログ 戦火をいくつもくぐり抜けてきたのに(松前城天守) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

昭和16年にも国宝に指定されていました。

太平洋戦争終了後の昭和24年6月に

隣の役場の火事に巻き込まれ焼失してしまったのです。

戦後のこの時期に町民らから2千2百万円という寄付が集まったということは

松前城に寄せる町民の思いの深さを感じます。

シンプルでいいお城です。

 

本丸御門(現存)と天守(復元)です。

これは、現存する本丸表御殿の玄関です。

「明治8年、北海道開拓使の命令により福山城(松前城)は、取り壊されたが、

天守と本丸御門、表御殿は残った。

表御殿は松城小学校として、充用され、

明治33年新校舎が完成した後も

この玄関だけは小学校正面玄関として、

昭和57年まで利用されてきた。」(掲示板の説明より)

 

今回の松前城訪問で分かったことです。

土方歳三たちは、初め海側から松前城を攻撃しました。

だから、天守台に砲弾の跡が残っているのです。

しかし、海側に向けた7基の砲台はじめ厳しい守りのため

攻撃は難航しました。

 

五番台場跡

しかし、土方は陸側の守りが弱いことを見つけ、陸側から攻め攻略に成功しました。

これらの攻撃の中で天守、本丸表御門、表御門はよく残ったものです。

今回は戊辰戦争を頭に描きながらの松前城への旅でした。

だから、国宝に値したのでしょう。

(2021.11.26訪問)

 


第36回 ふうちゃんのお城ブログ 白老陣屋

2021-12-11 09:35:58 | 城郭検定

城郭検定の問題は城を見るための視点を提供してくれます。

1855年(安政元年)開国を選択した幕府は、翌年奥州四藩に蝦夷地分担警備を命じた。

各藩は蝦夷地に陣屋を建設したが、この時仙台藩が築いたのはどの陣屋か。

第17回の1級での出題です。

答えは白老陣屋です。

室蘭には南部藩、増毛には秋田藩、浜益には庄内藩の陣屋がありました。

白老は函館から特急で2時間40分かかります。

アイヌ施設ウポポイのあるところとして最近では知られています。

第18回では問題が少し進化しました。

今まではどこの藩が何陣屋を築いたかを問うていたのですが、

その守備範囲が問われました。

安政2年(1855)年、幕府から白老~襟裳岬を経て国後・択捉等を含め蝦夷地の

太平洋沿岸一帯の広大な地域の警備を命じられたのは、どの藩か。

白老から襟裳岬を経て国後・択捉等を含め蝦夷地の太平洋側の広大な地域

選択肢は津軽藩、仙台藩、庄内藩、南部藩ですから、白老が仙台藩ですから

類推し仙台藩と解答、正解でした。

このことがきっかけになり、白老に行きたくなりました。

おとなの休日きっぷを利用して函館に行く機会を利用して白老まで足を伸ばしました。

函館発7:37(北斗3号)

白老着10:23

白老駅で降りたのはわたしたちだけ。

早速、タクシーで白老陣屋に。

資料館に入らず、広い陣屋内を歩いてみることに。

地図の真ん中の内陣屋(グレーの部分)の周辺を歩いてか塩竈神社の階段を上る。

堀の水が凍り、中の落ち葉が透き通って見えます。

外の寒さが実感できます。

このような寒さの中で暮らしていたのです。

塩竈神社が丘の上に勧進してあります。

故郷を偲んでここのお祭りに興じたと言います。

任期は1年でした。

1年の間、藩士たちは

どんな暮らしをしていたのでしょう。

 

 資料館の掲示を紹介します。

 まず、仙台から白老までの道中について触れておきます。

 仙台藩士一行の仙台から白老までの日数は順調に行けば19泊程度だが、

青森で待ち待ち、渡海、それに風水害による滞留などが加わって、

1ヶ月から1ヶ月半かかるのが普通だった。

 蝦夷地に赴く藩士は、仙台の北にあたる堤町で藩主に見送られ、

一ノ関、盛岡、七戸などを通って青森へ。

さらに青森で百石から三百石積み程度の船を雇い、

風を待って、潮の流れの激しい津軽海峡を渡っていった。

箱館からは、8泊程度で白老に着く。

しかし、出張陣屋勤務の藩士たちは、

さらに、陸路を厚岸や根室へ、

また択捉(えとろふ)国後詰(くなしりづめ)の藩士は、

そこから船に乗り任地に向かった。

 

 では、いよいよ、

 白老が任地の藩士たちは、どのような生活をしていたのか紹介します。

 安政3年(1856)年白老に到着した御備頭の氏家秀之進以下の仙台藩士たちは、

会所を仮住まいにして、元陣屋の建設を開始した。

陣屋の建設には仙台から同行の大工や人夫の他、

白老場所請負人野口屋又蔵手配の土方が加わって急ピッチに進められた。

 白老の仙台藩元陣屋には、百名を超す武士たちが駐留して、

北方警備にあたっていたが、

二百数十年に続いた徳川の太平に慣れた武士たちの綱紀のゆるみを

引き締めて士風を鼓舞することは

蝦夷地警備責任者、御備頭にとって最大の任務であった。

毎月1回の兵学講義始め武芸の稽古、火縄銃や大筒の撃方訓練、

さらに実戦さながら訓練を行う修羅前などを積極的に行った。

武士たちの任期は警備開始当初は1年間が殆どで、

春まだ浅い4月頃着任し、翌年、次の勤務者と交替した。

夏の間はともかく、

慣れない蝦夷地の冬は、

武士たちにとっても大変つらかったのではなかろうか。

 とても厳しい生活をしていたようですね。

 陣屋の中に入ってみます。内陣屋です。

地図の下にある詰御問(冠木門)土塁、堀に掛かる木橋

本陣跡

兵具蔵跡

虎口、土橋、真正面奥に詰御門が見えます。

本当に広い内陣屋ですが、詰御門をくぐると外陣屋が広がっています。

北の広大な土地に築かれた陣屋を堪能しました。

城郭検定がなければ知らない城でした。

(2021.11.27訪問)


第35回 ふうちゃんのお城ブログ 初めての箱館(函館)城の旅

2021-12-06 09:45:32 | 城郭検定

函館は今まで何回も行きましたが,

今回は初めて訪れた所について述べてみます。

土方歳三最後の地、四稜郭、北海道東照宮、函館市立博物館です。

まず、土方歳三の最期の地です。

函館駅の近く若松町福祉総合センター内にあります。

函館駅から徒歩15分のところです。

ここで銃撃戦が展開され土方が倒れたとは、

今の町の様子からは信じられません。

函館市街地が戦場だったことを改めて認識しました。

学生時代青函連絡船で初めて着いた函館駅。

ここから石川啄木の銅像がある大森浜まで徒歩で往復したのが函館での第一歩でした。

それから何回も函館を訪れましたが、

本当にここに来たのは初めてです。

ここから四稜郭へタクシーで向かいますが、

運転手さんに何回も

「五稜郭ではないんですよね」と確認されました。

城の勉強するまでその存在を知らなかった四稜郭です。

四稜郭の解説です。五稜郭を守るために建設されました。

東照宮を守るためとも言われています。

蝶が羽を広げた形に土塁なっている四稜郭。四隅に砲台がありました。

虎口です。

虎口から土塁に上り眺めてみました。右奥が砲台があった場所かもしれません。

土塁に囲まれた中は広々としています。建物はありませんでした。

正面奥が蝶の羽でしょうか。

300名で数日がかりでこれを造ったと言います。

次は北海道東照宮です。

四稜郭の近くのはずですが、運転手さんが道に迷いました。

会社に連絡し、無線で誘導したもらいやっと着きました。

初めここにあり、場所を何度も替え、また、ここに戻ってきました。

旧幕府の人たちには、東照宮は心のよりどころだったにちがいありません。

最後は函館市立博物館です。

ここで見たかったものは、志苔館近くの道路から発見された古銭です。

越前焼きの壺に入っていたといいます。

ブラタモリでもやっていましたが、

越前焼きの壺に入っていた古銭の発見は、

北前船の日本海航路を通じて交流があったことを

示しているそうです。

他にもこの博物館には函館の歴史に関する資料があります。

時間をかけて資料に浸るのも一興かと思います。

(2021.11.25訪問)