ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第44回ふうちゃんのお城ブログ 写真との新たな出会い 松江城、福知山城

2022-02-21 09:17:47 | 城郭検定

前回、名古屋城表二の門と盛岡城烏帽子岩の写真との新たな出会いについて述べました。

ところが、驚いたことに、

まだ、写真との新たな出会いがあったのです。

お城には、そのお城で最も有名な城主の銅像があることが多いです。。

この類似の写真を見せられて、写真の築城者の像は

浜松城、松江城、白石城、今治城のうち

どの城かを問われました。

浜松城の青年時代の徳川家康

今治城の藤堂高虎

の銅像は知っていましたが、

これは知りませんでした。

答えを知った後、

また、デジタルカメラのSDから

この城の写真を探しました。

「あった」

「驚いた!」

SDに治めれれている写真ファイルで

2018.11.19付けで、一番初めに

この写真が出てきました。

松江城の堀尾吉晴公です。

一番初めに出てきたと言うことは、

松江城で一番初めに撮った写真ということになります。

しかし、忘れていて記憶にありません。

どうしても、記憶力の衰えを実感してしまいます。

 

福知山城でも似たようなことがあったのです。

問いはこうです。

福知山城内にある現存の建物は?

小天守、二重隅櫓、長屋門、銅門(あかがねもん)番所

正解は銅門番所。

この4つの建物について記憶がないのです。

調べました。

インターネットで。

銅門番所の写真を見つけました。

そして、福知山城に行ったときに写した写真のSDを調べました。

あったのです。

この写真が。

銅門番所

福知山城の天守、その石垣の転用石についての記憶は鮮明にあるのですが、

現存の建物があること。

それが銅門番所だということについては、

全く記憶がありません。

おそらく、行く以前から

これは、ぜひ見てこようという

対象になっていなかったと思われます。

予習不足なのです。

一つのお城をじっくり見るのではなく、

一度いくつも廻るときに起きがちです。

 

お城を訪ねたときではなく、

帰ってきてから

それもかなり時間が経ってから

事実を知り、

行ったときのSDから

写真があることに気付いた事例をあげてみます。

 

久保田城の手水鉢

石田三成から佐竹の殿様が譲り受けたといいます。

 

姫路城の備前門

解説にあるとおり古墳の石棺が使われています。

 

彦根城太鼓

太鼓門を問われる機会がありました。

掛川城の太鼓櫓と勘違いしてしまいました。

太鼓櫓門のことを知りませんでした。

だから、解説にある

「櫓門としては珍しく、その背面が開放されて高欄付けの廊下になっています。」が

わかる写真は写していません。

ネットに掲載されている写真には、

高欄付けの廊下があります。

再度、現地で確認してみたいものです。


第43回ふうちゃんのお城ブログ 写真との再開・名古屋城表二の門と盛岡城烏帽子岩

2022-02-13 17:19:56 | 城郭検定

お城の写真との新たな出会い

城郭検定1級で

昭和20年(1945)5月14日の名古屋空襲で焼失を免れた門が問われました。

これについては、全く知識がありませんでした。

選択肢は、

1 東二の門

2 表二の門

3 東一の門

4 表一の門

です。

あの空襲を生き抜いて

今、その門が存在すること自体

感動ものです。

発表された解答(正解)を見て、

早速ネット調べてみると、

確かにその門は現存しています。

写真も出ています。

でも、何だか初めて見るような気がしません。

ひょっとしたら、当日写した写真ファイル(SD)中にあるかもしれません。

 

わたしは、お城に行ったとき基本的に

一眼レフのデジタルカメラを使っています。

そして、facebookやブログに必要な写真だけをSDからコピーしてiphoneに保存しています。

このとき意図的に写したかったのは本丸御殿と西北隅櫓です。

この写真はiphoneにあります。

西北隅櫓

 

全く意識していなかった写真は

iphoneにはありません。

名古屋城を訪れた2019年1月20日の写真が保存してあるSDファイルから

目的の写真を探しました。

「あった!!」

「ありました!!!」

表二の門(正解)」と

その「解説」の写真を見つけました。

それがこれです。

表二の門(名古屋空襲から生き延びたのです

表二の門の解説

おそらく、名古屋城で、

あまり意識しないでシャッタをいくつも押したものと思われます。

意図的に目指したものを撮る。

その他に、

目に付く物をとりあえずシャッタを押す。

デジタルカメラを使うようになってから多くなりました。

 

こうして、上記の表二の門と解説の写真と新たな出会いをすることになったのです。

表二の門がわたしの記憶にとどめられることになるでしょう。

それとともに無性に実際にこの目で表二の門を見たくて仕方がありません。

 

このようにみてくると、

同じような写真との出会いはいくつもあります。

盛岡城にある巨石です。

この写真は2016年9月1日5にわたしが確かに撮ったものですが、

すっかりその存在を忘れていました。

あるところで

他人が写したこの石の写真を見せられて

写真の巨石は

苗木城 岐阜城 盛岡城 金田城の

どこにあるかを問われました。

これもお手上げでした。

正解が盛岡城と知って調べました。

神社のご神体になっています。

記憶が少し蘇り、

SDを調べ、

上記の写真ともう一枚を見つけ出しました。

烏帽子岩といいます。

記憶が薄れます、記憶に残りません。

しかし、シャッターを押したことの証拠が残っています。

このような写真との再開も城廻(城郭ウオッチング)の楽しみ方の一つとしておきたい。

 


第5回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ 太閤さんの大坂で、庶民の支持を得る苦労(大坂城西の丸乾櫓)

2022-02-05 09:20:10 | 旅行

2019年11月25日

続百名城を山口県の高嶺城・大内氏館で終了し

新たな展開のスタートに選んだのは

大阪でした。

当時の写真をファイルから取り出してみると

コロナ禍以前の元気な大阪がありました。

道頓堀でたこ焼きを

法善寺横町で夫婦善哉を

食べました。

このとき、

今日の日本の状況を想像できませんでした。

本当に幸せな時でした。

なぜ、大阪を選んだのか?

大坂城西の丸乾櫓を意図的に見てみたかったからです。

城郭検定の勉強を通して知りました。

元和6年(1620年)に建てられた大坂城で現存する最も古い櫓のひとつです。

大手口から京橋口と大阪城の2つの入り口を望むことができ、

南の上町筋方面、西の高麗橋、東北の京街道を望むことができます。

城の外側監視できる最適な移置にあったのです。

外からも非常に目立ち、

江戸時代、大阪市中に向かう人は、

高麗橋を渡って乾櫓を表面に望みつつ東へ進み、

堀端近くで乾櫓を左に曲がり、

京に入ったそうです。

この櫓の特色は、

L字型をしていること。

1階と2階の平面がいずも同じ広さ(186.23平方メートル)になっていること。

これは、いわゆる重箱櫓になっていて非常に珍しいものです。

わたしは、同類の岡山城西の丸西手櫓(上)、臼杵城畳櫓(下)を見たことがあります。

 さて、この乾櫓について調べていたら、次のような話がありました。

 江戸時代初期の事、3代将軍の徳川家光が地子銀(土地にかかる税金)を免除を決定することにしました。

 これに先立ち幕府は、あらかじめ有力町人に「高麗橋筋にある隅櫓前」集まるよう命じ、

櫓から将軍自ら采配(軍配)をかざすので、それが地子銀免除の合図だと伝えました。

「高麗橋筋にある隅櫓」とは乾櫓のことです。

当日、未明から集まった町人は堀端から乾櫓を見つめました。

やがて、家光は櫓から金の采配を出し、

集まった町人たちは「ありがたい」と歓声をあげたといいます。(大坂御三郷御執立伝承記)

 大坂三郷は年間銀178貫934匁を永代免除され、

大坂が天下の台所として発展する一つの要因になったと言われています。

大坂三郷とは、大坂市中を南組・北組・天満組に分け、

各組に惣会所が置かれ惣年寄りが事務を行っていました。

 太閤さんの人気が絶大な大坂を徳川家が治めるためにいろいろ策を練ったこと分かる話です。

 家光自ら「金の采配(軍配)」をふるのを見た大坂町人はどう思ったことでしょうか。

 この地子銀免除を記念して「仁政の鐘」が鋳造され時報として使われていたそうです

。この鐘は大阪市中央区釣鐘町にあるそうです。

 一度行ってみたいものです。

「地子銀免除と仁政の鐘」については、

 大坂城に行った後、資料を調べて知ったことです。

 わたしは、実際に現地に行った後、

 資料を読むことが多いので、

 その結果また行きたくなることが多いのです。

  乾櫓もそうです。

 乾櫓のことは百名城巡りをしてから知りました。

 この前2回も大坂城に行ったことがありましたが、

 天守を見て満足していました。

 西の丸庭園の受付で

「乾櫓を内側から見たいだけなので、ただにはならないか」

 と聞いたけれどだめでした。

 これは乾櫓のL字型を内側(西の丸庭園)から見たものです。

台湾から来た学生さんにシャッターを押してもらいました。

下手な英語でL字型と重箱櫓について説明しましたが、

果たしたわかってもらえたでしょうか?

 重要文化財 乾櫓 平成23年11月 大阪市ゆとりみどり振興局を参考にさせていただきました。

 

 


第42回 ふうちゃんのお城ブログ 諏訪原城

2022-02-01 13:22:48 | 城郭検定

諏訪原城(静岡県島田市)を訪ねるのは2018.10以来2回目です。

初めて訪ねたとき、二の丸北馬出に薬医門が復元されていました。

曲輪の中に薬医門だけが立っていました。

昨年6月に城郭検定を受けたとき

次のような問題に出会いました。

写真のような枠組みだけの塀が再建された城はどれかという問題です。

(この写真は2021.12.22伊東撮影トリミングあり)

諏訪原城が正解だったのですが、

わたしが見た諏訪原城は、

前掲の薬医門だったので、諏訪原城を答えることは出来ませんでした。

その枠組みが見たくて今回の訪問になりました。

遠くからみるとこんな感じです。

工事中のために、二の丸北馬出に入ることは出来ませんでした。

では、なぜ、このような枠組みだけの塀ができたのでしょうか。

調べてみました。

城郭検定協会のHP城びとで加藤雅文さんが

次のような解説をしています。

【理文先生のお城NEWS解説】第33回 諏訪原(すわはら)城跡(静岡県島田市)の整備事業 (shirobito.jp)

(内緒の話→城郭検定に加藤さんのHPから城郭検定に出題されることが多い。)

二の曲輪北馬出の史跡整備事業は平成25年(2013)から始まり、

薬医門が平成29年に復元されました。

しかし、「薬医門を含む二の曲輪北馬出が、

戦国時代にどのような役割を持つ曲輪であったか」

ということが、

まだまだ分かりにくい状態でした。

そこで、薬医門の左右に取りつく土塀と土塁を復元し、

往時の防御構造が一目で解るような整備を試みたのです。

ところが文化庁の復元検討委員会からは、土塀と土塁の復元を許可はするが、

土塀は遺構が確実ではないので、骨組みだけにするようにとの指示を受けたのです。

そのため、令和2年(2020)度の工事では、復元した薬医門(城門)の東側の土塁と、

その上の土塀の柱と屋根が設置されたのです。

令和3年度の工事では、薬医門西側の土塁などの整備を進めていく予定です。

今年度の復元は、

極めて違和感があり、

かえって見学者に混乱をきたしています。

「壁はなかったのですね」

「自由に行き来できておかしいですよね」

「工事現場みたいです」等の意見が寄せられています。

確実でないなら、看板等に明記すればすむことです。

復元検討委員会も、

見学者目線にたった整備について考えてほしいものです。

文化庁は、史跡の活用を訴えていますが、

こうした事例からも見学者の利便性や見やすさ、

使いやすさを考えた活用方法から、

かけ離れないかが心配です。

 

復元に難しい問題が含んでいることを具体的に示す事例です。

加藤さんの指摘にわたしは賛成です。

 

さて、諏訪原城と言えば、丸馬出と大きな三日月掘のような大きな深い外堀です。

その様子を写真で楽しんでください。

北馬出の薬医門の屋根が右端に見えます。

外堀です。

堀をまたぐ土橋も見事です。

ここでの戦いの様子を具体的にイメージさせてくれます。

(諏訪原城ビジターセンター)

武田氏が造ったといわれていましたが、

徳川氏の手が加わっているということです。

この諏訪原城の大きな堀は、何度見ても本当に感動します。

機械のない時代人の手でよくこんな大きな堀を造ることができたものだと。

 

追伸

諏訪原城のビジターセンター駐車場の対面に、

諏訪原園茶舗さんの無人販売所があります。

サツマイモ6個入り、番茶140gともに300円です。

オススメです。妻によるとサツマイモは特に安いとのことです。

(2021年12月22日に訪問)