ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第56回 ふうちゃんのお城ブログ 番外編 教材ウオッチング 嬬恋村愛妻の丘

2022-08-10 10:44:24 | 旅行

今回はお城ではなく群馬県嬬恋村愛妻の丘です。

嬬恋村の「嬬恋」は

日本武尊が東征の鳥居峠(長野県上田市と群馬県嬬恋村の県境)に立ち

海神の怒りを鎮めるため

海に身を投じた愛妻の弟橘媛を「吾嬬者耶」(あづまはや)

「わがつまよ」と追慕した古事に因んでいます。

 

キャベツ畑に囲まれた愛妻の丘の展望台に夫が立ち

妻に愛の言葉を叫ぶという行事が9月初旬に行われています。

展望台は常設されていますのでいつでも

叫ぶことができます。

後ろの台が愛を叫ぶ展望台

左の石の台がキャベチューする2人の位置を示す足形のある台です。

展望台の近くに

愛妻家テルミ原則の掲示があります。

なかなか含蓄のある内容です。

日常的に実践したいものです。

ここに来るといつもそう思いますが。

日常化は????としておきます。

 

さて、ここから教材ウオッチングです。

この写真から嬬恋村のキャベツ作りの工夫や努力を読み取ることができます。

地元の方から伺った話です。

今(8月中旬)が一番忙しい季節です。

午前2時から畑の作業をする。以下の3つの作業を同時に行う。

1 出荷。トラックの中には収穫したばかりのキャベツを積んでいる。

2 奥に見える耕運機は、新たな種を蒔くために畑を耕している。

(これは別の場所ですが)

3 消毒。(これは写真に写っていません)

1,2に関わることですが

嬬恋村ではキャベツを年2回植えて2回収穫しています。

言うならば「キャベツの2期作」をしているのです。

今(8月)に植えたキャベツは11月に収穫するそうです。

嬬恋村には何回も取材に行っていますが

今回初めて知ったことです。

収穫したキャベツを運んでくるトラックと出荷するトラックです。

畑一面のキャベツをみると

ザッツ「嬬恋村」という匂いがしてきます。


第11回(修正・再掲版)ふうちゃんのお城ブログ 久しぶりにお城へ。龍岡城(長野県佐久市)

2022-04-02 09:12:35 | 旅行

昨年投稿したものに田口小学校の教育実践を加えて再掲します。

昨年2021年5月に軽井沢から 

久しぶりにお城に行きました。

函館の五稜郭は、星形のお城として有名です。

本ブログでもすでに紹介しています。

第38回ふうちゃんのお城ブログ 五稜郭ー見隠塁・刎出し - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

もう一つ星形のお城が、国内にあるのを知っていますか?

長野県佐久市にある龍岡城です。

軽井沢から車で1時間程度です。

 

蘭学やフランス語を学び、特に火砲・築城技術を熱心に学んだ、

大給(おぎゅう)松平氏最後の藩主松平乗謨(のりかた)によって

慶応3年4月に、西面・南西面の石垣を除き完成しました。

家臣にも積極的に洋学の勉強を奨励しました。

明治になって大給恒(おぎゅうゆずる)と名乗り、

佐賀県出身の佐野常民とともに博愛社を創設し、

日本赤十字社の礎を築いています。

 

このお城には今まで、数回来ましたが、函館の五稜郭のように、

高いところから見える五稜郭タワーがないので、

地図や石垣・掘りの様子から星形を想像するしかありませんでした。

しかし、今回、案内所で地図をもらい、車で細い道を裏山に登り、

田口城という山城の一部が

展望台の一部になっています。

龍岡城を見ることが出来ました。

それがこの写真です。

八ヶ岳を背景とした、龍岡城を眺めることが出来ました。

お掘りと石垣に囲まれた星形を確認することができます。

後者の右の方には、現存する唯一の建物お台所を見ることが出来ます。

今回、このお台所も公開されており、初めて中に入ることができました。

お城の敷地は現在佐久市立田口小学校として利用されています。

文化財と共にここで学ぶ子どもたちは、

幸せだと思います。

展望台で、ここから初めてお城と母校を見たという卒業生の若い女性に会いました。

学んでいるときは何も感じなかったが、

外に出てみて今「素晴らしい学校で学び誇りに思う」と言っていました。

この話を聞いて、この学校の中でどんな教育が実際に行われているか

わたしの本来の仕事は教育(小学校と大学の社会科教師)なので

少し、調べてみました。

実は素晴らしい教育が実際に行われていることが分かりました。

その一部を紹介すると

○4年生の五稜郭学習(観光ボランティア、観光案内、お掘りの清掃、パンフレットづくり)を行う。

○コロナ禍においても5年生か日本赤十字社長野支部の協力を得て

キャンプや修学旅行の宿泊学習を実施する。

などです。

(社会科の初志をつらぬく会 考える子ども 第405号参照)

龍岡城と築き、日本赤十字社の礎をつくった大給恒(おきゅうゆずる)の精神が

今に引き継がれているように感じました。

 

しかし、来年。令和5年4月お城の中の学校は、

他校と統合され、なくなってしまうそうです。

お城の中の学校を継続させたいと思うのはわたしだけでしょうか。

実際のお城に触れた後のレポートは書いていて楽しいです。

 

 

 


第5回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ 太閤さんの大坂で、庶民の支持を得る苦労(大坂城西の丸乾櫓)

2022-02-05 09:20:10 | 旅行

2019年11月25日

続百名城を山口県の高嶺城・大内氏館で終了し

新たな展開のスタートに選んだのは

大阪でした。

当時の写真をファイルから取り出してみると

コロナ禍以前の元気な大阪がありました。

道頓堀でたこ焼きを

法善寺横町で夫婦善哉を

食べました。

このとき、

今日の日本の状況を想像できませんでした。

本当に幸せな時でした。

なぜ、大阪を選んだのか?

大坂城西の丸乾櫓を意図的に見てみたかったからです。

城郭検定の勉強を通して知りました。

元和6年(1620年)に建てられた大坂城で現存する最も古い櫓のひとつです。

大手口から京橋口と大阪城の2つの入り口を望むことができ、

南の上町筋方面、西の高麗橋、東北の京街道を望むことができます。

城の外側監視できる最適な移置にあったのです。

外からも非常に目立ち、

江戸時代、大阪市中に向かう人は、

高麗橋を渡って乾櫓を表面に望みつつ東へ進み、

堀端近くで乾櫓を左に曲がり、

京に入ったそうです。

この櫓の特色は、

L字型をしていること。

1階と2階の平面がいずも同じ広さ(186.23平方メートル)になっていること。

これは、いわゆる重箱櫓になっていて非常に珍しいものです。

わたしは、同類の岡山城西の丸西手櫓(上)、臼杵城畳櫓(下)を見たことがあります。

 さて、この乾櫓について調べていたら、次のような話がありました。

 江戸時代初期の事、3代将軍の徳川家光が地子銀(土地にかかる税金)を免除を決定することにしました。

 これに先立ち幕府は、あらかじめ有力町人に「高麗橋筋にある隅櫓前」集まるよう命じ、

櫓から将軍自ら采配(軍配)をかざすので、それが地子銀免除の合図だと伝えました。

「高麗橋筋にある隅櫓」とは乾櫓のことです。

当日、未明から集まった町人は堀端から乾櫓を見つめました。

やがて、家光は櫓から金の采配を出し、

集まった町人たちは「ありがたい」と歓声をあげたといいます。(大坂御三郷御執立伝承記)

 大坂三郷は年間銀178貫934匁を永代免除され、

大坂が天下の台所として発展する一つの要因になったと言われています。

大坂三郷とは、大坂市中を南組・北組・天満組に分け、

各組に惣会所が置かれ惣年寄りが事務を行っていました。

 太閤さんの人気が絶大な大坂を徳川家が治めるためにいろいろ策を練ったこと分かる話です。

 家光自ら「金の采配(軍配)」をふるのを見た大坂町人はどう思ったことでしょうか。

 この地子銀免除を記念して「仁政の鐘」が鋳造され時報として使われていたそうです

。この鐘は大阪市中央区釣鐘町にあるそうです。

 一度行ってみたいものです。

「地子銀免除と仁政の鐘」については、

 大坂城に行った後、資料を調べて知ったことです。

 わたしは、実際に現地に行った後、

 資料を読むことが多いので、

 その結果また行きたくなることが多いのです。

  乾櫓もそうです。

 乾櫓のことは百名城巡りをしてから知りました。

 この前2回も大坂城に行ったことがありましたが、

 天守を見て満足していました。

 西の丸庭園の受付で

「乾櫓を内側から見たいだけなので、ただにはならないか」

 と聞いたけれどだめでした。

 これは乾櫓のL字型を内側(西の丸庭園)から見たものです。

台湾から来た学生さんにシャッターを押してもらいました。

下手な英語でL字型と重箱櫓について説明しましたが、

果たしたわかってもらえたでしょうか?

 重要文化財 乾櫓 平成23年11月 大阪市ゆとりみどり振興局を参考にさせていただきました。

 

 


第20回ふうちゃんのお城ブログ 続日本百名城でオリンピックが(品川台場)

2021-08-09 16:30:41 | 旅行

昨日で東京2020オリンピックが終了しました。

日本選手の活躍をテレビで見ていて感動しました。

前回の東京オリンピックは高校1年のときで

エキジビションの野球を神宮球場に見に行き、

その隣にある国立競技場に聖火が点っていたのを今でも覚えています。

さて、

東京のお城が東京2020の競技会場になったのをご存じですか。

 

では、ここでクイズです。

東京に日本百名城と続日本百名城が合わせていくつありますか。

1 2つ 2 4つ 3 6つ 4 8つ

答えは 2 4つです。

百名城が 江戸城(千代田区)と八王子城(八王子市)

続百名城が 品川台場(港区)と滝山城(八王子市)です。

4つのうち2つが八王子市にあるなんておどろきです。

 

品川台場(続日本百名城NO124)がトライアスロンの競技会場になりました。

台場とは、砲台、つまり大砲を置く「台」となる場所のことです。

品川台場は嘉永6年(1853)6月のペリー艦隊来航を受けて

同年8月より伊豆韮山代官江川英龍による品川台場工事が開始されました。

計画は海上に約12基の台場を造築するはずでしたが完成したのは6基のみです。

一度も火を噴かぬまま明治を迎えました。

今は第3台場と第6台場しか残っていません。

レインボーブリッジの歩道から第3台場と第6台場の全体像を見ることができます。

第3台場(レインボーブリッジから)です。

第三台場の向こうに海(湾)や砂浜が見えます。ここがスイムの会場です。

あまりきれいな海水でないので問題になっていたと思います。

その向こうにフジテレビやホテル群が見えます。

第3台場は公開されていて砲台跡や兵舎跡(礎石のみ)弾薬庫跡などを見ることができます。

五稜郭にあるような跳ね出しのついた石垣もあります。

第6台場(レインボーブリッジから)

ここは、レインボーブリッジからでないと見えません。

残念ながら公開されていません。

自然の楽園になっているそうです。

 

江戸時代、幕末(今から168年前)に戻って絵図を一枚。

平和の祭典オリンピック会場(お台場)が、

なんと物々しい警戒をなされていたことでしょう。

このような歴史の変遷を経て今があるのです。

今もコロナとの戦い真っ最中ですが、

168年後にはどんな光景が展開されていることでしょうか。

 


第19回ふうちゃんのお城ブログ 赤門との再会(黒井城 続日本百名城163)

2021-08-04 11:27:37 | 旅行

続日本百名城163 黒井城(兵庫県丹波市春日町黒井)と言われて

「はあ。あのお城ね」とイメージ出来る方はどれだけいるでしょうか。

おそらく、少ないのではないでしょうか。

国宝現存天守の

「姫路城、彦根城、犬山城、松江城、松本城」なら

多くの方がイメージできると思います。

黒井城について、昨年の大河ドラマ「麒麟がくる」(明智光秀)で少し触れられていたと思います。

(記憶が確かでありませんが)

明智光秀が信長に命じられた丹波攻めで苦戦を強いられた城なのです。

丹波の赤鬼 悪右衛門 荻野(赤井)直正の活躍で、一回目は敗退します。

俳優の赤井英和さんはその血統を今に継ぐ方です。

二回目直正が病死した後、光秀が攻略することができたのです。

 

わたしが黒井城を訪れたのは、今から2年前の2019.8.31のことです。

大河ドラマ「麒麟がくる」の放映前です。

続百名城巡りの一環として、

出石(いずし)城(兵庫県豊岡市出石)

福知山城(京都府福知山市)

鎌刃城(滋賀県米原市番場)

八幡山城(滋賀県近江八幡市)

玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根、滋賀県長浜市余呉町)

とともに訪れました。

ここで挙げた続百名城のお城。

馴染みのあるものが少ないのではありませんか。

わたしがそうなのです。

続百名城のリストを初めて見たとき、(2018.4.6)

行ったことがあるお城は、何と11でした。

前にも触れましたが百名城だと行ったことがある58。

知らなかったお城は、根室チャシ、箕輪城、金山城、鉢形城など

10もありません。

要するに続百名城は一般的に

無名の城が多いのです。

 

そこで、今回の本題に入ります。

黒井城との再会です。

それは、2021.6.13

城郭検定試験1級の問題の中なのです。

 

白黒写真が提示され

登城時の中腹に写真の「赤門がある」どれか。

1岩尾城 2黒井城 3八上城 4八木城

 

実際に行ったことがあるのは、2黒井城だけです。

4八上城は 明智光秀の丹波攻めに出てくる城なので知っています。

「麒麟がくる」では、登場しませんでしたが、光秀の母が処刑される場面がありました。

行ったとき門があり、休憩したことが記憶にあったので

2黒井城とマークしました。

実際に、現場を知らないと回答しにくい問題です。

そして、試験終了後この写真を携帯の中から見つけました。

赤門とは2年ぶりの再会といってよいでしょう。

携帯の中で眠っていたのです。

 

実は黒井城とは、昨年の11月、今回6月と別の問題で再会しているのです。

「明智光秀の丹波攻めに抵抗を続けた黒井城だが、落城後重臣の齋藤利光が入った。

その後天正12年(1584)小牧長久手に際し、徳川家康方としてこの城に籠もったのはどれか。

1 赤松氏残党 2 赤井氏残党 3 荻野氏残党 4 三好氏残党 」

 正解は 2赤井氏残党です。

 初めて昨年の11月にこの問題にで出会ったときには、赤井の赤鬼の関連だと感でで答えて正解を得ました。 

今回6月は、過去問ということで答えがわかっていたので正解できました。

城郭検定は問題を通してこのような新たな知識を提供してくれます。

100問の問題の中で同じ城について複数の問題がでることはそう多いことではありません。

きっと、黒井城が出題者側で注目したい城なのかもしれません。

黒井城は保月城とも呼ばれています。この写真をみると行ったときの晴天を思い出します。

この石碑の後ろに写真撮影用の三脚が置いてあり、このように写真撮影ができるような配慮がありました。

ありがとうございます。

最後に、明智光秀も齋藤利光も赤井直正も見たであろう黒井城からの丹波の景色を提供します。