ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第4回ふうちゃんのお城ブログ 戦火をいくつもくぐり抜けてきたのに(松前城天守)

2021-03-23 12:08:52 | 旅行

松前城は嘉永2年(1849年)築城の許可おりて、やっと築城された北海道唯一の日本式のお城です。

松前城本丸御門(上)、本丸御殿玄関(下)です。松前城で現存している建物です。

それ以前は慶長5年(1600年)から築かれた福山館という陣屋がありましたが、外国船の出没に備えて

守りを固めるために本格的なお城が必要になったのです。7基の砲台と25門の大砲を備えていましたが、

海への防備が主体になっていたため、背後が手薄でした。

砲台跡です。

戊辰戦争の際土方歳三らの旧幕府軍に背後から攻められて落城しました。

天守の石垣に残る戊辰戦争時の砲弾の跡です。

しかし、天守は残ったのです。太平洋戦争で多くの天守が焼失する中で、松前城の天守は健在でした。

ところが、昭和24年(1949年)近くの役場からした出火した火が燃え移り焼失していまいました。

今、12の現存天守がありますが、松前城の天守があれば、13現存天守ということになったはずです。

昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリートで再建された天守です。

今、木造の天守を復元しようと計画が話題になっているそうです。

現在の松前城全景(雪景色)なかなか趣があります。

戊辰戦争などをくぐり抜けたきた本丸御門と再建の天守

戦火をいくつもくぐり抜けてきたのに、天守が失火したことは、残念でたまりません。

今あれば、国宝に指定されたのではと言われています。


第2回ふうちゃんのお城ブログ 我が家から近い城(小机城)

2021-03-20 11:01:02 | 日本百名城

 サッカーの競技場(ラグビーワールドカップの会場にもなった)「日産スタジアム」への下車駅

JR横浜戦小机駅がある。ここから日産スタジアムとは反対の方向へ徒歩15分、

戦国時代の城「小机城」があることは、

続日本百名城めぐりを始めるまでは知らなかった。

城には、いろいろなドラマが展開されている事が多い。

太田道灌が詠んだ狂歌といわれるものがある。

「小机はまず手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」

 その意味は

「小机城なんざ手習いの初めのようなもので、いろはにほへと書くように落としてみせる」となる。

伊東潤「歴史作家の城めぐり」(電子版)

太田道灌が小机城を攻めるときに詠んだ狂歌で、士気を鼓舞して攻め落とした。

道灌本人の歌かどうかは不明だそうである。

太田道灌(1432-1486)がこの小机城で勝利を収めたことは確かである。

その勝ち誇った姿は、どのようなものだっただろうか。

 

 時代を経て小机城は小田原の北条氏のものとなった。

上杉謙信の死後、跡継ぎを巡って争われた御館の乱。

上杉景勝と争って破れた北条(長尾)三郎。

越後に向かうまでの二ヶ月間、小机城の城主なっている。

小説の世界だが、好きな女性と幸せな日々が描かれている。(伊東潤「北天蒼星」)

 

このような、過去の歴史をひもときながら城めぐり(城郭ウオッチング)をしている。

城に行くことを「登城する」と一般的に使われているようだが、この言い方にいささか抵抗がある。

封建時代の家来が殿様のもとにはせ参じるのではないので、何か相応しい言い方はないかと思いを巡らせていた。

わたしは、社会科の教師として、教材ウオッチングをしながら教材開発をライフワークとしてきた。

「そうだ。」

「ウオッチングだ。」

ということで、「教材ウオッチング」の一環として「城郭ウオッチング」を組み込むことにした。

 

昨今のコロナによる自粛生活が続くと、道灌や三郎に思いをはせながら小机城を歩いてみたいと思う。

ここにある写真は、今、紹介した道灌や三郎のストーリーを知る前に撮ったものである。

土塁、空堀、曲輪がはっきり見て取れる。

冠木門が曲輪に復元されている。

下の写真は、小机城から日産スタジアムを眺めている。

改めて、道灌や三郎のストリーを頭に描きながら、

小机城をウオッチングしてみたいと思っている。


第1回ふうちゃんのお城ブログ わたしの好きな城(江戸城冨士見櫓)

2021-03-19 12:19:18 | 旅行

百名城を何カ所か巡った後、皇居の一般参賀でこの城を目にしたとき、

こんな立派な城が東京にあったことに驚いた。

2019年1月2日のことである。

その名は江戸城冨士見櫓。

慶長11年(1606)頃創設された江戸城に唯一現存する三重櫓である。

明暦の大火(明暦3年1655)の際、天守と共に焼失した。

しかし、2年後、復元した。

関東大震災(大正12.1923年)で壊れたが、2年後セメント修復された。昭和42年(1967)の修理で旧態の白漆喰総塗籠の大壁に戻された。

保科正之の提言で天守は復元されていない。

天守なき江戸城にあって、この冨士見櫓が天守の代用とされた。

三階櫓で、地方の城の天守と比べても遜色ない姿をたもっている。

日本百名城、続日本百名城を4年かけて巡ってきたわたしの今、一番好きな城である。

わたしの名前も冨士雄である。